おまけ・泡沫の夢でも
本編に深くかかわる閑話は前話で終了ですが、誕生日にかこつけたSSをオマケにひとつ。
現チェルニュク領主の誕生日は新年明けてしばらくの後、冬の最中である。
教会の配布する正確な暦のおかげで個人の誕生日に祝宴も開けるというものだが、何せ真冬なので食料も燃料も贅沢には使えない。
大都市の城に住む領主ならば盛大な宴を催し、領内の富農豪商はもとより近隣諸貴族までも招いて連日連夜のお祭り騒ぎ、市民にも大盤振る舞いするだろう。しかしそれは、チェルニュクに暮らす人々にとっては遠い世界の夢物語だ。
加えてカスヴァは喪中という事情もあり、二十九歳の誕生日をつましく過ごした。平生とほとんど変わりなく、晩餐だけは少し豪華に。使用人たちにも余分に麦酒や林檎酒を飲ませてやった。
そうして息子を寝かしつけた後、彼は教会へ向かった。亡き父と妻について、あるいは昔の思い出などを、幼馴染みの司祭と語らうのだろう――館の者らはそう慮ったが、実際は単に、司祭部屋に秘蔵の葡萄酒があるのを知っているからだった。
「司祭ってのは贅沢なもんだな。葡萄酒なんてここいらじゃ教会にしかないぞ。奢侈強欲も忌むべき罪じゃなかったか?」
「奢侈じゃないのはわかっているくせに。絡み酒で管を巻くぐらいなら館に帰って寝なよ、この酔っぱらい」
挑発するカスヴァも応じるユウェインも、常より遠慮がない。二人ともいささか酔っていた。
葡萄の栽培はこの地方では気候的にかなり難しいため、チェルニュクでは数本しか植えられていない。醸造に回せる量はなく、乾燥させて冬の保存食にするのが目的だ。だが教会の改まった典礼や司祭のしきたりに、葡萄酒は欠かせない。そこで司祭だけは昔から、ノヴァルクの市で定期的に購入しているのである。
この部屋に秘蔵されていた葡萄酒は、前任司祭が常備していたものより上等の品だ。聖都から持ち帰ったものだから。一瓶だけのとっておきは、今日この夜まで開封されていなかった。
「まったく、殊勝らしく主に感謝を捧げに来たのかと思えばこれだよ」
「誕生日ぐらい好きにさせろ。この瓶には前から目をつけていたんだ。封を切るなら今日と」
カスヴァはそこまで言ってから、ふと妙な顔つきになって司祭を見た。
「おまえ、自分の誕生日を覚えているか?」
「もちろんだよ。君よりおよそ一年半後、暑い盛りの七月……」
「そっちじゃない」
強引に遮ったカスヴァに、ユウェインはいささかむっとした顔をする。それから彼はあからさまに皮肉を込めた笑みを浮かべた。
「なんだ、司祭や友人じゃなく、悪魔と話したい気分なのかい。いや、誕生日はもう忘れたよ。生きてた頃の暦での日付は覚えているけど、ヴラニ暦に直したらいつだったかは忘れた。一度計算してみたんだけどね、何回か暦が変わってるせいでややこしくて」
めんどくさいから二度とやらない、とおどけて肩を竦める。軽く明るい口調は、踏み込んで欲しくない話題をごまかすためだろうか。カスヴァは曖昧な表情になり、質問とも独白ともつかない声音で言った。
「千年以上も生きてると、自分の誕生日や年齢も、どうでも良くなるのか」
「そりゃあそうさ。ずっと生まれ持った魂と肉体だけで過ごしていたら、また別かもしれないけど……うう、考えるとぞっとするな……肉体を持たずに過ごしている間は、時間の感覚もあやふやになりがちでね。暦を計算すれば、僕はざっと千五百年を生きてきたことになるけれど、実際にはそんなに長く経った感覚はない。だから、何月何日で千何百歳になります、なんていうのも無意味だね。そんなことより今は『ユウェイン』がいつ生まれで何歳で、これまで送ってきた人生にどんな一年を積み重ねたかを、しっかり自覚するほうが大事だよ」
悪魔エトラムはさすがに人間離れした話をさらりと当然のように語り、葡萄酒の杯を乾した。そして、不意にぷっとふきだす。何がおかしい、とカスヴァが眉を上げると、彼はくすくす笑いながら言った。
「年齢で思い出した。僕らの頃に、笑い話と教訓を兼ねたこんな話があってね……」
