第四十二話「道連れとなまけ」2/2
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朝っぱらから炊事場での煮炊きは捗った。
サコンと肩を並べて竈に薪を焚べ、忍術で火をちょろまかし、白米を炊く。
、そうしてウコンは朝一番に名残り惜しき湯治に浸かって、料理に戻り、旅支度を行い、部屋を片付け、ようやく寝起きの遅い奥方とシノを起こした。
テキパキとふたりを着替えさせ、朝食を一同和やかに済ませた。
旅立ちの朝はあわただしい。
三巡もお世話になった湯治宿の者や他の湯治客に挨拶してまわり、とうとう宿を後にする。
最後に鹿女温泉郷を出立するにあたって、訪ねたのは二箇所。
ひとつは岩炭組の屋敷だ。
「ホントに! 達者でな! 奥方様! おシノさん!」
「やいコハル、オメェ雪代様にちっと口が軽すぎやしねえか! まったく誰に似たんだか」
「さぁね、親父に似たつもりはないんだが」
岩炭コハルとゴンゾウの親子は仲直りしたのか、喧嘩が続いているのかよくわからない。
黒川シノは深々とお辞儀をする。
「……こうして旅立ちの挨拶ができますのはお二人のおかげです。あの時、コハルさんが必死に言い返してくださらねば、わたくしは無実の命を奪い、本懐を果たすこともできなかった。そしてゴンゾウ親分のご助力がなければ、今頃は獄中で沙汰を待つ身であったことでしょう」
「こっちこそ! まぁ、何だ! 色々あったけど、愛しのユキノジョウ様と平穏無事に暮らせりゃあ言うことないってもんだ!」
「コハル懲りねぇなぁお前! 大悪党じゃねえとわかったからといってまだ婿入りを認め……」
「うるせえな親父このめでてぇ旅立ちの間際にぎゃあぎゃあわんわん吠えやがって!」
「なんだと一丁前に色気づきやがって!」
「ああもううるさい! 言うか言うまいか迷ってたが言ってやる!」
困惑するシノをよそに、また親子喧嘩がはじまった。
犬狼族はとかくキャンキャンとうるさくなりがちで、ウコンは狐耳をぺたんと伏せた。
「テメェの孫が生まれるんだよ! いい加減腹ぁくくれ親父!」
「孫だぁ!? 寝言は寝て……孫、孫だと!?」
衝撃の一言に、ゴンゾウどころか全員が驚かされた。とんでもない大事件だ。
影武者ユキノジョウ、誠実そうな物言いして婚前交渉とは。さてはコハルに押し切られたか。
「あの役者くずれ、大事な一人娘を傷物にしゃーがって!」
「今ここで決めやがれ親父! おとなしく結婚を認めるか、このまま奥方さん達といっしょになって駆け落ちされて孫の顔も見れねぇまま片田舎で老いぼれおっ死ぬか!」
「ぐ、ぐ、ぐおおおぉ……!」
「あ、あの、さらっとわたくし達を親子喧嘩に巻き込まないでくださる!?」
大混乱である。
怒号と困惑の飛び交う中、ただひとり、シノだけは薄っすらと笑って見物していた。
何を想っているのかをウコンはたずねることはなかった。
最後に立ち寄ったのは鹿鳴寺の裏手の、墓地である。
多くは語るまい。
そこでは影武者ユキノジョウこと、セツタが待っていた。
今は鹿鳴寺の僧兵と岩炭家の入婿という二足の草鞋を履き、向こう数年ほとぼりが冷めるまで、白上ユキノジョウの亡骸を弔いつつ、その死の真相をセツタは守らねばならない。
氷片の盾となった時はひやりとしたが、幸い、セツタは事なきを得ていた。;
本物と影武者のユキノジョウが入れ替わるために、着脱に時間のかかる鎧兜や僧衣をあらかじめ用意して着込み、その上で白上ノ御母堂様に化けていたことが功を奏して程々の怪我で耐えたのだ。
「拙者にできる罪滅ぼしは、これくらいであろう」
無縁仏とならざるをえなかったユキノジョウの墓前に花を手向け、一同は去った。
死ねば仏という言葉がある。
黒川シノは己が殺めた白上ユキノジョウの冥福を祈った。
もし死後の怨念のみで人が死ねるならば、白上ユキノジョウの亡霊はシノを呪い殺すのだろうか。
死人に口なし。
左様なこと、知る術はない。
「時にあの、今しばらく岩炭家には近づかない方がよいと助言をひとつ」
「なぜです、雪代様?」
「……南無三」
