第81話 それでも、相鳥静玖はあなたのことをあいしています。(前編)
ここからヒロインラッシュ。
序列云々は28話の前書きを参照するといいかも。
相鳥静玖は天狗峠山頂部の、やや端寄りの位置に佇んでいた。
下はかなりの急斜面になっており、ほとんど崖のようなものである。
そこから何かが飛び出した――と認識した瞬間には、もう、眼前に拳が迫っていた。
「――――ッ!?」
回避できたのは幸運としか言いようがない。
もしも首を反らしていなければ、今頃、静玖の顔は内側に向かってひしゃげていただろう。
死の鉄槌が、右目のすぐ横を掠める。
そこに巻かれていた包帯が破け、はらりと落ちる。
相鳥静玖はいつも片目を隠している。
軍服めいた黒いコートに、指抜きのグローブ。
いわゆる若い美意識に基づいたファッションである。
はじめはただの趣味だった。
自己満足。
自己陶酔。
目的はそのふたつだけ。
しかし芳人に出会ってからは、だんだんと別の理由に変わっていった。
どうやら彼もこういう格好が好みらしく、表には出そうとしないものの、チラリチラリと視線を向けてくるのだ。
芳人が自分を気にしている。
それが嬉しかった。
もっと注目されたかった。
――女は見られて美しくなる、という言葉があるが、静玖はその実例である。
芳人のまなざしを意識することで、彼女の容姿はさらに磨かれていった。
中学時代の同級生からは「もともと素材はよかったけど、この一年でずっと綺麗になった」と噂され、高校では、「入学式に出たきり欠席している謎の美少女」として話題になっている。
もちろん静玖にしてみれば周囲の喧騒などまったく興味はなく、心のなかはひたすら芳人のことばかり。
芳人のほうも彼女のことを憎からず想っているようだった。
だからこそ気に食わない。
芳人に関わる女のうち、伊城木直樹が最も嫌っているのは相鳥静玖だった。
単に見てくれがよくて。
単に男受けのするスタイルで。
単に女に生まれついたというだけで。
たったそれだけのことで芳人の気を惹いているお前が妬ましい。
追撃に移る。
顔は後回しだ。
胸を削ぎ落とすとしよう。
「《歪曲術式》――」
右手をくわと開いた。
魔力が横溢し、あたりに虹色の粒子が飛び散る。
「――《我が手鉤は断空無却の審判である》」
天を抉るように腕を振り上げる。
それは空間そのものを刳り抜く一撃。
静玖は、自らの武器たる魔法の杖でそれを受けようとした。
防ぎきれない。
杖の心臓部たる青い宝玉ごと、直樹の手――その表面を覆う歪曲空間により原子レベルまで磨り潰されていた。
ならばこれは無駄な抵抗だったのだろうか。
答えは否。
ほんのわずかではあるが、腕の軌道を逸らしていた。
スカートが削られた。
コートの前面が削られた。
その下のブラウスも削られた。
しかし幸いにして――静玖自身の肉体には届かない。
「くぅッ……!」
二、三歩、たたらを踏む。
衣服がはだけて下着が露わになるが、それを隠している余裕もない。
なんとか距離を取ろうとするものの、
「逃がさない」
直樹のほうが早かった。
「おまえは芳人にふさわしくない。フられておいて縋りつくなよ、身体だけの売女が」
殺意の魔拳が放たれる。
狙い違わず、神速でもって静玖の下腹を貫かんとし、
「――おおっと、R-18Gはやめてもらえませんかね」
横合いから飛び込んできた影に阻まれる。
速度を乗せた強烈な当身が、伊城木直樹を弾き飛ばした。
「彼女は芳くんの大事なお嫁さん候補ですし、手を触れないようにお願いします。イエス静ぽん、ノータッチ」
それは神薙玲於奈である。
いつもと変わらぬ飄々とした口調ではあるが、細められた瞳は退廃的な色調を帯びていた。
「ありがとう、玲於奈ちゃん。でも、その手…………」
「ああ、これですか」
左腕を掲げた。
手首から先が消滅し、動脈から血が噴き出している。
「《断空無却》でしたか、あれが当たっていたようですね。別に大したことではありません。1、2、3、はい」
手品めいた掛け声を発する玲於奈。
次の瞬間、その左手はビデオの逆回し映像のように再生を果たしていた。
「えっと、今のって――」
「芳くんの《時間術式》、のまねごとです。やればできると言いますが、その点だけは伊城木月に感謝しておきましょう。父にありがとう、母にさようなら、そしてすべての子供たちにおめでとう――ずっと昔にそんなセリフで締めたアニメがありましたっけ。……私の場合は両親がどっちも母親で、生まれからして呪われたシロモノですが」
