忍び寄るヤミ(2)
(なんだ、これ……一体誰がこんなことを……)
当然、さくら自身がやるはずがないから、きっと他の第三者の犯行だろう。
真っ先に響の頭に浮かんだのは、エリオットの張り付いたような笑顔だった。
同時に祭の夜にエリオットが口にした言葉が耳に蘇る。
(そうだ……あいつは他にも、さくら先生のことを狙っている奴がいるって言ってた……)
そう考えた時、背中を冷たい血液が駆け上っていった。
それは不審者への恐怖ではない――さくらを狙う不届きな存在への残忍な怒りだ。
たちまち、全身がどす黒い感情に侵される。
(誰であっても関係ない……。俺からさくら先生を奪おうとする奴は、全員消――……)
「――いくら誰もいないとはいえ、女子更衣室に忍び込むのは感心しませんね」
背後の闇の中から投げられた声に、響は身を硬くした。
しかしそれも一瞬で、すぐに憎悪の滲んだ目を暗闇に立つ人物に向ける。
「……あんたがやったのか?」
「? なんのことです?」
首を傾げながらひょいと響の足元を覗き込んだエリオットは、そこに散らばっているものを見て小さく息を呑んだ。
「それ……あなたがやったんですか……?」
「ちが……っ!! 俺じゃない!! 俺が来たときにはもうこの状態で――!!」
「では、その手に持っているものはなんですか?」
エリオットの冷ややかな視線が、響の手に握られた裁ちばさみに注がれる。
「こ、これは――!」
響は続く言葉を飲み込んだ。
いくら否定しようとも、状況証拠が揃い過ぎている。今何を言ったところで言い訳にしか聞こえないだろうし、余計に疑心を買うだけだ。
言葉に詰まる響を見て何かを悟ったのか、エリオットはすっと目を細めた。
「……真実、犯人があなたではないのだとしても、結局は同じことでしょう? あなたも同じことをしようとしたのですから……」
「……っ」
「大方、星崎先生の水着姿を誰にも見せたくなかったのでしょう……浴衣姿のときのように。まったく、だからあなたは愚かだと言うのですよ。私が何のためにわざわざ海開き前の海岸で実習をするなどと言い出したのか、考えてみればわかるでしょうに」
エリオットがまだ気温が上がりきらないにもかかわらず、この時期に海水浴実習を推した理由。予約も利用者も殺到している温水プールを選ばなかった理由――。
(そんなのわかってる。海開き前の今なら海岸に人がいないからだ。だけど俺は、誰よりも一番あんたに見せたくなかったんだ……)
唇を噛みながら自分を睨む響を見下ろして、エリオットは苦笑した。
「まあ、あなたのそういう愚かしいところも、私は可愛いと思っていますよ」
「――馬鹿にしてるのか……?」
「まさか、本心ですよ。ほら、『馬鹿な子ほど可愛い』と言うではありませんか。未熟で詰めが甘く、危なっかしくて目が離せない――そんな教え子ほど、可愛いというものです」
「……誰のことを言ってるんだか」
エリオットは答えず、相変わらずにこやかな表情をその端正な顔に張り付かせたままだった。
「まあ、あなたが二度と愚かな行為に走らないと誓うのであれば、今回は何も見なかったことにしてあげま――……」
「――嫌だ」
仮面のごとく動きの乏しかったエリオットの片眉が、ぴくりと動く。それを見て、響きは心底胸がすく思いがした。
「嫌だね。あんたが言う愚かな行為ってのがさくら先生を求めることだって言うなら、俺はそんな誓いはしない」
まっすぐにエリオットに向けられた鳶色の瞳には、強い意志が宿っていた。それが純粋すぎて危ういのだということに、響自身は気付く気配も無い。エリオットはそのことを憐れに思うと同時に、面白いと思わずにいられなかった。
「でしたら……私と勝負しませんか?」
「……は?」
訝しげに眉を寄せる響を見て、エリオットは一層面白そうに口元に浮べた笑みを強めた。
「勝負ですよ。私とあなた、どちらが先に欲しいものを手に入れるのか……」
言葉の途中で、響の表情に怒りが差す。
「さくら先生は物じゃない……!!」
噛み付くように叫ぶ響を見て、エリオットは呆れの混じった声を漏らした。響を見下ろす視線には、蔑みが滲んでいる。
「……くだらない。色欲も物欲も結局は同じ欲です。何かを死に物狂いで欲するときに、綺麗事を言っている余裕などありません。そんなこと、あなたが一番良くわかっているでしょう……?」
「く……っ」
言い返すことが出来ず、響は悔しさに唇を噛むしかない。
認めたくないが、エリオットの言うとおりだ。綺麗事を振りかざしていられるのは、それだけ理性に余裕があるからだ。いざ欲しいものを目の前にしたら、そんなもの、あっという間に霧散するというのに。
「……まあ、あなたが勝負に乗ろうと乗るまいと、私は私の為すべきことをするだけですが」
そう言い置くとエリオットは響に背を向け、更衣室の出口に向かった。
ドアノブに手をかけたところで、ぴたりと動きを止める。
「――明日の実習が、楽しみですね」
暗闇の中から聞こえた笑みを帯びた口調。漆黒に紛れたエリオットの表情を思い浮かべ、響は反吐が出そうになるほど激しい嫌悪を覚えたのだった。




