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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
閑話
62/133

審判の矢を放て



「グラジェフ様が」

 赤毛の青年司祭は一言つぶやいたきり、しばし時を失った。瞬きもせず、虚空を見つめたまま凍りつく。

 訃報を告げた枢機卿は顔を背け、手元に置かれた銀環を取り上げて眺めた。もう飽きるほど調べ尽くし、新たな発見もないというのに。

 ややあってエリアスがふっと息を吐く。それを合図に、枢機卿は銀環を手渡した。


 故人のただ一人の弟子であった若者は、まだ信じられないというように、銀環に彫られた名前を確かめる。グラジェフ様、と再度つぶやいた唇が、ふと止まった。

 眉根が寄り、表情から悲嘆が消え疑念が浮かぶ。銀環を光にかざし、裏表ともじっくり検分してから、彼は問うまなざしを枢機卿に向けた。


「ハラヴァ様、どういうことです? なるべく早く戻れ、というご命令は、このためですか」


 緊急の帰還命令でもない妙な指示に、不審と不安を抱いて帰路を急いだ。その理由がこの銀環なのか。持ち主が死んだはずなのに、いっさいの曇りなく、むしろ霊力を宿してきらめいているとは尋常でない。

 うむ、と枢機卿はうなずき、一通の書簡を差し出した。


「グラジェフの死を看取った司祭からの報告書だ」

「拝見します」

 すぐさまエリアスは羊皮紙を広げた。


 丁寧な文字、というのが第一印象だった。美しく整った文字の列には、動揺も迷いも見られない。事前に入念に下書きをしたのだろう。その甲斐あって、簡潔明瞭かつ充分に感謝と哀悼をも表す文面になっている。


 チェルニュクとノヴァルクを結ぶ街道に外道が現れたこと。ノヴァルクから派遣された討伐兵が皆、呑まれてしまったこと。グラジェフと村の司祭ユウェイン、領主チェハーク家のカスヴァ、この三人でそれを迎え討ち、からくも凌いだが、深手を負ったグラジェフはもはや立つことかなわず……


 大袈裟な修辞を用いず、事実のみを淡々と述べる筆致だった。その調子は、特使の最期について語る部分でも変わらない。


 ――死に瀕した特使グラジェフは、再びこのように外道の襲撃が起きぬよう、一刻も早く警告が届くよう、自らの魂をもって銀環に術を施された。この地の守りが堅くある限り、銀環の輝きは失せぬ、と……


(おかしい)

 直感的にそう確信する。何がどうと具体的に理解するより先に、そんなやり方は彼らしくない、と。

 報告書は、グラジェフの武勇と高潔な志を称え、遺体は最期の地である森の聖域に埋葬したことを伝えたのち、主の導きによって村が救われたことへの感謝と、絶えざる加護を願う祈りで締めくくられていた。模範的な司祭らしく、敬虔にして謙虚、誠実さに満ちている。にもかかわらず、エリアスはそこに一抹のきな臭さを嗅ぎ取った。


 顔を上げると、枢機卿と目が合った。厳粛な面持ちは、ただ特使の死を悼んでいるだけとも、それによって引き起こされる困難を予想して苦りきっているとも見える。

 エリアスは慎重に問いかけた。


「これは……本当なのですか、ハラヴァ様。不審があったからこそ、私を呼び戻されたのでしょう」


 既にかけられた術を後から読み解くことは難しい。彼が初めて生ける死者に遭遇した時、魔術の痕跡を見落としたように、まず発見できるかどうかが運に左右される。今回のように明らかであっても、術の詳細を掴むのは、完成した料理を見るだけですべての材料とその産地まで当てろ、というようなものだ。

 だが聖都なら。すべての聖職者の中で最も優れ秀でた頭脳と才知と熱意の集うこの大聖堂ならば、それが可能なのではないか。少なくとも、報告書の真偽を確かめるぐらいは。


 予想通り、枢機卿は重々しくうなずいた。その眉間の皺が深くなる。

「教理典礼省の審理院に提出し吟味を依頼するほどの根拠があらぬゆえ、個人的な伝手で調べたのだ。……それで良かった」

 ふ、と苦渋の笑みが唇をかすめる。エリアスは余計な言葉を差し挟まず、ただ沈黙した。


 ハラヴァ枢機卿の地位勢力も、少しずつ衰えているのだろう。彼は現教皇の派閥に属しているが、だからとて盤石ではない。数々の実績を上げてきた熟練の浄化特使を失い、さらにその死に不審があると騒いだのでは、自ら足元を危うくすることになる。