奥方は逃げた。言いづらいことを教えずに一目散に逃げた。
あなたが家に帰ったら孕ませた娘と極道の父が吠え狂っているなど言えようものか。
「お達者で、セツタ殿!」
ウコンも逃げた。
「またね! 家族を大事にね!」
サコンも逃げた。
「……さようなら、また逢う日まで」
黒川シノさえも逃げた。
死者の冥福を祈ろうとも、生者の迷福にまでは関わらぬが吉だった。
黒川シノは憑き物が落ちた。
黒川シノという女を形作っていた全てといって過言でない復讐が終わってしまった。
もう何も、彼女に生きる上での目標はなかった。
全身全霊を捧げるあまりに、復讐以外の何もかもを忌避して遠ざけてきた五年間だ。
急にやることがなくなって、この一週間、シノは空っぽだった。
ゆっくりと空っぽの時間を過ごして、ひとり心静かに過ごすことが大切だと奥方も仰った。
湯に浸かる。
飯を食う。
床で寝る。
時々散歩したり、刀の手入れをしたり。
「……野鳥のさえずりに耳を傾けたのは、いつ以来でしょうか。炉端の石の裏にだんごむしがいることを、青空の白雲はお茶のつまみになることを、どれだけぶりに思い出したのでしょうか」
見える景色が違うのは無理からぬことだった。
復讐は虚しい、復讐は何も産まない。
そうである場合もあれば、復讐によって得られるものとてあるのだろう。
少なからず、黒川シノの五年間の仇討ち旅がなんら無価値だったとは、ウコンには思えなかった。
「これからどう生きるのか、何も、思いつかないのです」
「おや、お忘れで」
縁側に並び座って、ぼけっといっしょに白雲を見上げながらウコンはお茶をすすった。
「故郷に帰って、クロウ殿の墓前に蜜柑をおそなえすると申していたのをお忘れですか」
「……ええ、すっかり」
「シノ殿の仇討ち旅は、まだ片道を折り返したにすぎないのだとおもいます。行ったきりは死出の旅、行って帰ってくるのが仇討ち旅と心得ますれば、そうでしょうとも」
ウコンは渾身の良いことを言った。
とても良いことを言ってやった。
じつのところ、一週間も虚ろにすごすシノを放っておけず、サコンと相談して何をどう言えば励ましになるかと吟味して、予行演習までして今に至っている。
これで心響かねば、格好つけの赤っ恥。サコンにけらけら笑われかねない。
(頼む、頼む……!)
一生懸命な決め顔で、ウコンは不安げにシノの横顔を盗み見た。
そこによく知る闇はなく。
研ぎ澄まされた漆黒の刃の眼差しに今映るのは、青空と、ほわりと流れる皐月雲のみだった。
「……じつはひとつ、折り入って相談があるのです」
「相談、にございますか」
「この上にご迷惑をおかけするのは心苦しいのですが、これも乗りかかった船と心得ますれば」
黒川シノはくしゃっと苦笑いした。
それは愛嬌のある、これまでの彼女らしからぬ少々情けなくて可愛げのある頼み方だった。
かくて今、奥方一行は五月晴れの真昼の山道をゆったりと歩いている。
三度笠に旅装束。
ウコンは重箱弁当など重荷を背負い、サコンは商売道具の薬箱を背負っている。
ご主人様の奥方は若侍らしく荷物も少なく、重いのは大小二振りの腰に帯びた竜魔刀くらいか。
「ああ、よい天気だわ! 最高の旅立ち日和!」
「すーぐはらがへった、ねむい、疲れたと言い出すからなこの方は。調子がいいのは今だけだ」
「奥方さまだもんねー」
「今は旦那様とお呼びなさい。これでも実家の言いつけ通りに男装を守っているのですから」
これがいつもの三人旅模様である。
そしてここにもう一人、旅の仲間が加わっていた。
「雪代ノ旦那様、とこのように呼べばよいのでしょうか」
黒川シノはもう何も荷物を背負ってはいなかった。
重いのは一振りの赤鞘の刀、紅酒左文字くらいであろうか。
足取り、軽く。
意気揚々として。
シノは新たな旅路を奥方一行といっしょに歩いていた。
「うん、かっこよくて上々! これからあなたはわたくしの雇った用心棒なのですからね!」
「ええ、旦那様。お雇いいただき感謝いたしますとも」
