第90話 それでも、相鳥静玖はあなたのことをあいしています(後編)
その時。
2027年4月18日 午前6時28分。
戦場の誰もが天を仰がずにいられなかった。
退魔師も、狼男も。
空に亀裂が走る。
蜘蛛の巣のように、幾重も、幾重も。
――なにか、とても畏しいものが宇宙の“外”から迫っている。
天狗峠に集った者は皆、本能的にそれを感じ取った。
魂ごと押し潰されそうな圧迫感。
指ひとつ動かすことができず、呼吸もままならない。
まるで時間が止まったかのようだった。
森羅万象すべてを窒息させながら、罅はその数を加速度的に増やしていく。
時空が“内側”へと減り込んだ。
キィィィィィィィィィィィィ、と悲鳴じみた金属音が響き、鉄の焦げるような匂いが立ち込め――
決壊した。
蒼穹の破片が、まるで硝子のようにバラバラと落ちる。
天空に穿たれた“孔”。
そこから何か巨大なものが打ち下ろされた。
黒く、鋭い――時計の針。
先端は剣のように尖り、その手前だけがわずかに膨らんでいる。
それは地を抉り、山をひとつ、完全に消滅させた。
数秒遅れて衝撃波が吹き荒れる。
激しい揺れとともに地割れが生じた。
「どうなってやがる……」
地面に膝を衝きながら、鳩羽兵衛は呟く。
「一体、何が起こってんだ」
「さあな。案外、世界の終わりってヤツかもしれねえぜ」
答えたのは、鴉城白夜である。
彼は激戦の末に片腕を失っている。
バランスを崩して倒れかけ、そこを兵衛に受け止められた。
また、別の場所では、
「ぬ、ぬぬぬぬぅっ……」
雉間裕次郎が呻いていた。
ひとすじの脂汗が、蟀谷を流れ落ちる。
「面妖な……されど邪気は感じぬ……。そもそもここは何処なのだ?」
前述のとおり雉間裕次郎は本陣を離れ、ひとり好き放題に暴れ回っていた。
調子に乗るあまり迷子のような事態に陥っていたのだが、彼の発言は、そういう意味合いでは、ない。
まるで別の惑星に飛ばされたかのような風景。
空は紅蓮色に染まり、山の草木は消え、どこまでも荒野が広がっている。
見渡せば、途方もないサイズの長刻針が、いくつも大地へ突き立てられていた。
さらにまた、別の場所にて、
「空間領域の支配権を、奪われた……?」
伊城木月は驚愕に目を剥いた。
彼女の周りでは緑豊かな天狗峠の風景が保たれていたが、数秒と経たぬうちに紅蓮の荒野へと塗り替えられた。
この現象は、いわゆる結界術などとは本質的に異なる。
魔力・霊力による世界への一時的な干渉、ではなく。
心象世界が投影された亜空間の創造、でもなく。
最も近縁の事象を挙げるなら、
――神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(旧約聖書1:3)
今ここには伊城木月を遥かに凌駕する神格が存在し、それがそう願ったからこうなっている。
魔法でも何でもなく、ただの現象。
当然にして必然の条理。
これを為した存在は、いま、天空からゆっくりと舞い降りつつあった。
なびく黄金の髪はさながら彗星の尾のよう。
雄々しくも逞しい肉体に、赤備えの小手と具足を纏っていた。
いずれも曲線的でありながら鋭利なフォルムであり、轟々たる火焔を思わせる。
顔立ちは若いが、大人びている。
ヒトに当てはめるならば20代前半くらいだろうか。
伊城木芳人。
先刻、この時間軸に誕生した、最終最後の神格である。
彼が右手を掲げた。
すると天から無数の歯車が降り注ぎ、狼男の三分の一を圧殺した。
歯車はそのまま転がり出し、残った狼男の半分を轢殺した。
彼が左手を掲げた。
大地から時計の針が飛び出し、他すべての狼男を股裂きに貫いた。
斯くして狼男はみな死に絶え、魂魄は彼の影へと送られた。
これらはわずか十数秒で成し遂げられた。
あまりに常識外の虐殺劇。
誰もが戦慄を覚え、いまだ、身じろきもできないでいる。
