智
CQ、CQ
あいんちょ
うっちゃま
マコ
ミツル
余計なお世話だと分かっているけど、どうしても四人のこと、自慢したかったんだ。
ホームルームの終わった教室から、ざわめきが降ってくる。
薄暗い昇降口を出ると、廊下を走る上履きと引きずられる机が運動部を待つグラウンドにこだまして、空へ巻き上げられていく。
一番乗りだと駐輪場に向かうものの、目印で泥除けに貼った羅針盤のシールは屋根の下に整然と並べられた列の間に見当たらず、寝坊で辺鄙な所しか空いてなかったのを思い出した。
廃棄用の椅子を積んだ粗大ゴミ置き場の壁には、遅刻常習犯たちのマウンテンバイクやミニベロが無造作に立て掛けられている。六月終わりの直射日光にさらされたスポークは過剰な輝きを放射し、サドルに触れると、沸騰したやかんのような熱さにたまらず手が跳ねる。夏が始まると放課後の自転車が告げているのを知り、気分は高揚する。
黒い煙を吐く焼却炉を避け、来賓用の駐車スペースをアイドリングがてらに蛇行する。校門をくぐると同時に鞄のペンケースを揺らし遊ばせていたペダルを踏み込めば、力強く回る車輪が小さな身体を地の果てまで連れ去ってくれそうだ。三時を過ぎて尚太陽は真上にのさばっていて、気怠げに歩く人たちの間をスラロームするのはいつだって優越感を味あわせてくれる。
金物店の見飽きた『本日特売』の幟をはためかたせ耳で風が渦を作り、誘われるままフルートのフラッターが小さく鳴り始める。仮面幻想が原曲より薄気味悪く這うのは、昼休みに怖い話の持ちネタで盛り上がったせいだ。
片側二車線の国道に突き当たったら車道の端に滑り込み、前を走るトラックに照準を合わせギアを上げていく。小石を弾き飛ばしアスファルトを蹴り上げる細いタイヤにさあ行け、と背中を押され、ドロップハンドルを低い位置で握り直すと追い風を味方につけ一気に加速する。
夏が来る。からっぽの、高二の夏だ。
卵を落としただけのインスタントラーメンだが、日頃父親に独占されている席でテレビを見ながら食べる夕飯は格別な味がした。
自動車部品を製造する会社で働いている父は、クアラルンプールに新設される工場のプロジェクトで当座のメンテナンスと現地スタッフへの技術指導役を命じられた。自他共に認める仕事人間で、腹を空かしても頑と居間を動かず母親の帰りをひたすら待つのが休日のお決まりだったから、父を見送り成田から戻ってきた母は思いあぐねている様子だった。そして
「夏休み入れて二ヶ月だし、一人暮らしさせるならあんたの方がマシだわね」
と言って手続きを数日で済ませると、味噌や昆布を詰めたスーツケースと色分けした付箋が貼られたガイドブックを携え、父の後を勇んで追いかけて行った。
食器を水に浸けたらゴミ袋の口を縛って玄関に出し、敷地にあるプレハブに足を運ぶ。解体業をやっている叔父の現場から物好きな母が譲り受け宝塚の鑑賞用に改装した防音室で、俗世から逃避する城としてもってこいだと俺が居座るのに時間はかからなかった。
棚の前で腕組みし、作曲者のアルファベット順に並べたCDのタイトルを上から見流す。コレクションと呼べる枚数ではないが、弁当の間に合わなかった朝に出る昼食代を節約し、街中の中古屋で集めてきたアルバムには皆選りすぐりの一枚だといった愛着があった。
シェヘラザードを選んだらオーディオプレーヤーのボリュームのつまみを右にひねり、二人掛けの古いソファーに浅く掛ける。スプリングのきしまない箇所を腿の裏で探り、導入部のトゥッティが全身にぶつかってくるのを、息を潜めて待つ。集中するあまり聴き終える頃には嵐の海を掻き分けるトロンボーンのスライドやたけり狂ったシンドバッドの振り回すバイオリンの弓に両耳がハウリングしていて、それが心地よかった。
教科書が入れっ放しの鞄の隙間から、皺になった古文の解答用紙が滑り落ちる。「海老永智」の横に付けられたのは中学でなら考えられなかった点数で、基礎をやり直すべく学年が上がる前に買っていた単語帳は、二階の自室に積まれた参考書の間に帯が付いたまま背表紙だけ陽に焼けていた。