「遠く目指すは南西の地、西海道! 長倉や佐河は目的地のすぐそば! 路銀を稼ぎつつ故郷に帰るより、用心棒として雇っていっしょに旅すれば早々と帰りつける! まさに一石二鳥ね!」
「いやー奥方様、太っ腹! 湯水のように湧く路銀にゃ泣く子も媚びるってもんだねー」
サコンは太鼓持ちなんだか皮肉っているんだか。えへへと照れる奥方もどうなのか。
一方、シノは申し訳なさそうにうつむく。
以前よりずっと明るくなったとはいえ、シノの根っからの暗い性格までは様変わりしないらしい。
「いかに奥方様といえど、路銀には限りがございましょう。一芝居打つ小道具とはいえ、五十両もの大金を投げよこして住職を黙らせる等と……心苦しくてなりません」
「あ」
ウコンは言う機会がなかったことを思い出して、種明かしをすべく一本の巻物を手にする。
「住職は今頃、“切り餅”でとても美味しい思いをなさっていることでしょうね。なにせ――」
するすると紐解いてみれば、その巻物には何も描かれていなかった。
しかし見覚えがあるらしく、奥方とシノはふたりして「ああ!」と大変に驚いた。
「封魔絵巻!」
「あの、変化の……」
「最後の一回、鏡写しの術で化けさせたのでございます。食べておいしい“切り餅”を、金銀小判の“切り餅”に。一両の半値、銀三十匁を使い切って節約したるは五十両。海老で鯛を釣りました」
「はいはーい、実行犯はウコン! 発案はサコン! そこんとこよろしく!」
「うふふ、狐に化かされるとはこのことね! でかしたわ、ウコン、サコン!」
「ああ、美味しい想いとは、そういう……」
皆一同に想像したことだろう。
五十両大金を懐にせしめた悪徳老僧が騙されたと悔しがり、切り餅片手に地団駄を踏み、泣き寝入りして切り餅を食み、末はのどにつまらせのたうちまわるさまを。
「ふっ、ふふふっ。あっはっはっはっはっ! なんて、なんて悪賢い子達やら! けほ、けほっ!」
爆笑だった。
カチカチに固い餅が火鉢であぶられ、ぷっくりと膨らむように笑った。
あの黒川シノが、堰を切ったように大笑いした。慣れないことをしてむせるほどに。
シノは目端に涙を浮かべて、苦しげなほどに笑って、疲れたらすんとすまし顔になり一言。
「切り餅」
キリッ、とした面モチ。
今度はシノ当人は表情を微動だにせず、奥方一行を笑わせにくるものだから耐え難かった。
奥方も、ウコンも、サコンも、あの黒川シノが自ら笑いを誘ってきたことがもう面白すぎた。
喉が渇くほど笑い、往来する旅人達に変なやつらだという目つきで見られてようやく止まった。
「ともあれシノさん、もうあなたは無闇に自分をいじめなくてもいいのよ」
「とはいえ、私には一生を捧げるべき大恩ができてしまいました。今度は雪代様の仇討ちを成就させ、怨敵を討ち果たすことに命を燃やす所存」
急に、シノは顔も名前も知らない奥方の怨敵への殺意を滾らせる。
一切の憎悪や恨みがなくとも善意や感謝によって人は殺意は抱けるのだとウコンは肝を冷やす。、
(殺生の道理に正も負もあると限らず、か)
「ダメ! 迷惑!」
「さ、左様で……しかし、御身を傷つけた償いがまだ……」
「いいのよ、こうして終わってみれば斬られ得だもん!」
「斬られ得」
シノは「斬られ損」でさえ理解しがたい発想なのに、さらに上行く迷言に硬直する。
「旅は道連れ、世はなまけ! わたくしの仇討ち旅はのんびりが信条ですからね」
「……世は情け、ではないので?」
「だよねー」
不思議そうに小首を傾げるシノとサコン。
奥方はウコンに目配せする。
「はい、旅は道連れ、世はなまけ――で我らは参りましょう」
かくして、奥方一行は鹿女温泉郷を後にした。
五月晴れの青天の下、森の木漏れ日に濡れ、小鳥のさえずりに獣の耳をピンと立てて。
一路、仇討ち旅をのんびりと往く。
仇討ちし
積年五年
鹿鳴寺
墓前捧ぐは
幕内蜜柑
天下泰平のんびり復讐劇――、此度はこれにて。
めでたし、めでたし。
第二章、これにて終幕にございます。
最後までお読みいただきありがとうございました。
お楽しみにいただけましたならば、ご感想、評価など格別のご贔屓のほどお頼み申し上げます。
それでは、また逢う日まで。