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やがて、綾瀬が息せき切ってやってきた。参謀も一緒である。
なぜ、自害しようとしていた私に真っ先に気が付いたのが、彰昌だったのか。なぜ、私が彼の腕の中で泣いているのか。そして、なぜ彰昌までもが泣いているのか。おそらく不審に思っただろうが、彼は何も聞かなかった。
「すまぬ。つい、魔が差しました」
私は、彰昌の腕から抜け出すと、両手をついて、ふたりに詫びた。
「まったく、こんなことをなさるぐらいなら」
「西の丸殿と刺し違えたほうがよかったですね」
「まったくです」
命を粗末にしかけたことについて散々叱られた後、ようやく軽口らしきものが出てくるようになった私を見て、一同がホッとした表情をみせる。
「そこまで言えるようになったのなら大丈夫だとは思いますが、心配なので、しばらく彰昌に宿直をさせましょう」
そう言い置いて立ち上がった綾瀬が、庭の譲り葉に目を止めた。
「新しい葉が育ってから古い葉が落ちる。代々の繁栄を願う縁起の良い樹とはいえ、新しき葉が腐っていては、大元の樹を殺しかねない」
これまで聞いたこともないほど、綾瀬の声は冷たかった。
「綾瀬どの?」
私の呼びかけに応えて、綾瀬が、いつもの口元に穏やかに笑みを湛えた顔をこちらに向ける。だが、顔は笑顔でも目が笑っていない。
「樹を健全な状態に戻すためには、接木という手もありますが」
冷たい声のまま、綾瀬が微笑む。
「いや、でも……」
私の庭の譲葉に枯れる兆候はなく、大きく枝を広げ、東からの風を受けて葉を揺らしている。この樹に限って接木の必要などないはずなのだが、どういうわけだが、「大元の樹が枯れる恐れがあるのなら、それも仕方ありますまいて」と、参謀までもが、綾瀬と一緒に樹の話を始めた。
「そなたたち、いったい何の話を……」
『いったい何の話をしようとしているのか?』と問いかけた途中で、私は、彼らが何を言おうとしているのかわかった気がした。
「まさか……」
「以前も申し上げましたね。『殿の志を継ぐ立派なご当主となってくれさえすれば、世継ぎなど誰がなってもかまわない』と」
参謀が、口の端を大きく上げて、共犯者めいた笑みを作る。
「それに、西の御方様にしか子ができぬことを誰よりも気に病んでおられるのは、実は殿ではないかと思うのですよ。自分の妻のうち、ふたりの母に子ができれば、殿の不安も落ち着きましょう」
「自分は下賎の者であるから……と、腹が立つほど謙虚なことを言っている者もおりますが……」
綾瀬が、青ざめた顔をして平伏する彰昌に苦笑を向ける。
彰昌は何も言わなかったが、代わりに、「彰昌の父方は賀茂氏に通じると聞いております。 母親は私の従姉ですから藤です。決して下賎ではありませぬ」と、乳母が胸を張った。
「武家は大概、源か平を祖とするのでございましょう? それらと比べても、それほど遜色はないと存じまする。というよりも、武家の祖など、どうでもよろしい。我らにとって大事なのは、帝の血脈。私の姫さまのお血筋ですゆえ」
「なるほど」
頭をそびやかせる乳母に微笑みかけると、綾瀬と参謀は去っていった。
自刃騒ぎを起こしたとあって、さすがの夫も、それからすぐに駆けつけてきた。
心配してくれたし、その晩は優しくもしてくれたが、次の朝の去り際に「もう、昨日のような愚かな真似をするでないぞ。まったく、子ができぬぐらいで……」と言ったのを聞いて、私の気持ちの糸は完全に切れた。
それでも、それから三日悩んだ。
綾瀬や参謀の言葉や、現在の家中の混乱ぶり、それから、このまま我が国の内情が落ち着かないままであった場合に起こるであろうこと全てを考えに入れてみた。自分に都合の良いように物事を考えようとしていないかとも思ったし、もしかしたら、参謀たちの陰謀に利用されているだけなのではないかとまで疑ってみた。