ソファーに横になり、テストも単語帳もなかったことにしよう、と指の跡が付くまで読み返した小説を手繰る。じきに眠れるだろうという当ては外れ、時計の針が日付を変えても頭は冴える一方だった。
今日から好き放題、やりたい放題だ。そう思うと、プレハブで手持無沙汰にしているのは惜しい気がしてくる。
降って湧いたチャンスをどうやれば活かせるか、数日考えてはいたもののワタルやヨッシーを呼んで騒ぐくらいしか浮かばず、それじゃ今までと変わんないんだよな、と本を閉じる。散歩行くか、明日は土曜だし。
一段抜かしで二階の財布を取ってくるついでに、玄関に置かれた姿見を目の端で捉える。ようやく百六十センチを超えた薄い体躯に、黒縁眼鏡と剛毛のために整えるのを放棄した髪。着古したTシャツと膝下をハサミで切ったジーンズの取り合わせは「だらしない」と母に窘められるが、楽なので改める気になれなかった。
タイヤの摩擦で点灯するライトは足手まといだからオフ。曲乗りはお手の物だ。竹の根がはびこる道の凹凸も、腰でバランスを取り滑るように愛車を走らせる。左手で四拍子を取りながら右手でワルツを振ろうとして二拍目でつまずき、
「でーきーなーいーでーきーなーいー」
と手旗信号の物真似をして、ハンドルに両手を戻す。高校進学を機に新しくしてもらった自転車に信頼に似た気持ちを寄せるのは、バスで通うのが常識的な距離を定期より安上がりだからと親に交渉して勝ち取ったスペックと、硬いサドルの小刻みな振動が、何一つ夢中になれない空疎な身体でも地面とは等しく繋がっているのだと安心させてくれるからかもしれなかった。
次のカーブを曲がれば長い下り坂が待っているが、ブレーキには指を掛けない。空気抵抗を逃がすため頭を下げ、顎で風を切り裂き駆けると逆に景色の流れはスローになる。プロペラみたいに回転するスポークに構わず、進行方向のできるだけ先を意識してハンドル操作を最小限に留めるのが暴走の秘訣だ。転倒すれば怪我では済まないが、誰も見ていない場面で相手のいないチキンレースに挑むのは絵になる気がして、っしゃーと声が出る。
図書館に着くと正面に自転車を停め、建物の奥へ迂回する細い道を歩く。
大きな窓に掛けられたブラインドが緑の非常灯を透かしていて、反対側に御影石を敷き詰めた休憩所、芝生の広場と道路を挟んだ向こうには湖が広がっている。広場へ続く手入れの行き届いた小径には緩やかなうねりが付けられ、遠くの木立を望むアングルは晴れた日に来ると海外の紀行文に出てくる挿絵のようだった。
昼間もひとけのない休憩所は鬱蒼とした林と腰まである壁に囲まれ、石を削り出してできたベンチが二つ、右奥と左手前に十分な距離を保って置かれている。互いを気にせず安らいで欲しいという設計者の配慮だと思われ、この場所を気に入っている所以の一つだった。
壁にもたれ枝の合間から目を向けると、街灯を映した湖がぼんやり揺れている。他に家並も通り行く車もなく、ベンチに寝そべると周囲の暗がりが夜空と同じ深度だったのに気付く。両手を広げた木々に見下ろされ、その湾曲した枝は落とし穴の底で頭上を仰ぐ自分や、湖の橋の下に集まり赤と白の背びれでおしくらまんじゅうする鯉の魚眼レンズを連想させる。
水の層のような梅雨の大気に点在する、消え入りそうな光。星座の知識は乏しいので即席で結んでは名前を付けてみる。枕を持ってくるのを忘れ、頭の下の腕を痺れる度に組み直す。
何してんだろ、こんなことのために退部したんだっけ。
どれくらいそうしていただろうか。
ふいに瞬いた星の一つが、みるみる大きくなりこちらに近付いてくる。錯覚ではないか正体を確かめようと半身を起こすと、ヒュンと鼓膜の奥が膨張した次の瞬間、薄雲を引き裂いて青白い炎が真珠色の光を分裂させながら一直線に湖に激突し、長大な水の柱を上げた。地鳴りが固いベンチごと身体を揺らし、暴風がブロック壁を越えむしり取った葉を窓ガラスに叩き付ける。
雷、それとも、人工衛星の残骸?