 そうした事情ゆえ、彼は最初から“個人的な伝手”を利用したに違いない。


(政治的な事情はどうでも……良くはないが、私が立ち入れるものではないからな)


 冷淡な無関心と微かな軽蔑、されど己もまたその影響を被らずにはいられないことへの苛立ちが、ざらつく澱のように不快だった。早く続きを言ってくれないものか、と焦れる。

 ハラヴァ枢機卿は手振りで報告書を返すよう促し、受け取って一瞥すると小さく嘆息した。


「報告書は間違っていない。ある意味ではな。施されていた術は確かにグラジェフの霊魂を銀環に結びつけておくものだ。……銀環の活性状態を維持するのに必要な最低限の部分だけであって、彼の精神や存在そのものがここに封じられているわけではないぞ」


 あらぬ期待をさせまいとしてか、枢機卿は本来ならエリアスごとき条件付き司祭に与えるべきでない知識を仄めかした。エリアスは無表情を保ち、はい、と一言だけ応じる。黄金樹の書庫で既にその類の秘密を探り当てていることは、おくびにも出さない。

 枢機卿は探るように若者の顔を凝視したが、何も得られなかったらしく、むっつりしたまま続けた。


「ただし、結合を維持する条件が報告書の通りではないのだ。実際には『司祭ユウェインの地にある限り』と定められている」

「報告書の文言は正確ではない。けれど、間違っているわけでもない。疑わしいが、疑う根拠もない。そういうことですね」

「いかにも。司祭ユウェインに関しては学院の記録を一通り調べたが、何の問題もなかった。凡庸で凡才、何ひとつ特筆すべきところのない、無害で無視できる人物。むしろ思想的には我々――私やグラジェフ、そなたと同じ類に属しておる。『目を開いて多くを知り、そして考えよ』」


 芝居がかった調子で流派の標語を唱えると、ハラヴァは生え際が後退して広くなった額をぺたりと撫で上げた。難しそうな顔つきはそのままだ。考え事をしている時の癖らしく、エリアスが学院で学んでいた頃から変わらない。


「であるからして、グラジェフと剣呑な対立があったことを隠蔽しようだとか、あるいは最悪、かの司祭が外道襲来のどさくさ紛れにグラジェフを殺害した……だとかいう事態は、疑いにくい。それほど悪辣であるなら、学院在籍中に何かしらの言行が記録されているだろう。疑うなど愚の骨頂、まして特使を派遣するなど論外、経費の無駄」


 そして多弁で回りくどいのも相変わらずだ。エリアスはこの調子で延々と続けられた講義を思い出して、ややげんなりした。


「つまり、私に行けと仰せなのですね。グラジェフ様の弟子として、公務ではなく個人的な追悼のために」

「命令はせぬ。そなたの望みであろう」


 枢機卿はとぼけて応じた。こんな私的な場でさえ政治的用心深さを手放さない。エリアスは内心呆れたが、さればこそ今の地位に長年留まっているのだし、その恩恵で己も悪魔を殺せるのだから文句をつける筋合いではない。彼は畏まって一礼した。


「では、そういうことで。すぐにエリュデ王国へ向かいます」

「許可する。ああそうだ、丁度良い。グラジェフの銀環を持って行け。報告書の内容が事実ならば、遠い聖都ではなくノヴァルクで保管しておくほうが、危難に際して迅速な対処ができよう。……事実であればな」


 含みを持たせて念を押す。つまり、事実であるかどうか確認するまで隠しておけ、事と次第によっては証拠品として持ち帰れ、という指令だ。エリアスは謹んで拝命し、形見の銀環を握り締めた。よろしい、とハラヴァ枢機卿は満足げに微笑んで祝福を授ける。


