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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第三部 いざ、この手で悪魔を滅ぼさん
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5-3 聖御子の座


 凄惨な外の光景とは裏腹に、扉の向こうは静穏だった。何ひとつ乱れていない、知を求める者のための場所。エリアスが一番に中へ飛び込む。カスヴァはなんとなく息を潜めて戸口をくぐった。


 壁面は数箇所の小さな採光窓を除いて、すべて書架になっていた。あまり広い部屋ではないが、奥まった所が書架の陰になって暗く、続き部屋の存在を窺わせる。その手前にある受付台に、ぽつんと明かりがひとつ置かれていた。


 カスヴァはぐるりを見渡し、呆然とつぶやいた。

「ここが『黄金樹の書庫』か?」

「違う。まだ奥だ」

 エリアスが端的に答えて、明かりのもとへ急ぐ。かつて何度も銀環を預けたその場所に、痩躯の男が一人うずくまっていた。


「ムラク様ですか」

 呼びかけられた男は顔を上げ、眼鏡越しに赤毛の青年と背後のルナークを認めて微笑んだ。

「ああ、良かった……間に合ったか」


 億劫そうに身を起こした彼の手が脇腹を押さえているのに気付き、エリアスは素早く傍らに膝をついて癒しの秘術を施した。ありがたい、とムラクは礼を言い、自嘲気味の苦笑をこぼす。


「痛みが、酷くて……自分では、できなかった。まったく……すべてのわざに精通しているはずの、秘術審理課長が、このていたらくとは。ハラヴァ様が嘆かれよう」

 呻き、よろけながら立ち上がり、台に両手をつく。それを支えたエリアスが、思い出して問うた。

「中に入るには、銀環を外さなければなりませんか」

「いや、忌々しい限定条件は解除する。でなければルナーク様をお通しできない。……ふむ、納得した顔だな。刺青を見たかね」


 ムラクは痛みを堪えて顔を歪めながらも、落ち着き払った口調で答えると、ふらつきながら奥へ向かった。暗がりに隠されてなお仄かに光る黄金の扉へと。

 そこには既にエトラムが立っていた。戸惑って足を止めたムラクの前で、悪魔は静かにささやく。


「懐かしいね。またこのしるしを見られるとは思わなかった」

「……懐かしい? まさか」

「さあ、どうぞ。新たな聖御子は間違いなく役目を果たすから、安心していい」


 さらりと自然に憶測を遮り、場所を譲ったエトラムは目を細めて黄金樹の意匠を眺める。ムラクは困惑を隠せない様子だったが、寄り添うエリアスが無言で促したので、疑問は飲み込んで扉に向き直った。


「《主の前に(アヌ・イェファ)すべての城門は(・エイドゥヴァラ)開かれる(・アイダ)》」


 厳かに聖句を唱え、続けて黄金樹の枝や扉の縁を飾る複雑な模様の一部に指先で触れながら、いにしえの言葉でひとつひとつ封印を解いてゆく。

 指の巡る跡を追ってきらめきが走り、全体がまばゆく輝く。光が消えると、ぽっかりと暗い穴が開いていた。ムラクがふっとひとつ息を吐き、束の間ためらうように立ち尽くした後、ぎこちなく脇へ下がった。


「ルナーク様」

 呼びかけて膝をつき、恭しく待つ。少年が進み出ると、ムラクは己の銀環に手を当てて頭を垂れた。

「あなたを今日この場に至るまでお育てし、導いてきたすべての者に成り代わり、お詫び申し上げます。せめて聖御子に相応しい栄誉を、世の人々の崇敬と感謝を、はなむけにすべきでありますのに、このような仕儀と相成りまして慙愧に堪えません」


「……何の意味が?」

 ルナークがぽつりと問い返した。顔を上げたムラクに対し、少年はこの期に及んでも感情が欠落したままの口調で続ける。

「栄誉や感謝が、わたしにとって何の意味があるでしょう。あなた方には必要だとしても、わたし自身にはなんら価値を持ちません。ですから、謝罪など無用です。わたしが恐れるのはただひとつ、いざ『聖御子のくら』についた時、円環の修復がなされないままに終わること」


「さようですな」ムラクは微苦笑で応じた。「そのようにあなたを聖御子たるべくなさしめたのは、ほかならぬ我々自身。失礼を申しました。……では、この卑しき魂もひとつ、お持ちください。些少ながら足しになりましょう」

「いいえ。あなたには残っていただかなければ。望ましからぬ事態に陥った時、ここで破滅を食い止められる者が必要です」


 断られた理由に、ムラクは皮肉めかして眉を上げる。聖御子が世界の崩壊を止められなかった場合、いったい誰が何をできるものか。だがルナークは構わず続けた。


「そしてまた、円環の修復がなされ世界が破滅から救われたなら、起きた事を正しく記録し伝えられる者が必要です。主観で捻じ曲げ粉飾して物語を創り、都合よく利用するのではなく、ありのままを間違いなく記し、再び同じ危機を招かぬよう遺し伝えるために」

「……畏まりました」


 後事を託され、ムラクは厳粛に拝命する。ルナークは軽くうなずいて、ふと振り返った。白々しい真面目さを保って待っているエトラムをじっと見つめ、それから視線を戻して一言添える。

「失敗の恐れはないでしょう。かの『炎熱の大悪魔』エトラム殿が、わたしを助けて下さるようですから」

 さすがにムラクがぎょっとなり、反射的に立ち上がる。その視線の先で、当の大悪魔は顔を覆って呻いた。


「不意打ちで羞恥心を一撃するの、やめてくれないかなぁ」

「自業自得だ」

「大喰らいめ」


 ぼそりとカスヴァが突っ込み、エリアスが止めを刺す。千五百年にわたって各地で悪魔ぶりを発揮してきた結果の名声ならば、同情しかねるのも致し方ない。孤立無援の有名人は天を仰いだ。


