忍び寄るヤミ(1)
前世の私がいた世界では、学校のプール開きと言ったら六月だった。
月日や曜日といった概念が無いこの世界では、今が何月なのかはっきりとはわからないけれど、近頃では天気の良い日には長袖のシャツが汗ばむようになって来た。たぶんそろそろプール開きをしてもおかしくない季節なんだと思う。
「『海水浴実習』――明日、ですか?」
放課後の教室でエリオット先生から手渡されたプリント用紙。
書かれた文字を読み上げると、同じプリントを響くんにも手渡しながらエリオット先生はにっこりと微笑んだ。
「ええ、そうです。響くんの世界には海水浴イベントがあるでしょう。先日のお祭りイベントも好成績だったようですし、この機会に他のイベントも実習してみてはどうかと思いまして」
響くんの実習を行う事には大賛成だが、海に入るのはまだ少し早い気がする。海水って、真夏でも結構冷たいし。
「あの、温水プールとかでは駄目でしょうか? 海に入るのはまだ寒いかと思うんですけど」
「残念ながら、今の時期温水プールは、他の指導官の予約で埋まっているのですよ。それに、海水浴イベントとは言っても、メインは砂浜です。ヒロインと砂の城を作ったり、波打ち際できゃっきゃうふふしたり、ナンパされるヒロインを救ったり……ああ、海の家で焼きとうもろこしを食べるというのもありましたね」
海の家は、まだ開店していないと思うんですけど……。
というか、焼きとうもろこしは乙女ゲームではあまり見かけたことがありません。
なんだかよくわからないけれど、エリオット先生がものすごく海水浴実習推しなことだけは理解できた。
「意外です。エリオット先生って、海がお好きだったんですね」
「いいえ? 潮風で髪も皮膚もべたつくのであまり好きではありませんが?」
「それならどうして――……」
ふいにエリオット先生の頭が近付いてきて、肩に暗い影が落ちる。
「浴衣姿は残念でしたが――水着姿、楽しみにしていますね」
耳元で囁かれた甘い声に、一気に顔が熱くなる。今の私だったら、耳から蒸気が噴き出せると思う。
「み、水着って――……」
思わず漏らした声は、響くんの咳払いで掻き消された。
「先生――……」
配られたプリントに目を落としていた響くんが、ぱっと顔を上げた。
覗いた表情は、にっこりと笑顔の形だ。
「――明日海水浴実習をするなら、準備があるのでもう帰っても良いですか?」
「あ、うん……良いけど……」
響くんは短く挨拶を口にするとそのまま教室を出て行った。
響くん、顔は笑っていたけれど、なんだか少し様子がおかしかった。
なんともいえない違和感を覚えながらその背中を見送っていると、隣でエリオット先生がふっと笑みをこぼした。
「……私も、明日の準備がありますのでそろそろ失礼しますね」
* * * * *
夜中の指導所は、深い闇に包まれていた。
明かりも人気もない真っ暗な廊下に落ちるのは、響の持つ懐中電灯の小さな光と、微かな足音だけだ。
廊下も、教室も、よく知っている景色のはずなのに、昼間とは別世界のようだった。指導所の中が、果てのない異空間にでもなったような気がしてくる。
それでも、響は目指す部屋に迷うことなくたどり着いた。
確認のために、ドアの横に掲げられた教室札を懐中電灯の明かりで照らし出す。
(女子更衣室……)
一抹の罪悪感を覚えながら、響はあらかじめ用意していた鍵で開錠すると、ドアノブに手を掛けた。
金属の軋んだ音をたてながら、ゆっくりとドアを開く。
真っ暗な室内に明かりを差し入れて誰もいないことを確認してから、響は静かにその中に足を踏み入れた。
十畳ほどの室内にはアルミ製のロッカーがいくつかの列を成して並んでいた。
響はそれを端から順に照らし出し、扉に張られた名札を確認していく。
(違う……これも違う……違う……)
二列目のロッカーに差し掛かったとき、響は目的のロッカーを見つけて小さく息を呑んだ。
(『星崎さくら』――これだ)
祈るような気持ちで、ロッカーの扉に手を掛ける。
案の定、鍵は掛かっておらず、あっさりとその扉は開かれた。
(更衣室自体が施錠されているし、きっと自分のロッカーを漁る輩なんていないと信じてるんだろうな。まあ、そういううっかりなところが、さくら先生らしいけど……)
呆れの混じった苦笑を浮べてから、響は懐中電灯をロッカーの中に向けた。
照らし出されたのは、ハンガーにかけられた運動用ジャージの上下と、体育館用シューズ、そして扉の裏側に張られた鏡に映った情念に歪んだ自分のおぞましい顔だった。
(さくら先生、ごめんね……)
心の中で一身に謝りながらも、その手を止める気配は無い。
響が懐中電灯を持っていない方の手でジャージを横にずらすと、その向こう側に転がっていた水泳バッグが光に晒された。
「あった……!」
小さく声を漏らしてしまい、慌てて辺りを見回す。
廊下の気配を探り、誰もいないことを確かめると、響はほっと胸を撫で下ろした。
(こんな姿、誰かに見られるわけにはいかない……)
指導官が授業で使うジャージや水着を更衣室に常備しているという情報は聞いていた。
さっさと用事を片付けてしまおうと、意を決して水泳バッグに手を伸ばす。
(さくら先生、ごめんね……)
もう何度目か知れない謝罪を心の中で唱えながら、響はバッグの紐を解いて中を暴いた。
片手が懐中電灯で塞がっているので、もう片方の手だけで目的のものを見つけだすのは至難の技だった。
それでも必死でバッグの中を弄っていると、とうとうそれらしい布地の感触を指先が探り当てた。
(多分、これだ――これが、さくら先生の水着だ)
響は片手に水着を掴んだまま、懐中電灯を床に置き、空いた手をポケットに差し入れる。
ポケットから取り出したのは、大きな裁ちバサミだった。
(さくら先生、本当にごめんなさい。でも俺、先生の水着姿を他の男に見られるなんて、そんなの絶対に我慢できないから……)
懺悔に唇を噛みながら裁ちバサミの刃を水着に当てた時、響はふと違和感を覚えた。
(なんかこの水着、やけに小さくないか……?)
あのさくらが、こんな面積の狭い水着を職場のプールで着るだろうか?
嫌な予感がして、響は咄嗟に水泳バッグを手に取ると、その中身を床にぶちまけた。
恐る恐る懐中電灯で照らしてみれば、そこにあったのは、ビリビリに切り刻まれてただの黒い破片と化したさくらの水着だった。




