8、まずは美白
「お姉ちゃん、どこに行くんだよう」
ダメ親父ヨハンがお酒を飲んで眠りこけたところで、私はネロを連れてボロ家を出た。
「まずは、そうね。お風呂! お風呂はどこにあるの?」
とにかく美意識の高い私は、ボサボサの頭と砂埃だらけの顔に我慢ならない。
せっかくの美貌が台無しだわ。
「お風呂? なにそれ?」
「なにそれってお風呂でしょ? 髪や体を洗うところよ」
「それならこっちだよ」
ネロは私を引っ張っていって、ボロ家の並ぶ通りを抜けて広場のような所に出ると、レンガで囲まれた隅の一角に案内した。
「え? これって?」
真ん中に原始的なポンプらしきものがある。
そして古ぼけた木の桶とブリキのバケツが一つずつ置いてあった。
「この先に川があって、夏場はそこで水浴びする人もいるけど、今は寒いからみんなここで水を汲んで顔や手足を洗ってるよ」
「ええっ! じゃあ体は?」
「うーん、街の中にはお湯に入るお店があるって聞くけど、それはお金持ちの人が行くところだよ。僕達は入ったことないよ」
ぎゃああああ、なんてこと!
お風呂に入ったことがないなんて。お風呂に入ったことがないなんて。
あのブス顔でさえ、風呂上りのボディクリームすら欠かしたことのない私が。
考えただけで体がかゆくなってきたわ。
ダメ。我慢できない。
「行くわよ、ネロ」
「え? 行くってどこに?」
「川よ。水浴びでも何でも、とにかく汚れを落とすわ」
「えっ? でもこんな寒い時期に水浴びする人なんていないよ」
「寒さよりも美貌よ。この美しさを宝の持ち腐れにしたくないの」
「で、でも……」
私はひと気のない川べりまでネロを引っ張っていった。
「そこで人が来ないか見張っててね、ネロ」
ネロを見張りに立たせ、私はボロ服を脱いだ。
バスタオルはなかったが、幸いなことに筆を拭くためのタオルを二枚ジュラルミンケースに入れていた。一枚はすでに使っていて絵の具だらけのボロボロだったが、一枚は予備のために入れていた新品だ。
ただし絵の具用だからどこかの粗品でもらった安物だ。
こんな事なら最高級のホテル仕様のタオルを入れておけばよかった。
だがないよりはマシだ。
新品はドライ用、もう一枚はこの垢だらけの体をこする用だ。こびりついて乾燥した絵の具が、いい感じのザラつき加減で垢すりがわりになってくれるはずだ。
「良かった。中の化粧品も無事みたい」
私は首にかけた鍵でジュラルミンケースを開いて中を確認してタオルを取り出した。
そしてまずは絵の具だらけのタオルを川の水に浸してゴシゴシ洗う。
「つ、冷たい……」
冬の川は信じられない冷たさだった。
寒さを通り越して痛くなり、やがて何も感じなくなった。
子供の体は大人よりも寒さに強いのかもしれない。
あるいはぬるま湯のような生活をしていた私よりも過酷な環境に耐えてきたこの体は、いい意味で鈍感なのかもしれない。
とにかく極寒の川に入って体中の垢を落とした。
石鹸もシャンプーもないけど仕方ない。
「し、しぬっ……」
水から上がった後の方が寒さが身にしみる。
急いで新品のタオルで拭いて服を着込んだ。
それでも寒さはやわらがない。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「ネロ、枯葉を集めてくれる?」
私はガタガタと震えながら枯葉を集めてマッチを一本擦った。
冬で乾燥した葉はすぐに火がついた。
幸い風はほとんどなくて良い感じの焚き火になった。
小さな焚き火に手をかざして暖をとる。
そして焚き火の前でジュラルミンのケースを開いた。
「うわっ! 開けられたの、お姉ちゃん? 凄い。これ何?」
ネロはケースの中を覗き込んで、初めて見る不思議な小物に驚きの声を上げた。
「ヨハンには内緒よ。これは私の宝物なの」
私は上の段を取り出して、下の段から美白美容液とパックを取り出した。
美容液はまだいっぱいあるが、パックは五個しか入れてなかった。
こんなことなら家にあるだけ詰め込んでおけばよかった。
貴重な一個を取り出して顔に貼り付ける。
なんでか友達にお土産でもらった歌舞伎顔パックのセットを入れていた。
よりによってなぜこれを入れてしまったかと悔やんでも悔やみきれない。
袋には『弁慶仕様』と書かれていた。青い筆で青鬼のような隈取りが描かれている。
これは迫力の一品だ。
「なんかお姉ちゃん怖いよお」
夜の川辺で焚き火に照らされた弁慶顔の女と二人っきりなんて、幼いネロにとっては恐ろしかったに違いない。
しくしくと泣き出してしまった。
「ごめんね。ごめんね、ネロ。でも貴重なパックだから三十分ははがすわけにはいかないの」
パック中は顔の筋肉を動かすことも出来ず、私は無表情のまま気の毒なネロに言い放った。
いくら可愛い弟でも、美に関してだけは妥協できなかった。
次話タイトルは「ブリキ職人、スラン」です