「ほんと君達、気が合うよね……やれやれ。ムラク殿、そんな顔で見ないで欲しいな。何のために僕がここまで来たと思うんだい。円環の修復を邪魔するつもりなら、とっくにルナーク殿をどこかの辻に埋めているよ。まぁ、そもそも大昔にこの事態の原因をつくった馬鹿な人々の生き残りとなれば、引っ込んでろと言いたくもなるだろうけれど」

 言葉尻で苦笑し、彼は銀環に触れようとしてそこにはないのを思い出し、ただ胸に手を当てた。

「挽回の機会を与えて欲しい。教会が『悪魔』と呼ぶものが本当は邪悪の化身ではないと、あなたは知っているはずだ。それなら――悪魔が人を救ってもいいだろう?」


 静謐で敬虔な面持ち、真実を語っていると信じられる声音。それでいて気負いもなく、当然のように言う。

 ムラクは感銘を受けた表情で大悪魔を見つめ、ややあって深く一礼した。

 途端にエトラムは気恥ずかしくなったらしく、咳払いして早口になる。


「それじゃ行こう。『聖御子の座』が何なのか、僕にはおよその推測しかつかないけど、どうすれば良いかはルナーク殿が知っているようだし。カスヴァ、エリアス殿、もう少しだけ付き合ってくれるかい。この先に脅威はないと思うけど、万が一、ということもあるからね。誰かが潜んでいて、ここぞという時に攻撃されたら台無しだ」


「ああ。もちろん守ってやる」

 カスヴァは応じて剣の具合を確かめた。浄化特使の神銀製とは違うので、随分汚れてはいるが、もうひと働きぐらいは支障ない。

「いざとなったら、おまえを担いで逃げてやるから安心しろ」


 半ば冗談、半ば本気でそう請け合う。円環を修復するために堅牢に築かれた『通廊』が、目的を果たした途端に緩んで不安定になる可能性もあるだろう、と予想したのだ。


「恐らくそんな事態にはなりません」応じたのはルナークだった。「座に触れるのはわたし独りです。あなたがたは見届けることもないでしょう……それでも警戒が必要であるなら、書庫の中までは共においで下さい」


 言うだけ言って、少年はすっと滑るような動作で戸口をくぐる。エトラムが続き、カスヴァも急いで後を追った。


 扉が消えていても、やはりそこは世界の相をまたぐ結界であるらしい。続き部屋に入った、というよりは『通廊』への移動と似た感覚がして、カスヴァは踏み込むなり立ち止まった。背中にエリアスがぶつかり、迷惑そうに押されて我に返る。


「これは……すごいな」

 思わず感嘆の声が漏れた。青い闇はどこまでも深く、天井は見えず奥行きも測れない。そんな中に、現実のものとは思われないような書架がそびえ、迷宮を成している。どこに目当ての本があるとしても、探すだけで人生が終わりそうだ。


「惚けていると置き去りにされるぞ」

 エリアスに注意され、カスヴァは慌てて聖御子と悪魔の姿を探した。書架の間に銀光の残滓がちらちらと瞬き、その先に二人の人影がある。足を速めたカスヴァに並び、エリアスがささやいた。

「ここは何度も訪れているが、今回は様子が違う。こんな風に不安定な場所だったことはない。封印が解かれたからか、あるいは道標となる明かりを持っていないからかもしれないが、とにかく下手をすれば遭難しかねない。あまり離れないように」


 ああ、とカスヴァはうなずき、ふと不安に駆られて背後を確かめた。四角く切り取られた出口がまだ見えていることに安堵し、急いで聖御子と悪魔を追う。背後で書架が動いて退路を塞いだような、不吉な想像が胸をよぎったが、二度と振り返ることはしなかった。


 森閑とした静けさを泳ぐようにして進む。これだけ書物があるなら当然の、羊皮紙や革やインクの匂い、埃っぽさなどは一切なかった。それどころか、もし書物を取ろうと手を伸ばしたら何も掴めず通り抜けてしまいそうで、そこに見えているのに存在している世界が違うようにさえ感じられる。

 曖昧で不確かで、どこをどう辿ってここまで来たのか、もうわからない。もし敵が事前に潜んでいたとしても、この広大な空間で遭遇するなどあり得ないだろう。


 やがて行く手に、ぽかりと開けた場所が現れた。青黒い夜空のような床に、銀の光が巨大な模様を描いている。

「これが……なるほどね」

 エトラムが興味深げにつぶやき、際まで寄ってしげしげと全体を眺める。カスヴァは自分の意識の中でも知識の書物が開かれていくのを感じ、強いてそれを閉ざした。


「結局、無用の心配でしたね。お二人にはムラク様と一緒に残っていただいたら良かった」

 ルナークが言って、悪魔の隣に立つ。そのまま彼はついと宙に両手を伸ばし、銀の模様にかざした――が、

「ああ、お二人さんに来てもらったのは別の目的があってね」


 術を補助してくれるはずの悪魔がそんなことを言ったので、開きかけた口を閉じて振り返る。怪訝そうに瞬いた目に、黒髪の青年の優しく魅惑的な微笑が映った。

 エトラムが祝福の仕草のように手をもたげ、少年の肩に触れる。そして一言、告げた。



「ルナーク、《     》」



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