ゆっくりと、けだるげな動作で静玖に背を向ける。
「要するに私はバケモノなんですよ。もともとそのように自認していましたが、最近、想定以上にスリルでショックかつサスペンスな証拠を突き付けられまして、まあ、ここはひとつ命の清算を済ませてしまおうかと」
「待って、玲於奈ちゃん」
静玖は手を伸ばす。
なぜだかひどく嫌な予感がしたのだ。
このまま玲於奈を行かせてしまえば、もう二度と会えなくなるような――。
「申し訳ありませんが、ここからは私の戦いです。静ぽんは下がっていてください」
しかし、静玖の指先は空を切るばかり。
玲於奈はすでに踏み出していた。
「最後に、友人としてアドバイスしておきます。強がるのもいいですが、少し落ち着いたほうがいいですよ。芳くんは黒獣になってなお、静ぽんのことをきちんと認識していました。……それはきっと愛というものなのでしょう。私には縁のないものですから、心の底から羨ましく思います」
刀を抜く。
鞘走りの音が玲瓏に響いた。
その視線は伊城木直樹へと据えられている。
「お待たせしました。それでは斬って斬られてその先に、私も貴方も姉さんも、一人残らず露と消えましょう。それがきっと芳くんにとって一番の結末ですから」
* *
事が極点に行き着けば、素手と刀の違いは存在しない。
威力、リーチ、取り回し――そんなものはすべて誤差の次元へ押し込められてしまう。
「裏切者がッ! お前も真姫奈と同じだ! いつもいつも僕の手からすり抜けていく!」
絶叫とともに、暴狂の嵐が巻き起こる。
殴打、烈蹴、突進、噛砕――。
その連撃は音速域に達し、衝撃波を伴いながら玲於奈の命を奪わんとする。
「そもそも私は、貴方のものになった覚えなどないのですが。直接会うのもこれが二度目か三度目でしょうに」
「うるさい、こっちは月から聞いてるんだ! お前が、真姫奈の妹じゃないことをな!」
交差する拳と刃。
そのたびに互いの身体が大きく崩れ、次の瞬間には次撃へと移る。
喩えるならば独楽同士の激突、互いに引き付け合っては反発を繰り返していた。
「仰るとおり、私は神薙真姫奈の娘ということになるのでしょう。で? だから?」
もちろん玲於奈も無傷ではいられない。
身体が欠けるたびに《時間術式》を発動させ、そのダメージを帳消しにしている。
防御や回避を捨てた戦いぶり。
それは、一撃離脱を旨とする普段の彼女からは大きくかけ離れていた。
「結局、認めたくないだけでしょう。真姫奈姉さんはいまも芳くんに夢中で、貴方とのつながりは捻れて拗れた腐れ縁だけ。寂しいですね虚しいですね、ウサギみたいに死んでみてはいかがですか」
「違うッ! 真姫奈なんてどうでもいい! 僕は芳人のことをッ!」
「愛している? 冗談でしょう。貴方にあるのは依存質のコールタールめいた執着だけですよ。……ああ、間違えました。コールガールですね」
「殺してやるッ……相鳥静玖より先に、お前をズタズタに引き裂いてやる……ッ!」
「できるものならどうぞ」
煽るように嘲笑しながら玲於奈は剣を振るう。
……彼女のその横顔は、泣いているようにも見えた。
少なくとも静玖はそう認識していた。
「玲於奈、ちゃん……」
同い年の退魔師で、小学校からの同級生。
ちょっと破天荒だけど、内側に籠りがちなわたしの手を引いて、いつも外へ連れ出そうとしてくれる大切な友達。
助けになりたいと思う。
一緒に戦いたいと思う。
玲於奈が傷つく姿を傍観しているだけの現状は、静玖にとって耐えがたいものだった。
だが魔法の杖は完膚なきまでに破壊されている。
綾乃の力を借りようにも《夜よ来たれ》はなぜか発動しない。
一週間前006に襲われた時もそうだったし、あれからずっと不調が続いていた。
理由は分かっていた。
《夜よ来たれ》の本質は、強烈な自己暗示である。
ノートの内容を現実と思い込むことで 「序列3位“拒絶する理解者”」の設定を自分自身に被せ、戦闘能力の引き上げを行う……のだが、問題がひとつ発生していた。
序列3位“拒絶する理解者”は芳人の従者であり恋人とされている。
一方、現実の相鳥静玖は告白を断られており――その矛盾が、暗示を阻んでしまうのだ。
ゆえに今の静玖は、ただただ無力な存在だった。
何もできぬまま玲於奈を見守ることしかできない。
そして、趨勢はあろうことか直樹に傾きつつあった。
śūnyatāは仏教でいう「空」のことです。