二発目が来たら身元不明の黒焦げになるぞと本能が警告するのを聞くより早く、湖に駆け出す。高い波が湖面をうねらせ、遊歩道を水浸しにしている。
何か浮上してきはしないか、まばたきを堪え水面に目を凝らす。岸へは一分かからなかったが湖は闇に紛れ、飲み下した炎のわずかな破片も吐き出さなかった。深夜のせいか人の集まる気配はなく、空に怪しげな光線や飛来物のしるしは残っていなかった。瞼に焼き付いて消えない炎の激しさなら早打つ心臓が証明しているのに、漕ぐのを止めたブランコのように、湖は元の静けさに返ろうとしている。
波音が静まるまで粘った後、仕方ないと諦める。ただの雷だったんだ。誰かにひけらかしたくても肩透かしを食らった感じがして、再現できそうにないと思うとまた萎える。
ポケットに両手を突っ込み、図書館へ引き返す。近道の植込みを飛び越えようとして立ち止まったのは、誰かがため息を吐くのが聞こえた気がしたためだった。振り向くと、女の子が背中を丸め畔にうずくまっている。溺れていたのか雷に打たれたか身体から立ち上る湯気で分からないが、どうやら湯気や蒸気ではなく、ベンチから見えた真珠色の光のようだ。
虹の切れ端を思わせる微かな粒子を宵闇に溶かし、外灯に照らされた少女が立ち上がる。そしてよろけながら湖へ進み出し、制するべきではと俺が声を発しかけると、沈む砂に足を取られ、膝から崩れ落ちた。
網戸で漉されたこまやかな風に、栗色の和毛が揺れる。
二階にある両親の寝室で少女が眠るかたわら、自分の取った行動が正しかったか両足を放り出し、反芻してみる。
警察や救急車を呼ばず少女を背負い連れ帰ったのは、落ちてきたのはUFOに違いないという直感と、俺が助けてあげなくてはという脈絡のない使命感に駆り立てられたからだった。
宇宙人と出会ってしまった。マンガやアニメで見た展開じゃないか。
得も言われぬ興奮に最初は足取も軽かったが、背中にリアルな重さを感じるうち家に着く頃にはUFOでなくロケットで、宇宙人でなく外人だったのではと覚束なくなっていた。
けれどテレビを付けてもロケット事故の速報はなかったし、夢なら覚めていい頃なのに、熱い蒸しタオルに似た夜明けの光が瞼にのしかかかり、いつもと変わらない朝の予兆を運んできても、少女は受け入れるのをきつく目を瞑り拒んでいるようだった。そうして一晩中まんじりともせずいた俺の頭は、いっそう混乱した。
でもだよ、生きていてくれて良かった。
小さな頭と猫じゃらしの穂を並べたみたいな眉、薄っすら開いて閉じる口元にはあどけなさが残っている。目鼻立ちから十歳くらいか。ただ、緩いウェーブが胸元まで届く髪には幼さとアンバランスな艶やかさが漂い、眉間には憂いのようなものが刻まれている。
宇宙服よりドレスに近いミントグリーンの上着は薄手ながらマットの感触があり、電子機器の基板を思わせる密に交差したラインが袖に引かれている。立ち襟は少女の顎を隠しストッキングの踵は垂れ下がっているが、服に汚れがなく身体に傷がなさそうなのは真珠の光が彼女を助けたのだろうか。
小さな声を上げたかと思うと、少女が目を覚ます。深い、瑠璃色の瞳だった。
「あの、痛い所、ない?」
起き上りしな少女の口からこぼれた言葉は文節の不明瞭な知らない国の鼻歌みたいだったが、戸惑う俺に合わせるようにキイと滑舌が聞き覚えのある響きに近付いてきて、最後は
「男の子」
と言っているのが分かった。束の間の出来事に自分が意訳しただけかと思ったが、少女ははっと喉をさすり、その手に見入って呆然としている。
「ここ、僕の家だよ。名前聞いてもいい? 僕は智」
「トモ? 私ツァレヴナ。助けてくれたんだよね」
部屋を見回し危機的な状況は脱したと安堵したか、強張っていた表情が崩れる。
今度は普通に喋ってる。日本語が通じるなら宇宙人じゃないか。けど子供の乗組員は聞いたことがないし、地球発のロケット墜落、では説明がつかない。
「ゆうべ落ちてきたのって、もしかしてUFO?」
「私、リウスという星から来たの」
リウスという星。じゃあこの子、宇宙人なんだ。
