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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第三部 いざ、この手で悪魔を滅ぼさん
64/133

1-1 特使の襲来



 すべては願いから始まった。


 救いたまえ、救いたまえ、我らをこの地獄より救いたまえ。

 苦しみなき楽園を。あらゆる悲しみと憎しみ、労苦と懊悩から解き放たれ、満ち足りた幸福を。



 ――こんなはずではなかったのに。



 愚を悟るのは決まっていつも、失敗した後なのだ。





  一章



 春の訪れを告げるにしては、太陽が急ぎすぎているようだ。カスヴァは朝の鍛錬を終えて剣をおさめ、額に滲んだ汗を手の甲で拭うと、からりと晴れた空を仰いだ。

 木々の枝にようやく新芽がほころび、新しい草葉の緑が地面をうっすら覆ったばかりだというのに、掘り返した畑の土が陽射しに温められて湯気を立てている。


「さすがにこの陽気はおかしいだろう」

 つぶやきを漏らし、彼は眉をひそめて横を見やった。教会の小さな薬草園を手入れしていた司祭も、立ち上がって暑そうに襟元をぱたぱた扇いだ。

「冬が厳しくなかったのは良かったけどねぇ」


 その通り、この冬は雪も少なく冷え込みも緩めで、凍死者が一人も出なかった。体調を崩す者はいたが、新しい司祭の治療と看護で大事にいたらず快癒したのだ。


「おまえのおかげで楽な冬だった。礼を言うよ」

 カスヴァは素直に感謝した。

 人々のため精力的に働くのが『良き司祭』たらんとする願いのゆえなのか、警戒心を解くためなのか、どうしても最後のところで信じきれないが、ともかく事実として皆が助けられたのだ。

 ユウェインはちらりと揶揄の気配を浮かべたが、すぐにまじめな声音で応じた。


「領主様のお褒めにあずかり、まことに光栄の至り。せっせと頑張った甲斐があったというものだよね。もちろん本当は皆、滋養のあるものをしっかり食べて、家の中は暖かく清潔にして過ごせたら、病気の心配もぐっと減るんだけど。実現させようと思ったら、そこらの森を全部伐採して牧草地と畑にして、伐った木を薪に変えなきゃならないからね」

「まあ無理だな」

「うん。だから足りないぶんは主のお恵みで補おうというわけさ」


 ユウェインは笑っておどけ、両手を広げて陽光を受け止めるように掲げた。その仕草を見たカスヴァの脳裏に、礼拝の光景がよみがえる。

 今までなら司祭が祝福を授ける時、信徒に手を触れることはなかった。一人ずつ向かい合って銀環をかざし、聖句を唱えながら聖印を切る。時に励ましや慰めが必要な者には、軽く按手――頭や肩に手を置くこともするが、そこまでだ。

 ユウェインはそれを変えた。銀環をかざすのをやめ、聖印も切らず、信徒の両手を己のそれで包むように捧げ持ちながら、祝福の聖句を唱えるかたちにしたのだ。


 最初は面食らった村人らも、じきに進んで受け入れた。なにしろ若くて見目良く健康で、いかにも主に愛されていそうな司祭である。それが老若男女の別なく、荒れて汚れた手でも構わず、丁寧に触れてくれるとは貴いことではないか。

 しかも実際、祝福を授かった後はなんとなく心身がほかほかと暖かく感じられるのだ。ありがたい、ありがたいと無邪気に喜ぶ村人らを、カスヴァは複雑な沈黙でもって見守った。


「主のお恵み、ね」

 無意識につぶやきがこぼれる。

 つないだ手を通じて淡い銀の光が流れるのを、目に捉えられる者はほかにいない。うなじがじんわりと熱くなる感覚も、カスヴァだけのものだ。村人は誰一人として、司祭の祝福が形だけでなく確かな効力をもつ秘術だと気付いていない。


「もちろん、そうだよ」ユウェインが苦笑した。「まさか君、秘術は主のお恵みじゃないと考えているのかい? さすがにそれは不遜というものだよ。秘術が使えること自体がまず奇蹟なんだからさ、この世界がきちんと成り立っていることに感謝しないと。そりゃ、神様が直接ひとりひとりに力を及ぼしてくれるのに比べたら、司祭が秘術で小細工するのはありがたみがないだろうけどね。教会の体質とか教義とかは横に置いて、そこのところは忘れちゃいけない」


