曇天。病み模様。
日中、美稲の両親が共働きで家にいないのは承知の上なので、遠慮も無遠慮も無く二瓶家の玄関へ駆け込む。幼少から度々訪れていた場所なので、勝手もそれとなく、許されるようになっていた。そうでなくとも、今はそんな場合じゃないが。
ドタドタと躊躇いなく階段を駆け上がり、丁度僕の部屋の窓を開けた向こうに見える位置にある彼女の部屋へ。典型的な幼馴染で助かった、部屋に入る時に躊躇する理由がないから。それでも、あるにはあるのだけど。美稲の現状を、僕は受け止められるだけの気概を持っているだろうか。耐えられる程度の、症状であってくれるだろうか。考えを纏めきるより前に、蹴破る勢いで木製のドアを開けた。微かに軋む音は完全に無視し、僕の五感の全ては、ベッドの傍に座りこむ美稲に向けられる。
目に飛び込んでくるのは、鮮烈な赤。
予想はしていたが、それでも見ていて気分の良いものではなかった。吐いたのだろう、血が、フローリングの床にこびりついている。ぼうっとその床を眺めている美稲の顔が、ゆっくりと僕を向いた。
「顕正」
来たの? と、続ける。来たよ、来るにきまってる。安堵がせり上がってくるが、まだ早いだろう。
「美稲、吐いたのはこれだけか?」
「うん、二度、堪えられなくて」
「そっか、なら良かった。十度二十度、止まらなかったら死ぬからな」
「うん、解ってる」
「……気分は? 悪くない?」
「うん、顕正が来たから、とっても不機嫌を損なったわ」
「わざわざ分かりにくくしなくていい」
悪くは無い、と。でも、機嫌と気分は別モノな気がする。
「ばれるか」
「お前僕の事舐めてるだろ」
「ん」
ぺろ、と。本当に舐めてきた。彼女の額にあてていた僕の手の甲を。
「うわっ! ……て、あほか君は……」
コントやってる場合じゃないだろ。ていうか人の手を嘗めるな。それでなくても、身体良くないんだから。
「ううん、身体は良いわ」
「そうだったな」
強過ぎるんだ。ならばと出来るだけ弱らせるよう病原菌をわざと摂らせることなども試してみたが、風邪菌はそもそも発症すらせず、インフルエンザ菌すら軽い咳どまりで、すぅちゃんによると理論上、HIVさえも受け付けない可能性があるとか何とか。流石に、その実験はさせる気にならないけど。もしそんな事をしようものなら、すぅちゃんであろうとも僕が殺す。
「食事を抜くか悪い物ばかり食べるかすれば、少しは収まるのかしら」
「馬鹿言うな、上がってるのはあくまで内部能力だけなんだから。身体がついていけなくなって、そうなってるんだろ。これ以上衰えさせたらそれこそ死ぬって」
「そう」
君の事なんだけどな、言おうとして、やめた。美稲は既に、幾らか自分の死期を受け入れているような節がある。彼女は、基本的に受け入れる事が得意なのだ。僕の業だって何もかも受け切るし、自分の持つ病すら、その例から漏れることは無いらしい。その精神的強さも、あるいは、発症の原因になった可能性も捨てきれない。強過ぎるのだ、美稲は。明音さんの攻撃的強さとは、正反対の方向で。
「正しいのか反しているのか、微妙な言葉よね」
「僕には微妙の方が妙だけどな。微かに妙って、良くわからないだろ」
「そう? 顕正、論点ずれてるわ」
「君がずらしたんだ」
「そう? 顕正、論点ずれてるわ」
「ループがお好みなのか君は」
「そう? 顕正、論点ずれてるわ」
「もういいって!」
「そう? 顕正……、飽きたわ」
「僕はとうに飽きてるんだよ」
床を汚す血を濡らした布巾で拭いとりつつ、普段通りの莫迦な会話に現を抜かす。そんな場合じゃないだろうと言う正常な脳と、気楽に構えても大丈夫と主張するこれも正常な脳が、両立していた。体良く言えば逡巡、有体に言えば、ただのどっちつかず。それこそ、そんな場合じゃないのにね。
「取りあえず、何か飲む?」
「どっからそのセリフが沸いたのか知らないけど、貰うよ」
「うん」
僕の蛇足には一切触れず、美稲は一人一回のキッチンへと足を運んで行った。心配だから着いて行こうとする自分と、楽観的に大丈夫と落ち着く自分、また、二律背反のせめぎ合い。どちらにしろ動けないのだから、何も考えないのが一番だとは分かっているんだけれど。人間は考える葦である。僕はひと際、目立って考える葦である。ただし、根は細く、弱く、脆い。背だって、他より低いのかもしれなかった。
「顕正、お茶」
「ありがとう」
戻ってきた美稲が木色の盆に載せてきたグラスを受け取り、中の液体を喉に流し込む。忘れていた徒労感と、走った疲労感がここぞとばかりに甦ってくるようだった。結局、赤坂姉妹には何のフォローもしていない。終わったかな、と思いつつも、明日また部室に足を運べば、普通にそこにいるのではとも思う。どちらかなんて、実際行ってみないと分かりようも無い。
蒼ちゃんにばかりは、悪い事をしたなと思う。彼女は現状維持を望んで、それも、期限付き、もう一カ月程しか残っていない先までの望みだったのに。僕は聞く事の無かったはずのそれを聞き出し、その上、彼女の心をほとんどさらけ出させるような真似まですることになった。あの時はまだ僕だって、研究部がこうも凄惨に崩壊するなんて思ってもいなかったから。壊したのは、やっぱり、破壊者たる僕だけど。
嘘をつこう、と思った。後で緑に謝罪のメールを送って、それから、蒼ちゃんにも送ろう。明音さんは、きっと何も言わなくても明日には部室に顔を出す。そういう人だから。それで僕は、のうのうと、平気な顔をしていつもの席に座ろうか。
「顕正? どうかしたの?」
覗きこんでくる美稲に、僕は首を横に振った。
「何でもないよ」
僕は、また、嘘をつく。
嘘をつこう、と思った。嘘をついた。彼女らは僕を信じ、僕だけが、嘘だった。なんにも解決していない、でも、明日になれば、また笑顔を。色の無い笑顔を、曇り切った笑顔を、晒すのだろう。
僕は。
うそつきだから、ね。
れかにふは かえって きた。別に何処かに旅行に行っていたわけでもないですが。強いて言うなれば、バイトもどきです。
……むしろ崩壊しているのは作者たる自分な気がしてなりません。
ユニークユーザー数6000超、PV数30000超、本当にありがとうございます。今後とも以下略です。はい、テンプレートでしか感謝できない若輩をお許しください。
それでは、感想評価等、頂ければ幸いに思います。