だが、結局、私の気持ちを決めてくれたのは、千草の一言だった。
「私は、乳兄弟として、お方さまのお傍にお仕えしてきました。松風と弥一郎とは、姉や兄のように仲良くさせてもらいました」
彼女は、棚の中に隠すようにして置いてある私の古い手文庫を引っ張り出してくると、中に入っているものをひとつひとつ丁寧に取り出し始めた。きれいな小石や鳥の羽や木の実などに混じって、枯れた花の残骸や、触ると粉々になりそうなほど乾いた木の葉も出てくる。どれも、私が《影》からもらった、大切な宝物だ。
それらの宝物に優しく微笑みかけながら、千草が「どうぞ、お心のままに」と言った。
「今宵は新月。夜の帳が全てを隠してくれましょう」
乳兄弟の言葉に勇気をもらった私は、その日の夜中、皆が寝静まるのを待って起き上がった。
「いますか?」
幼き頃に一度、少女の頃にしたように、私は、真っ暗な部屋の更に暗そうな隅に向かって《影》を呼んだ。
返事はない。
だが、ほどなく、初めて《影》に引き合わせてもらった時と同じような気配を、私は背後に感じた。振り返らないまま、「なあ?」と、ささやくように彼に問いかける。
「私は、石女であろうか?」
「いえ。お方さまは、決してそのような者ではございません」
初めて、私は《影》の声を聞いた。昼間に聞く彰昌の声と同じだった。わかっているはずなのに、なぜか涙が出てきた。
やはり、彰昌だった。
小さい頃から、昼も夜も、影に日向に、ずっとずっと私の傍にいてくれたのだ。
「ならば、そなたが、その証を立ててみせよ」
震える声で、私は彼に命じた。どうか拒否しないでほしい。そう願いながら。
「ことが露見した折には、罪は私ひとりで受ける。そなたの名は出さぬ。私の亡き後は、父の指示に従うか、綾瀬の配下として生涯……」
「お静かに」
沈黙に耐えられずに発作的に話し始めた私を、彰昌が後ろから抱きしめた。
「部屋の周りに眠りの香を焚きました。異変があれば千草が知らせてくれることになっております。ですが、用心に越したことはありませぬ」
「う、うん」
彼の腕の中で、小さくうなずく。首元をかすめる彼の息が熱い。それだけのことなのに、息が苦しい。彰昌も苦しいのかもしれない。
「ですが、姫さま、本当に私で?」
問いかける彼の声が、ひどく掠れていた。
「そなたがいい」
私は、回された腕に顔を押し付けた。
「そなたでなければ、誰でもいい。綾瀬どのでも、軍師どのでも、通りすがりのなにかでもかまわない。ずっと、そなただけを想っていた。だから、罰が当たったのだ。殿は聡い方だ。私をないがしろにするのは当然……」
「姫さま」
『静かに』という代わりに彰昌が私を振り向かせ、そっと唇を重ねる。
「悪いのは私でございます。守り主に必要以上に近づいてはならないという《影》の頭の戒めを破り、姫さまに叶わぬ想いを抱き続けた……」
暗闇の中、自嘲気味に述懐する彰昌の両手が、私の頬を包む。
「我が命に代えてお守りすると、最初にお約束いたしました。罰を受けるなら、まずは私からです」
「では、共に……共に堕ちよう」
うわごとのように言いながら、私は彰昌の首に腕を絡めた。しがみつく私を、彼が、そっと横たえる。
恥じらいながら、私は彼に全てをゆだねた。
こうして初恋を成就させた私は、翌年、男子を産み、後には二人の女の子をもうけた。
夫は、息子が十二の時に亡くなった。
若くして家督を継いだ息子は、夫の志を胸に、綾瀬や参謀を始めとした家臣たちに支えられ、また、自らもよく学びよく鍛えて立派な武将となり、ついには戦国の荒波を乗り切った。
新しい世で、彼は大名として一国を任され、その国は、武士の世が終わるまで、彼の子孫によって引き継がれていったという。
おわり
読んでくださって、ありがとうございました。




