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それから二年。
私と夫は、夫婦として、それなりに仲睦まじく暮らしていた。最近では、夫の少々子供っぽいところや、かなり負けず嫌いな性格にも慣れて、楽しむ余裕さえ出てきた。
しかしながら、彼のことを心底愛しく思っているかといえば、自分でもよくわからない。側室と彼との仲睦まじい噂を聞かされても、その後、もうふたり増えたと聞かされても、私は怒る気にもなれず、ただ淡々と事実を受け止めただけだった。もっとも、夫の血を引く子供を産んだ女がいまだに此の世にひとりもいない以上、私が不満を口にすれば、かえって夫から疎まれるだけではある。
綾瀬は、都にいる私の父親……というよりは兄の代わりのように、たびたび私たちの様子を見にきてくれた。そして、私たちが快適に暮らせているかどうかに心を配る一方で、都や他国の情勢や家中で起こっていることなど、夫が妻に聞かせる必要を感じていないことを逐一報告してくれた。
彰昌こと弥一郎は、綾瀬がこちらに来るときには、たいてい彼の供をしていた。綾瀬が顔を見せない時にも、彼の代理と称して数日に一度はこちらを訪れてくれていた。
都にいた時に比べて、私と彼が言葉を交わす機会は、格段に多くなった。互いの近況を聞き合ったり、お天気の話をしたり、なんでもないことで冗談など言い合って笑うなど、私たちは、昔であれば考えられなかった形で親交を深めていった。
そんな表向きの付き合いの裏側で、彰昌と私は、乳母を介して都の父からの私へ指示や私が夫から聞き出した情報などを交換し合った。彰昌は、私から得た情報を元にして更に探りを入れ、その精度を高めたうえで、彼の手下や鳥を使って都の父に伝え送るのである。
昔からそうであったように、《影》としての彰昌は、時折本当にいるのかいないのかわからなくなるほど実体を感じさせなかった。もしかしたら、《影》など始めからいないのかもしれない。父が乳母に直接手紙で伝言を届けているだけかもしれないと、私が疑うこともしばしばだった。
その頃は、なにもかもが順調にいっているように思えた。
状況が変ってきたのは、それから一年後。舅が病で引退し、夫が家督を継いでからだった。
夫は内政に力を入れる一方、本格的に新たな領地獲得に乗り出した。『為政者が正しくまつりごとを行えば、民は幸せに暮らす事ができる』というのが、夫の口癖だった。その正しき為政者というのが、自分であるらしい。善政を広く世に行き届かせるために自分の領地を広げる必要があるというのが彼の主張であった。自信家の夫らしい発言ではあるものの、法螺吹きと笑い飛ばすことはできないほどのことはしているようだ。例えば、家督を継ぐ前から彼が進めてきた街道や商業地としての城下の整備などは、この頃になると着実に成果を上げつつあった。年貢も、彼の代になってから軽くなったという。
「街道を伝って入ってくる商人たちから得られる収入が増えたということもありますが、開墾を進めたこと、土地にあった作物を作らせることで収穫が安定し、収穫が安定したことで国力がついて戦に負けにくくなり、戦に負けにくくなったことで国内が戦場になることがなくなり、田畑が荒らされなくなったことで更に収穫が安定し、結果的に多くの者から年貢を取りやすくなったということですな」と、綾瀬が私にもわかるように説明してくれる。
国内での成功に気を良くした夫の野心が最初に向けられたのが、北だった。
北には、わが国と長年にわたって境界線を争っている国があった。戦が始まると、綾瀬も彰昌も戦場に駆り出されていった。残された私は、夫と彼らの無事を神仏に祈り続けた。
一月あまり後にもたらされたのは、事前の調略が功を奏して夫の軍勢が圧勝したという吉報だった。その後一ヶ月かけて新しく手に入れた領地を完全に制圧した後、夫は城に戻ってきた。綾瀬も、彼に従って戦に赴いた彰昌も無事であった。ありがたいことである。
だが、喜べないことがひとつだけあった。
夫は、戦地から女性をひとり連れ帰ってきていた。彼女は切腹して果てた敵の総大将のひとり娘だという。夫は、彼女を新しい側室にするつもりだった。さすがの私も、これには反対した。
「敵の娘と閨を共にして、寝首でもかかれたら、いかがなさいますのか?」
だが、夫は私の忠告を笑って聞き流すだけである。私の前では気のないふりをしているが、それほど、その姫に執着しているということだろう。彼女は、凄まじいほどの美貌の持ち主であるという噂である。
殺したいほど憎まれている女を我が物にするのもまた一興ということらしいが、その女が一生自分に心を許さないかもしれないとは考えないあたりが、いかにもこの人らしい。
「そんなに心配せずとも、わしが真実想うておるのは、そなただけじゃ」
呆れる私を懐柔するように、その夜の彼は、いつにも増して優しく情熱的に私を抱き、いつにも増して饒舌に愛の言葉を語った。
だが、私の気は晴れない。
次の日の昼には、夫の参謀が私をなだめにやってきた。太い眉毛と大きな口に場所を譲るように、目が糸のように細い。綾瀬と変らぬ程度に若いものの、初めて身近で見た参謀の顔は整っているとは言い難かった。だが、妙に人好きのする顔である。堅苦しい態度も、かえって信じるに足る人物であることの証であるようにも思えた。
その参謀が夫の代わりに平身低頭で釈明してくれたところによると、北の国の姫を側室として取り込むことは、戦略的に非常に意味があることなのだそうだ。