ある村に齢百を越えて尚かくしゃくたる、長寿の媼がいた。あやかりたいと訪れる客が絶えず、いつも庭先に何人もたむろしているようなありさま。ある日、そんな客の中に一人のひねくれ者がいて、わざわざ人が集まるのを待ってこう尋ねた。
「長生きしてつらかったことは何ですか。長生きなんてするもんじゃない、と思ったことは?」
長寿を慶賀に来ている客たちはしかめ面になったが、媼はただしんみりと答えた。
「親はもちろん兄弟も、仲の良かった友達、惚れた夫も、可愛い息子に娘まで、みんな先に逝ってしもうた。それが寂しゅうてのう」
さすがに場が湿っぽくなり、誰もがうつむいてしまう。急いで別の客が取りなそうと声を上げた。
「では逆に、長生きして良かったことは?」
すると途端、媼はニタリと凄みのきいた笑みを広げていわく。
「憎いやつ嫌いなやつ、死んでしまえと呪った相手、みーんな先にくたばりよったわ!」
迫力満点の声色のおかげで、カスヴァは思わずのけぞって椅子をガタつかせた。慌てて体勢を立て直し、杯を置いて苦笑いする。
「すごい婆だな。イトゥカなら言いそうだが」
「そんな年寄りじゃない、って怒られるよ。おっと……もうおしまいか」
ユウェインは朗らかに言いつつ、互いの杯にお代わりを注いだ。最後の一滴がぴとんと音を立てる。カスヴァは名残を惜しんで杯をゆっくり回し、改めて深紅の香りを堪能した。芳香と共に、穏やかな司祭の声が胸の奥まで沁みてくる。
「この話の教訓はつまり、どんなに愛そうと憎もうといずれ失われるのだから、囚われるな、ってところなんだ。愛して慈しんで大切に守っても、いずれいなくなる。憎んで怨んで、魂が焼けただれるほど殺意執念を燃やした相手も、遅かれ早かれ塵に返る。肉体も思い出も、名声や記録さえも、何も残らない」
「記録ぐらいは残るだろう」
あまりに淡々と消滅を語られ、カスヴァは心許なくなって口を挟んだ。返ってきたのは、儚げな微笑。
「さあ、どうかな。残らないと思うよ。かつて栄華を誇った世界の覇者ヴェルハラム帝国、宇宙の中心たる都には壮大美麗な建築が天の高みを競い、崇高な文学や心打つ芸術がいたるところに溢れ、数々の偉業が記録された――全部消えてなくなるなんて、誰が予想しただろうね。今はまだ聖都の奥深くになにがしかの記録が……現物ではなく伝聞、聖御子の弟子たちが記したものの写し、そんな程度のものが残っているようだけど、いずれ失われるだろう。あるいは物や記録がかろうじて残っても、それが何なのか、意味内容を理解する知識が消える。すべては儚い一時の夢さ、カスヴァ。とっておきの葡萄酒も瞬く間に空っぽだ」
言葉尻でおどけ、遠い過去の存在から現在の幼馴染みに立ち返る。悪魔エトラムの昔語りはこれまで、というのだろう。
カスヴァは尻の下で椅子が形を変えたかのようにもぞもぞし、居心地悪く自分の杯を見つめた。向かいでユウェインが白々しく上機嫌を装う。
「いやいや、怒ってないし恨んでないよ? 大事な友達の誕生日だ、美味しく飲んでもらえて嬉しいとも。はるばる聖都から持って帰った甲斐があったよね! うん、ユルゲン様が遺した葡萄酒がまだあるから、特別な礼拝の時に開けようと大事にしまっておいたんだけど! たぶん二度と手に入らないけど!」
「ああもう、悪かった! だがおまえもガブガブ飲んでたじゃないか」
「当たり前だよ、君に全部飲まれちゃ堪らないだろ!」
遠慮容赦ない応酬の末、ユウェインが声を立てて笑い出す。カスヴァもつられて肩を震わせ、一拍遅れて哄笑した。
笑いこける二人の間に、つかのま、遠い日の絆がよみがえる。わだかまりも屈託もなく、嬉しい時は共に喜び笑い、悲しい時は一緒に泣いた、信頼と共感の記憶。
葡萄の精が見せる泡沫の夢であったのかもしれない。
それでもカスヴァは、得難い宝を取り戻した気がした。これこそが何よりの誕生日祝いだ。
「ユウェイン」
「うん?」
「……ありがとう」
声になるかならないかの礼は、確かに届いたようだった。幼馴染みの司祭は酔いと笑いで潤んだ目を細め、満足そうににっこりすると――
「おい、そこで寝るな。風邪をひくぞ。おい」
テーブルに突っ伏して、実に安らかな寝息を立て始めたのだった。
(終)