「高尚なお説教をどうも」

 カスヴァは素っ気なくいなし、焦げそうな陽射しを避けて礼拝堂が落とす影の中へ入った。途端に本来の季節らしい寒さに包まれ、汗ばんだ身体が一気に冷える。この極端さはどうにかならないものか。


「そういえば、去年の夏も暑かったな……おまえがここに来てから、おかしくなったんじゃないか?」


 ふと思い当たり、彼は声を潜めてささやいた。禁忌のわざがふるわれる時の、あの熱い感覚。秘術と魔術、悪魔の力が共通のものだとしたら、この悪魔が村に暑熱を連れてきたのではなかろうか。そういえば去年はいつになく晴天が多かった気がする。

 推測からの疑惑が確信に変わっていく。だが当人は、半端な表情で空を仰いで思案しながら、曖昧に答えた。


「どうかな。それは偶然だと思う。確かに僕は多少そうした性質をもっているけどね、さすがに世界の気候を変えるほどじゃない。でも、君の直感もわかる。去年から……いや、ひょっとしたらもっと前から、異変が起きているんじゃないか、ってね」

「何か兆候があるのか」

「君が言った気象の変化だね。あとは……いや、まあ、どうこう言うには情報が足りないから、想像で憶測するのはやめておこう。ただ、さっきも言ったように、そもそもこの世界がちゃんと成り立っていること自体が奇蹟なんだ」


 しゃべりながらユウェインは、袖や裾をはたいて草や土の汚れを落とし、ふう、と息をついた。


「さて、そんな異常が大きな厄介事にならないように、聖域を清めに行ってくるよ。これだけ暖かくなっちゃ、いろんな生き物がいっぺんに起き出してくる。誰か訪ねてきたら、今日は夕方まで戻らないと伝えてくれるかい」

「わかった」


 カスヴァは短く応じて司祭を送り出した。以前なら護衛にと剣を携えて同行するところだが、相手の正体を知って以来、ひ弱な年少者扱いはやめたのだ。

 司祭はいつものように鞄を肩から斜めがけして、徒歩で木柵の門を抜け、丘を下りてゆく。カスヴァはそれを見送りもせず、館へ引き返した。


(暑すぎる)

 微かな不安と苛立ちが、羽虫のようにまとわりつく。このまま季節が春を一足飛びにして夏へと向かうとなれば、あらゆる物事が狂ってくる。生まれたばかりの子羊の成育も、餌の確保も、作物の植え付けや果樹の管理も。川の水量や、畑への配水も。

 叔父一家が暮らす部屋を覗いて、手が空いていそうだと確認してから声をかける。

「オレク叔父上、少し相談に乗っていただけますか」

 過去に暑さの厳しい年がなかったか、記録を調べて備えなければ。年長者の記憶が頼りだ。カスヴァは家令である叔父と共に執務室へ入ると、過去の台帳を引っ張りだしてめくり始めた。




 二人は時間が経つのも忘れて記録と記憶をさらい、村の地図を睨みながら対策の協議に熱中した。遠慮がちなノックの音がしたのにも、揃って気付かない。

「あの、父上」

「失礼します」

 二人の少年の声が重なって、初めてカスヴァとオレクは戸口を振り返った。それぞれの息子、オドヴァとツィリがそわそわした様子で立っている。


「何かあったのか。入りなさい」

 カスヴァは眉を上げ、手招きした。どうでもいい用事で邪魔できる雰囲気ではないぐらい、二人とも判断できたはずだ。それでも割り込んだということは、緊急あるいは重大な知らせだろう。


 オドヴァは小走りに執務机の前までやってくると、畏まって告げた。

「父上にお客様です」

 さらに若君の一歩後ろに控えたツィリが、詳細を補足する。

「司祭様です。前の特使様のお墓参りに来たとか。教会を訪ねたけれど留守だったから、誰か案内を頼めないかとおっしゃっています」


 いきなり予想外のことを聞かされ、カスヴァはぎくりと怯んだ。巡回特使の来訪予定はまだ先のはずだ。グラジェフの墓参り? 教会を訪ねた?