「力でねじ伏せたとはいえ、北には、いまだに反抗勢力がくすぶっております。今のままでは彼らの鬱憤が積もるばかり。いずれ玉砕覚悟でこちらに立ち向かってまいりましょう。全てを滅ぼしてしまうことは、殿の本意ではありません」
「北の国の姫さまを人質にするということですか?」
「いいえ。未来への希望にいたすのでございます」
夫は、姫を側室とし彼女が男子を授かった場合、その子に滅ぼされた姫の家の名跡を継がせるつもりでいるという。そして、以前よりかなり狭くはなるものの、元は北の国であった場所に領地を与えるつもりだそうだ。
姫の一族は、過去にも何度か娘に婿を取らせて家系を存続させたことがある。ゆえに、姫が生き延びている限り主家が滅びたわけではないと北の国の旧家臣に希望を持たせることは可能であるらしい。姫の家の名を復活させたところで、夫の子であれば叛旗を翻す心配もない。北の国の者たちも、自分たちの主が主家に限りなく近くなることで、それなりの立場が保証されることになる。
「つまり、姫を側室に迎えることは、北の者を丸め込むための策であるということか」
同席していた綾瀬が、参謀の言葉を要約する。ちなみに、綾瀬も、かつては夫の家と争いながらも力及ばすに軍門に下った一族の長である。
綾瀬の国は割合に平和的に夫の国に併合されたし、綾瀬は男だから側室にもされなかったが、代わりに夫の妹を娶らされている。その時、綾瀬も夫の妹もまだ十歳だったという。明らかな政略結婚だが、このふたり、今では、とても仲が良い。私にとって義理の妹でもある綾瀬の妻は、時折ここにも遊びにきて、その度に夫ののろけを言っていく。
「うちと似ているとはいえ、私と妻との婚姻で家中の融和が図れたのは、同じ墓に入るまで一緒に添い遂げたい私と妻が、そうなるようにと手を尽くしたからこそだ。軍師どのの思惑通りに事が運ぶとも思えぬが?」
「おっしゃるとおりかもしれません。ですが、時は稼げまする」
「なるほど、時を稼いでいる間に、別の手を使って反抗勢力の力を削ぐなり取り込むなりするということか」
酷薄な笑みを浮かべる参謀に、綾瀬が皮肉混じりの笑顔を返す。綾瀬の後ろに控える彰昌も黙ってはいない。「恐れながら」と、参謀に向かって声を上げた。
「今のうちは、確かに戦略的な意味合いが大きいのかもしれません。ですが、男と女のことです。殿が北の姫さまに魅了されるあまり、北の方さまをないがしろになさるようなことがあれば、家中の乱れとなることは必定かと」
「やめよ。軍師どのに無礼であるぞ」
綾瀬が彰昌を咎めるが、本気で言っているわけではないようだった。『どうなんだ?』と言いたげな目線を参謀に返した。
「それは……ない」
彰昌の苦言に顔をしかめながら参謀が言った。
「北の国の姫の血を引く者に家督を継がせるようなことになれば、家中の力関係は大きく揺らぐであろう。となれば、譜代の者どもが黙ってはおるまい。それは殿もわかっておられる。ゆえに、殿が、お方さまを粗略になさることはあるまいし、そうならぬように、わしも万全を期す」
「……と、いうことだそうだ」
綾瀬が彰昌を振り返る。ついで、参謀に視線を戻し、「側室をお迎えなさるのが、ずっと昔に奥方を亡くされて以来独り身を貫いておられる軍師どのであれば、その言葉だけで安心できるのだけどね」と皮肉った。それから、急に真面目な顔に戻ると、「本当は軍師どのだってわかっておられるのだろう?」と切り出す。
「あの姫は危険だ。色惚けしている殿を言い包めてでも今のうちに殺しておかないと、後々の禍根となる」
「……綾瀬どの。お方さまの前で、『色惚け』は……」
参謀が綾瀬を咎めるように眉を寄せた。だが、彼は綾瀬の言うことを否定しなかった。
「綾瀬どの。もうよい」
私は、首を振った。
「これ以上、軍師どのをいじめても仕方があるまい。殿のお決めなされたことです」
私が異を唱えたところで、なるようにしかならない。
私は、参謀に微笑みかけると、「おなごの説得など、慣れないことをさせましたね」と、労った。
「まつりごとのためであるのなら、私に否と言えるはずがありません。どうぞ、殿のなさりたいように」
私が返答すると、彼は、ホッとした様子で感謝と謝罪の言葉を繰り返した。その様子から、私は、やはり、北の国の姫を自分のものにしたいという夫の欲望が先にあって、それに見合うような理屈を参謀が後から考えさせられたのだと確信した。
参謀は、よほど気が咎めているのだろう。「なにがあろうと、お方さまのお産みあそばされるお子が跡を取る。それだけは、この私が命に代えても守らせてみせます」と、私に力強く誓って帰っていった。
私や譜代家臣に気を使ったのか、それとも姫の心情を慮ったのか、夫は、城内ではなく城から見える丘の中腹に、姫のための屋敷を用意したそうだ。
側室にされても、姫は、父親と一族の多くを殺した男をなかなか許そうとしなかったという。
彼女は、夫から逃げ出そうとし、逃げられないとわかると彼を殺そうとし、殺せないとわかると自ら命を絶とうとした。姫から拒まれれば拒まれるほど、夫はムキになっていった。そして、ムキになればなるほど、姫に惹かれていったようだ。夫の想いは、やがて愛情に代わり、彼の愛情は、やがて姫の憎しみを溶かした。
姫が側室に迎えられてから一年後、私は彼女の懐妊を知った。
それから半年後に生まれた子供は、男の子だった。