「行くが良い、司祭エリアス。主の御目はあらゆる悪を見逃されぬ。そなたは審判の矢となりて邪悪を射抜くのだ」

「主の光は正しき道を照らし給い、我が歩みはそれに従わん」


 激励に対する決まり文句で応じ、エリアスは退出しようと踵を返す。そこへ、ためらいを含んだ声がかけられた。


「……ああ、エリアス。もしも、の話だが」

「はい、何でしょうか」


 くるりと向き直り、一瞬、瞠目する。ほんのわずかの間に、枢機卿はただの老人になっていた。威厳も威光もなく、名誉も権力も、ありとあらゆる恩寵が飛び去って誰からも見放された、寄る辺ない老人に。

 錯覚か、とエリアスが瞬きすると同時に、老人が言った。


「もしも望むならば、そなたの人生は……いや、すまぬ。余計なことであった」

 おほんと咳払いして取り繕う。見慣れた姿を取り戻し、枢機卿は力のこもったまなざしをエリアスに向けた。

「良いか、目を開き耳を澄ませて、常に情報収集を怠るな。そして忘れるな、そなたが選べる道は無数にあり、教会に縛られてはおらぬことを」

「ハラヴァ様……?」

「そもそも、そなたのような者が司祭である筈はないのだ。そなたは主に仕えるしもべであるが、本来、教会の規定に認められた者ではない。我々が神の軍隊であるとするなら、そなたは神に直接雇われた傭兵だ。そのことを、心に刻んでおけ」

「……」

 エリアスは無言で頭を下げ、それ以上長居せず急ぎ足に外へ出た。


 別の時に言われたら、さぞ衝撃だったろう。女と知りながら叙階した張本人に、司祭ではない、と否定されるなどとは。だが今は、言葉の裏に隠された意図を推測するのに忙しく、それどころではなかった。


(あれは私をいつでも切り捨て……否、切り離せる、という示唆だ。情報収集とは邪悪についてではなく、教会の情勢について。恐らく枢機卿にとって好ましくない事態が持ち上がりかけている。だから私に、司祭であることに縛られるな、と仰せられたに違いない)


 そもそもが規定違反、いるはずがない存在なのだから、教会に絶対服従する必要はない。いざとなったら銀環を握ったまま身を隠すという選択すらあり得ると、唆したのだ。教会に属することに固執せず、ただ神の兵士であれ、と。


(他の派閥の大司教が聞けば、それこそ審問にかけられること間違いなしだ。長く聖務省長官を務めたせいで、すっかり擦れて合理的になったらしい。悪魔的と言って良いほどに)


 半ば呆れ、半ば頼もしくもあり、苦笑が口の端にのぼる。

 だから恐らく、あの束の間の気弱、言いかけた『余計なこと』は。


 ――望むならば、そなたの人生は……


 いつでもエリシュカ=ベドナーシュのそれへと戻って良い。そんな温情だったのだろう。もしも教会内の権力構造が変わり、司祭エリアスなる存在を守れなくなるのなら、諸共に破滅する前に本来の人生へ戻らせてやるべきだ、とでも思いやったか。

 まさに余計なお世話だ。

 エリアスは鼻を鳴らし、通廊の端で立ち止まって庭園を眺めやった。芽吹きの季節、淡い緑の霞が梢を包んでいる。これからならば北への旅も楽だろう。


 握ったままだった拳を開き、形見の銀環を改めて見つめる。浮かびかけた涙を瞬きでごまかし、彼は首から鎖を外して、己の銀環と一緒に師のそれを通した。ふたつの環が触れ合い、小さく澄んだ音を立てる。そんな些細なことが、胸に押し込めた熱を破裂させそうになった。


(まだだ)


 目を瞑り、歯を食いしばって堪える。泣くのはまだ早い。真実を明らかにし、ただ純粋に哀悼して良いのだとはっきりしてから。あるいは、このような形で手がかりを遺した師の無念を晴らしてから。


(待っていてください、グラジェフ様。あなたの命を奪った邪悪を、必ず見付け出します)

 それが外道ないし悪魔であろうと、人間の悪意や愚かさであろうとも。

(報いを受けさせてやる。絶対に、徹底的に)


 悲しみは闘志と執念に変じ、昏い炎を噴いて躍る。

 エリアスは唇を引き結び、昂然と顔を上げて歩き出した。



(終)

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