切れたぜんまいを巻き直すように、徹夜明けで滞っていた血液が早送りで循環し始める。ガッツポーズしかけた両手を下ろし、崩していた足を正して座り直す。地球を代表してまずは確約をもらわなくては。
「侵略するんじゃ、ないですよね」
「違う。この星にある音楽を探すつもりで、シップが制御不能になって」
「お父さんお母さんは、はぐれちゃった?」
「私だけだけど、乗ってたの」
棘をはらんだ少女の声が一オクターブ下がる。すると腹の鳴る音がして、夕方のラーメン以降食事していなかったのを思い出した。ミネラルウォーターと三角むすびとサンドイッチとナポリタンをコンビニの袋から取り出し、一列に並べて見せる。
「お腹空いてない? チャリ取りに戻った時買って、どれが口に合うか分かんなかったから」
「ありがとう」
「服、大き過ぎない? 脱出する時それしかなかったの」
サンドイッチの赤いフィルムを逆に引こうとする少女が口ごもる。ショッピングセンター、専門店入ってたよな。レンジにおにぎりとパスタをセットし、「食べて待ってて」と伝え俺は財布を手に取った。
宇宙人が、俺の家にいる。
胸の高鳴りを抑えきれず、立ち漕ぎのまま信号の現れない一本道へ舵を切る。スピード違反で捕まえてみろと対向車線の白バイに啖呵を切り、前輪を持ち上げ歩道からジャンプすればブロックMのサビのメロディーが堰を切ってがなり始める。旋盤で削られるような火花を散らしながらシンバルが暴発し、シャツを吹き抜ける風がスネアドラムのロールを追い越して、もっと早く、もっと強く、と乳酸のくすぶろうとするふくらはぎをけしかける。
あの子と接触して、真珠の光が俺に乗り移ってないかな。
肩をそびやかしてフロアを歩く間、誰彼構わず目配せするので子供服の看板を見落としかけたが、店内が子連れの大人だけなのを察し入口で立ち止まる。
高校生男子が女児の服選んでたら不自然か。それに好きな系統、聞いておくんだった。
そそくさ商品を掴んでカゴに放り入れ、「会員カードはお作りしますか?」の声も聞かず会計を済ませ競歩で店を出る。下着まで今買わなくてもと思い返したのは家に戻り紙袋を渡す間際になってからだったが、少女は胴体より長い耳のウサギが刺繍されたトレーナーに目を通し、不服そうな色を浮かべた。
「私、十七歳だから」
「なら、僕と同い年だ。あんまり大きくならないんだね」
「そんなとこ」
「だよね、宇宙人だもんね」
包装紙と一緒に片付けようとコンビニの袋を持ち上げる。ポリエチレンの持ち手には重量がなく、中には空の容器が詰まっていた。
「ごちそうさま、美味しかった」
全部食べてしまったのを気にしているのか、それから少女は服に同梱されていた紙片の字面を指で辿り、「ふくびきけん」と声に出した。
お腹、空いてたんだね。
茶化してみたいと好奇心が頭をもたげる。
言ったらどんな反応するだろう、知り合ったばっかじゃ失礼か。でもユーモアの嗅覚を試すのはいかにも異文化コミュニケーションって感じ、するんだよな。
自問自答しているうち沈黙が訪れ、浮わついていた心に波が立つ。とっとと何か言わないと。
「あの、名前」
「ツァレヴナ」
「橅って呼んでもいい? ブナの木の橅」
「いいけど」
「これからどうしよっか」
咄嗟に思い付いた質問を投げ掛ける。思い出したように橅が顔を上げ、手から福引券が舞い落ちる。
「サルベージしなきゃ、シップ」
タガメとオタマジャクシの遊ぶ透明な水をたたえた田園を乾いた風が渡り、伸び盛る茎を揺らし穂先をなぞりながら緑の濃淡を変えていく。脈の浮き上がった葉を茂らせる桜並木が道の端まで続き、アスファルトにまだらの影を作る。午後の陽光が差して隠れるのを瞼で感じているのだろう、「くすぐったい」橅が呟く。
四月ならピンクのトンネル、くぐらせてあげられたんだけどな。不時着した星での外出でナーバスになっているかと思ったけど、
「きれい」
と初めて背中に柔らかい声を聞く。
でも、UFOが見つかったらどうなるんだろう。帰りは一人かな。
玄関の前に用意した自転車の荷台を心許なさそうに一瞥すると、橅は横向きに腰掛けた。危ないから跨いだ方がと勧めても「やだ、そんなの」と俺の腰でなくシャツの端を掴もうと頑なだったが、母親の背中に鼻を擦り付けるサンバイザーの二人乗りが通りがかり、歩きじゃ遠いしね、と笑いかけたら「分かったから、早く出してよ」橅はそっぽを向いた。