その中で、最初に動いたのは、
「芳くんの手は借りません。貴方は私が排除します、伊城木直樹」
伊城木月の血を引く少女――神薙玲於奈。
落とした刀を拾い上げると、ほとんど体当たりのように踏み込みながら斬撃を繰り出す。
それは本来、無駄な悪足掻きに終わるはずだった。
自己暗示によって強化された直樹の肉体は、城塞の如き堅牢さを誇っていた、が、
「所詮、贋作は贋作。本物の前では霞むもので――ええ、だからこそ、私も貴方も、霞のように消えるべきなのでしょう」
白刃が、骨肉を断った。
直樹の左腕が、あまりにも呆気なく、地面に落ちる。
「――僕の芳人に、よくもッ!」
「芳くんなら向こうにいます。貴方はただの偽物、私と同じ、できそこのないの粗製乱造ですよ」
ふたつの影が交差する。
玲於奈は追撃に移り、直樹は残る片腕で《浄華灼滅》を放とうとした。
どちらも、己の生存を度外視していた。
一方は諦観ゆえに、もう一方は激情ゆえに。
このままならば、ほどなく両者は刺し違えていただろう。
「……玲於奈ちゃん!」
静玖は駆け出していた。見ていることに耐えられなかった。
だが魔法の杖を失った彼女はあまりに無力で、割って入るにも力不足。
そもそも間に合うはずもなく、玲於奈の太刀は直樹の首に触れ、直樹の手は玲於奈の頭蓋を掴んだ。
悲劇が起こる、その寸前。
静玖は心から願った。
神様、どんなことでもしますから、どうか私に時間をください、と。
それは本来、叶うはずのない望みだった。
残念ながらこの世界の神の多くは、人間というものを羽虫くらいにしか思っていない。
祈ったところで「鳴き声がうるさい」と鬱陶しがられるだけ。
しかし、例外というものが存在する。
その神は時間を司り、なにより、静玖のことも、玲於奈のことも、大切に想っていて、
――わかった。
何の躊躇いもなく、力を行使した。
世界が凍り付く。
時間の流れが堰き止められる。
その中で、静玖だけが動きを許されていた。
「芳人、さま?」
戸惑いとともに呟くと、
『ああ、俺だ』
耳元で声が聞こえた。
果たしてどのような力なのだろうか。
念話とは違って、息遣いまで近くに感じられた。
『こっちもまだ力を制御しきれていないんだ。玲於奈を頼む。それと、だな』
なぜだか口籠る芳人。
ああ、うん、などと呻いた後に、
『……怪我をしないように、気を付けてくれ』
どこかぶっきらぼうな調子で、そんな言葉を告げてきた。
「わかりました、芳人さま」
戦闘中ではあるが、静玖の口元が綻んだ。――本当にこの人は不器用なんだから。
けれど、ちゃんと理解できた。彼はわたしを心配している。いまも見守ってくれている。
『魔法の杖や【夜よ来たれ】なんかに頼らなくっても、静玖は大丈夫だ。保証する。俺の代わりに、オヤジをブン殴ってくれ』
その言葉は、静玖にとって万の味方を得たに等しいものだった。
大きく息を吸い込む。
『「《権能付与:【時間】》――」』
それは未知の詠唱だった。
芳人の声に導かれるよう、静玖は一言一言を口にしていく。
音が喉を震わせるたび、全身に暖かなものが流れ込む。
『「――《仮想終焉》・《時空崩解》」』
神の権能は、到底、ヒトの身に扱えるものではない。
秒と保たずに自滅するのが常だが、しかし。
静玖はこれまで何度となく念話で芳人とやりとりを続け、魔力の受け渡しも行ってきた。ゆえに彼の力に対してある種の“慣れ”を持つに至り、また、このとき2人は互いを気遣いながら寄り添っており――いや、言葉をいくら重ねたところで真実には至れまい。
結局のところ。
恋は万理を覆す。
ただそれだけのことである。
静玖の指が伊城木直樹に触れ――その全存在を、どうしようもなく、崩し解いた。
活動報告でちょくちょく書籍版のラフを公開しているのでよければご覧ください。