「……その司祭は、剣を帯びていたか。他に何か言わなかったか?」

 確かめる声がかすれた。グラジェフの知己であるなら、浄化特使の可能性が高い。しかも既に教会を訪れたのなら、異常を見て取ったはずだ。ユウェインは礼拝での祝福をはじめ、惜しげもなく力をふるっている。痕跡に気付かれないはずがない。

 まさかこんな時に不意打ちされるとは。


 カスヴァの質問に対し、少年ふたりは複雑な反応をした。顔を見合わせ、やはり、というようにうなずいたのだ。互いの了解のもと、ツィリが進み出てオドヴァに並んだ。


「殿様。僕でお役に立てることがあれば、何なりとお申し付けください。村を守るためなら、何だってします」

「父上、僕も。何か悪いことが起きているのなら、僕にも戦わせてください!」


「待て待て、何をそう意気込んでいるんだ、おまえたち」

 カスヴァはあっけに取られ、一拍置いてたしなめる。横からオレクもしかめっ面で息子を叱った。

「ツィリ、ちゃんとわかるように説明しろ。勝手に思いこみで先走っては、あるじを困らせるだけだぞ」

「あっ……はい、すみません」

 途端にツィリは赤くなる。オドヴァが慌てて弁護した。

「違う、僕が言ったんです。あいつは悪者に違いない、って。ツィリは悪くない」

 不穏な発言だ。カスヴァは気を引き締め、身を乗り出した。


「暴力をふるわれたり、脅されたりしたのか」

「いいえ。でも、……すごく怖い……というか、なんとなく、あの人は父上を……殺しに来たみたいだと思って。そう、剣も持っていたし」

 うまく言葉にできないもどかしさに、オドヴァは唇を噛む。それほどの気迫を感じさせる、というのだろう。カスヴァは眉間を揉み、瞑目した。


(ああ、そうだろうとも。悪魔がいるとまではわからなくても、断罪する気満々で乗り込んできたんだろうさ)


 偶然ながらユウェインが不在だったのは、せめてもの幸いだ。彼なら悪魔の口八丁でうまくごまかせるかもしれないが、それにしたって突然の襲来には……

 その考えに被せるように、ツィリが言い添えた。

「しかも悪魔みたいな声なんです」

 思わずカスヴァはむせそうになり、変な顔で聞き返した。

「なんだって? ツィリ、それはさすがに問題だぞ。おまえは悪魔の声を聞いたことがあるのか」

「ありませんけど、でもきっとあんな声ですよ」

「知らないのに決めつけるんじゃない。相手がただちょっと怖いだけの立派な司祭だったら、失礼では済まないぞ。とにかく、俺が会って話す。階下したにいるのか?」

「いえ、中には入らず外で待つと言って……」

「わかった。相手のことがはっきりするまで、悪い噂を広めるんじゃないぞ」


 子供らに念を押し、叔父に後を頼んで、カスヴァは急ぎ足に部屋を出た。扉を開けるまでの短い時間に、剣の柄の感触を確かめ、心を静めて集中しようと努める。さながら戦に赴くかのように。


(主よ、どうかお守りください)


 彼は無意識に祈り、次いであまりの皮肉さに唇を歪めた。主がお守りくださるのは、それこそ神のしもべたる司祭のほうだ。道を踏み外して悪魔と契約した愚か者など、庇ってもらえるはずがなかろうに。

 深く息をひとつ。扉の把手を握った左手の中指に目を落とし、炎の環がきらめくのを見て妙な心強さをおぼえながら、外へと踏み出した。


 強い陽射しに目がくらむ。顔をしかめたカスヴァの細い視界に、ひときわ眩しい輝きが映った。燃えるような赤銅色の髪だ。ふわりとそれが動き、見知らぬ人物が振り向いた。

(若い)

 軽い驚きに打たれてカスヴァは竦んだ。射抜くような厳しい視線、子供が怯えるのも当然の険しい面差しは予想通りだが、こんなに若いとは思わなかった。恐らくまだ二十代半ば、せいぜい同い年までだろう。足元に重そうな旅の荷物を置いている。


