忍び寄るヤミ(3)
――誰かから恨まれているのかもしれない。
そんな予感が確信に変わったのは、海水浴実習の朝、更衣室にしまっていたはずの水着がなくなっていることに気が付いたときだった。
前回水着を使った後、洗濯して自分のロッカーにしまって以来、一度も水着を触った覚えは無い。しかも、水着を入れていたカバンや一緒に入っていたタオルはちゃんとあるのに、水着だけが抜き取られたみたいに消えている。
もしかしてタオルにくるんだままカバンにしまったのかもしれない。
畳まれていたスカートタオルを開いてみると、足元にひらりと黒い布切れが落ちた。
指先ほどの小さな小さな黒い破片。
手にとってみれば、それが水着の生地だということはすぐにわかった。
――ゾクリ、と背筋を氷が這う感覚が走る。
見えない恐怖への不安で真っ白になった頭に真っ先に浮かんだのは、響くんと行ったお祭りの夜。ぶつけられたカキ氷の小さな衝撃と冷たい感触は、今でも鮮明に覚えている。
もしかしたら、誰かが私に嫌がらせをしているのかもしれない。
――でも、一体誰が?
心当たりなんて全然無い。でも、自分の知らない所で誰かの不興を買っている可能性だってある。
思考は暗い方向へ沈んでいくまま、とりあえずジャージに着替えて更衣室を出る。
いつもより重たく感じる更衣室のドアをもたれかかるようにして閉めたとき、背後から声がかけられた。
「さくら先生……」
廊下に立っていたのは、響くんだった。海水浴実習の集合場所は指導所の玄関前だったはずだけど、響くんのことだから一緒に行こうと迎えに来てくれたのかもしれない。
「おはよう響くん! 実習の支度は出来た?」
不安を気取られないように出来るだけ明るい声で挨拶したのに、なぜか響くんの表情は暗かった。
不思議に思って響くんの視線をたどってみれば、私の手元に――握られたままだった黒い破片に注がれていた。
「さくら先生、それ――……」
「な、なんでもないの! ごみが落ちていたから拾っただけよ!」
慌てて誤魔化したけれど、響くんの表情は全て見透かしているみたいに暗いままだ。
「なんでもない人は、『何でもない』なんて言わないよ……」
健気な眼差しを真っ直ぐに向け、不安気な声で言われてしまえば、それ以上誤魔化すことなんてできない。
「……水着が、なくなっていたの。ずっとロッカーにしまってたはずなのに……カバンはあるのに、水着だけがなくなっていて……」
声に出して言葉にしてみると、改めてその異常さが理解できた。
どうして私の水着なんて……。
恐い。気持ち悪い。
口から漏れそうになる言葉を、ぐっと飲み込む。
響くんの前で、ただの弱音なんてこぼしている場合じゃないと思い直す。私は大人で、指導官なんだから。弱い女の部分を晒して生徒に縋るような真似はやっぱりしたくない。
「……多分だけど、お祭りのときに私にカキ氷をぶつけてきた人の仕業じゃないかな。なんか私、恨まれるようなことしちゃったみたい」
冗談めかして言ったつもりだったのに、響くんは声を荒げて否定した。
「――違う!!」
投げつけられた鋭い怒声に思わず目を瞠る。
私の顔を見て響くんははっとした様子で慌てて言葉を継いだ。
「あ――いや。そんな気がするってだけだけど……。お祭りのときのは、もしかしたらただの偶然とかかもしれないだろ。誰かがごみを捨てるつもりで茂みに投げたらたまたま先生にぶつかっちゃったとかさ。だけどこれは――これはそういうのとは全然違う」
響くんは私の手の中にある黒い布切れに視線を落とした。
「誰がこんなことを……」
長い指が伸びてきて、水着の切れ端を握ったままの私の手をそっと包み込んだ。手の甲からひんやりとした響くんの掌の感触が伝わってくる。
私の手に触れる指先は微かに震えていた。
響くんの指先が震えているのか、それとも私の身体から起こる震えなのかよくわからなかった。
「大丈夫だよ、さくら先生のことは絶対に俺が守るから……」
響くんのまっすぐな優しさに触れ、我に返る。
目の前の温もりに安易に手を出すなんて軽率だ。響くんは生徒で、私は彼を指導する立場。まして響くんは思春期の多感な年頃だ。
彼に不要な誤解を与えないためにも、私は指導者としての立場をはっきり示すべきだ。
そう思い、握られたままの手を離す。
少し強引な仕草になってしまったことを誤魔化そうと、響くんに笑顔を向けた。
「ありがとう。でも、私はこれしきのこと気にしていないから大丈夫。考えたら、響くんの言う通りカキ氷だってたまたま私にぶつかっただけだと思うし。水着だって誰かが自分のものと間違えただけかもしれないじゃない? 指導所からの支給品だから、みんな同じ水着だし」