貸ボートの場所はうろ覚えだったが、湖畔を走るうち釣具屋の駐車場の奥に桟橋が覗く。湖といっても全周が視野に収まる大きさで、UFOが落ちたおおよその地点は図書館の位置から見当がついた。
嘴のペンキが剥げかけた足漕ぎスワンを小屋のおじさんが用意してくれようとして、すみません、とオールの付いたボートを選ぶ。
「お嬢ちゃんはこっちが良かったよなあ」
話し掛けられても橅は知らんぷりだ。
水底を探すならと俺が先にボートに乗り込み、腰を下ろす。揺れる船体が怖いのか、橅は立ったまま橋のたもとを動かない。
はい。
隣のおじさんが何となく気になり控えめに差し出した手に、橅がためらいながら小さな指を乗せる。空を透かした金色の糸が雲を宿した鏡面に跳ね、少女の頬に幾輪かの波紋を広げる。胃の上の方が締め付けられる感じがした。
水深は思っていたよりなく、底まで見通すことはできたがどれだけ探しても橅がシップと呼ぶ飛来物の痕跡はなかった。ボートは一回三十分で、二度目の延長をお願いするために戻ると「もうお金いいから、気が済んだら戻っておいで」とおじさんは上機嫌だった。
手を振り返したのは俺だけで、橅は次第に口数が少なくなっていった。下げたままの首がうっ血しかけ波をかぶりそうになりながら探索の範囲を広げても、沈んでいるのは空き缶や枝ばかりだ。湖底の泥の下に埋もれた可能性はないか、顔色を窺いつつ尋ねると橅も予想していたのだろう、
「本当に私、遭難したんだ」
ぼそりと俯く。
ドッグランで遊ぶ犬と公園を走る子供たちの歓声が、二人の頭の上を空しく通り過ぎていく。橅が納得するまで付き合うつもりでいたものの泥を漁るまではできないし、おじさんに余計な疑念を抱かせないためにも決断を下すべき頃合だ。けれど葦を啄むつがいの水鳥に顔を逸らし、俺は橅の言葉を待つしかできずにいた。
陽が傾き始め風が強くなり、縁すれすれの波がボートを揺らして
「帰りたい」
橅が重く口を開く。
「戻ってからさ、どうするか考えよう」
早くここを離れなければと遮二無二オールを漕ぎ、ボートを返す。橅に責められないよう悲痛な顔を、って、俺に演技指導してるのは誰なんだろう。
家に帰り着き居間に直行してテレビに縋ってみるものの、バラエティ番組のわざとらしい哄笑が場違いに思えてチャンネルを変える前に電源を切る。橅は途中で寄ったスーパーでもの珍しそうに選んでいたメロンパンにも手をつけず、ひどく消耗しているようだ。
シップがなかったら星には帰れないの? 他に方法はない?
聞くべきだと分かっていながら口をつぐんでいるのは、そう、出会ったばかりの宇宙人との別れを自ら呼び寄せるみたいで嫌なんだ。それが疚しいから、励ましてさえあげられないんだ。
喉を通らない三色丼の箸を置き、音を立てず拳を腿にめり込ませる。女の子がピンチなんだぞ、宇宙人とか関係あるか。
「お菓子あるんだった、取って来るね」
仕切り直さなくてはと裏返ったサンダルを玄関で戻していると、橅が無言でついてくる。プレハブ部屋に招き入れ、そこ座ってて、とソファーを勧めてみるが立ったまま後ろに手を組み、虚ろにオーディオデッキを眺めている。
もう一回探しに行きたいと言われたら、次はスコップ持参か。
棚にあるはずのクッキーがなく自分の部屋だと思い出し、ちょっと待っててくれる、と声を掛ける。すると力の抜け切った身体をソファーに横たえ、橅は静かに寝息を立てていた。
無自覚にほっとしたものの、後ろめたさがすぐに追いかけてきて、ないまぜになる。起こしてはいけない気がして、仮眠用に置いていたタオルケットに手を伸ばす。
幼い頃、寝そべっている所に母が掛けてくれた布団は羽みたいにふんわりしていた。おんなじように、と用心深く重ねていくと肩をかすめた俺の腕を、橅が掴んだ。動けなくなり反応を待ったが、寝た振りではなさそうだ。
昨夜もそうだった、憂いの寝顔。真っ白な指先が伝える熱は子供の体温か、宇宙人だからだろうか。
いいや、どっちだって。この小さな手は助けを求めてる。俺が守るんだ。