 一瞬目が合うと、青年司祭は小さく会釈した。が、歩み寄ろうとはしない。カスヴァも会釈を返したまま、用心深く動かなかった。

 互いに出方を窺うことしばし。遠くで雲雀が鳴いたのを合図にしたように、司祭がゆっくり歩を進めた。


「領主殿ですか」


 呼びかける声はひどく嗄れていて、当の領主はどういう顔をすべきか迷った。先に聞いていたおかげで驚きはしなかったが、やはり平静に受け止めるには異様だ。

 赤毛の司祭は三歩ばかり離れたところで立ち止まって、ごほんと咳払いした。


「失礼。この声は昔に患った病のせいです。今は何ともありませんので」

「ああ……こちらこそ失礼しました。チェハーク家当主、カスヴァです。遠路ようこそ、司祭殿」

「お気使い痛み入ります。私は司祭エリアス。かつてグラジェフ様に師事しておりました」


 堅苦しく形式ばったやりとりは、構えた剣の切っ先を小さく揺らして誘いをかけるにも似ている。先に隙を見せたほうが負けだ。カスヴァは慎重に言葉を選んで口にする。


「ということは、あなたも浄化特使ですか。この村へは墓参りのためだけに?」


 他の任務の途上で立ち寄ったのか、それとも、と言外に尋ねる。返されたのは底冷えする沈黙と、凍てつくまなざし。後ろ暗さゆえの錯覚かも知れないが、カスヴァは闇夜の吹雪にまかれた気がして身震いする。幸いエリアスはすぐにふいと視線を外し、漠然と村のほうを眺めやった。


「ええ。本来なら許されない勝手ですが、是非にとお願いして、師の足取りを辿って参りました」

「なるほど」


 では彼は南のモルテュク側から村に入ったのだ。西のノヴァルク側から来たわけではない――ユウェインと鉢合わせしなくて良かった。

 カスヴァがつい気を緩めたところへ、鋭い突きが入る。


「報告書によれば貴殿は我が師と共に戦い、最期にも立ち会われたとか」

「ええ」

 怯んだのを隠そうと聖印を切り、うつむいて故人の魂の平安を祈る。彼が黙祷で動揺を静めてから顔を上げると、ありがたいことに、最前まで相手を取り巻いていた厳しい敵意がいくぶん薄らいでいた。

「ありがとうございます」

 エリアスは小声で礼を言い、自分もまた聖印を切って祈りの文句を唱える。その態度は紛れもなく、心から師を敬慕する弟子のものだ。カスヴァの胸がずきりと痛んだ。


「……グラジェフ殿は立派な方でした。年に二回お会いするだけでしたが、温厚な人柄と豊かな学識で我々を随分と助けてくださった。感謝しています」

「さもありましょう。埋葬してくださったのは、こちらの墓地ではなく森の聖域だとのことですが、案内をお願いできますか。叶いますなら道々、師の戦いぶりをお聞かせください。私は五年前にお別れしたきり、一度も会えずじまいですので」


 さあ、どう答えるべきか。カスヴァは相手の表情を観察しながら慎重に素早く検討した。あらかじめ考えていたのは、ひとまず館で歓待すると言って足止めし、人をやってユウェインを呼び戻すという方法だ。グラジェフの弟子が来ている、と先に知らせることができる。ユウェインは帰ってくるまでに何らかの対策を取るだろう。帰ってこない、という選択も含めて。

 だが眼前の青年司祭は、ひどく頑なな性分が明白だった。飲み食いの誘惑に乗ってくれるとも思えない。下手を打てば疑われてしまう。


(むしろここは提案に乗って、俺が先に立つべきか。聖域まで行けばユウェインも話し声を聞きつけるだろうし、何より……館の者の耳がない場所のほうがいい)


 この特使が何を知っていてどうするつもりであるか、まったく予測できないのだ。ユウェインが戻ってきたら、師匠の仇だとか叫び出すかもしれない。

 カスヴァはちらりと背後の館を振り返ってから、できるだけ自然な態度を装って言った。


「お望みとあらば。とはいえ、少し休まれなくてもよろしいのですか。長旅でお疲れでは?」

「いいえ」

 エリアスは斬りつけるように応じ、一呼吸置いて目を伏せた。

「失礼しました。しかし訃報に接して以来、休息など私には許されない贅沢なのです」

「……わかりました」

 思い詰めた様子に、カスヴァはそれ以上何も言えなかった。


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