わざと明るくそう言ったけれど、響くんはかえって心配そうに眉を寄せた。
「さくら先生、無理しないで」
「無理なんてしてないって。ぜんせ――ええと、こういうことは初めてじゃないから本当に大丈夫。こいう幼稚な嫌がらせみたいなものはわりとよくあることだから。いちいち気にしてたらきりがないもの」
前世の女社会では、学生時代から牽制や嫌がらせなんてよくあることだった。
いじめとまではいかなくても、何かの警告の一種かもしれない。続くようなら深刻だけれど、あまり犯人を刺激するのも良くないし、もうしばらくは様子を見ていた方がいい気がする。
そう思って口にした言葉だったのに、なぜか響くんの表情には一層暗い影が差していた。
「よくあるって――さくら先生、こういうこと、前にもあったの……?」
「よくあるってほどじゃないけど……女の人なら、似たような経験は多少なりともあると思うよ。響くんは男の子だからよくわからないかもしれないけど、女の人っていうのは――……」
響くんに女社会の複雑さを説明しようとしたら、鋭い声で一喝された。
「男とか女とか関係ない!! なんで平気だなんて言えるんだよ!! こんなことされて嬉しい人間いるはずないだろ……!!」
「それは、そうなんだけど……」
これが男同士だったら、まっすぐ拳や言葉をぶつけ合って、お互いの気持ちを率直に伝えるのかもしれない。
でも女の人というのは、よく言えば控えめ、悪く言えばしたたかだ。
自分の感情をストレートに伝えることが相手にとっても自分にとっても必ずしも最善ではないとわかっている。それが、周囲から見て醜いと思えるような感情なら尚更だ。
伝えたいけど伝えない。だから察して自重してほしい。きっとそういう気持ちなんだと思う。
「多分、犯人も悪気があるわけじゃないと思うの。何か訴えたいことがあるけど、直接言う勇気がないだけで……」
「だからそれが――……」
響くんはそこまで言いかけて、言葉をのんだ。代わりに、何かを諦めた様子でふるふると首を振った。
「エリオット先生の言う通りだった……。先生は何もわかってない……そんなだから俺は心配になるんだ……何かあってからじゃ遅いのに……っ」
響くんの口から思いがけずエリオット先生の名前が出てきて、どきりと心臓が跳ねる。
ここでエリオット先生が出てくるなんて――もしかして、私に対する嫌がらせに関係しているのだろうか。
だとしたら犯人の動機は明白だ。
エリオット先生みたいな優秀で秀麗な指導官に目をかけてもらっている私に対する嫉妬という線で間違いない。
犯人の行動に賛同はできないけれど、そうしたくなる気持ちはわからなくもない。
だってエリオット先生みたいな素晴らしい人の近くにいることを許されるなんて――もしもそれが私ではない他の女の子だったら、私だってきっとその女の子のことを羨ましいと思うから。
ましてその女の子が、自分よりも未熟で劣っているのなら、尚更悔しさは増すだろう。
「あの、響くん……。このこと、エリオット先生には黙っていてもらえるかな。余計な心配かけたくないから……」
響くんはわずかに瞠目し、すぐにふっと表情を和らげた。
「……さくら先生は、エリオット先生のことが大切なんだね」
「べ、別にそういうわけじゃ……!」
響くんに心の内を見透かされているみたいで、頬が熱くなる。
赤面する私を見る響くんの目が、ほんの一瞬鋭く細められた気がしたけれど、気のせいだったのかもしれない。
すぐに表情を柔らげると、優しげに微笑んだ。
「……いいよ。さくら先生がそう言うのなら、エリオット先生には黙っておく」
「ありがとう……」
響くんが笑顔でそう言ってくれたので、ほっと胸を撫で下ろす。
私がエリオット先生の崇拝者から嫌がらせを受けていると知ったら、エリオット先生は責任を感じて私と距離を置こうとするかもしれない。
いつも私を見守ってくれているエリオット先生の優しい笑顔。
どんなときでも私を導いてくれる温かい手。
そのすべてが目の前から遠ざかることを想像した途端、宇宙空間に身一つで放り出されたみたいな心許ない浮遊感に襲われる。
(嫌だ……。エリオット先生に置いていかれるなんて、そんなの絶対耐えられない……)
私が恐れているのは、エリオット先生から見捨てられてしまうこと。
面倒な教え子だと、関わることを拒否されることだ。
ふいに響くんの手が伸びてきて、すっかり冷たくなった私の手を誘うように引いた。
「……さくら先生、そろそろ集合場所に行こう?」
頷き返しながら、私は頭の中から不快な想像を追い出した。




