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ヘコめば沈む、笑えば浮かぶ、進むのは怒りと意志、方向転換は判断力。
まっくらな意海を進む基本がそれだ。
敵の腹下をくぐり抜けるためには、鬱々としながら激怒する。
螺旋上昇するためには、笑いながら激怒し、判断する。
極めればその場で180度回頭や、宙返りもできるが、そのためにはどれほど感情の制御と出力が要るかわからない。
薄緑に照らされた密室――心動船の内部に、三人と一匹がいるのも、それだけの感情量が要るからだった。
「魔女! 『沈み』すぎだ!」
心軍の制服に身を包んだ青年が手を開閉させながら、吠声をすぐ前の背中へ叩きつけた。叩きつけられたフードを目深に被った女は、体育座りをしたまま鬱々と。
「――そう、深淵の底を見通したところで、星の真理を得たところで、人はいずれ死ぬ、その後などありはしない。ただの無となり消えて去る、なんの救いもない、どんな喜びもまるで無駄。あとチョコチャンククッキーたべたい」
「あ、ぼくも! それって甘いんだよな! みんなで食べようぜ!」
ハンモック上で暇そうにぷらぷら揺れていた女の子の、小さな手が元気よく挙がった。
「魔女はいつまでもへこんでんじゃねえ! 聖女は暴れんな! 狭いんだここは!」
移動速度のみを考えた船は、三人と一匹でほぼ満杯だった。
奇妙なほどに整然とした木目の壁が、ふるえるように声を出した。
「――人間に理性があるとの指摘は、やはり間違いに違いない。泰樹よ、尊く静かなわたしたちと粗野な動物は相容れることはない」
「クソ船も独り言っぽく皮肉言ってんじゃねえ! 事態わかってんのか!」
初顔合わせからの初航海は初戦闘へと――いや、初逃走へとなだれ込んでいた。
暗い意海の中を、専用艦が暴れて進む。浮上は一時のみ、あとは精神状態の悪化から徐々に沈みつつある。
背後からは、数え切れぬほどの追跡者が迫る。黒い世界が朱に染まるほどの数と飢え。追いつかれれば間違いなく意海の藻屑となる。
「おまえも他人事みてえな顔で寝てんなっ!」
軽く叩かれた白猫が、迷惑そうに顔を上げた。金色の瞳が船長を、そしてその遙か先の様子を捉える。
「ああ、クソ、距離変わってねえ……!」
意海を――無限とも思える暗がりの中を泳ぎ追う牙の集団だった。体は無く、白銀に輝く無数の歯が――飢餓の概念がガチガチと迫り来ていた。
「こら猫! なんだ映像変わってねえのかみてえにアクビすんな、というか寝んな! おまえしか遠くまで見える奴いねえんだ!」
猫は弾みをつけて跳躍し、聖女の元へと潜り込んだ。
「おおっ」
力任せに撫でられるのも気にせず、膝の上で丸くなり、やれやれと鼻を鳴らす。
「ああ、これだから猫は!」
「こればかりはセンに賛成票を。人間種ですら不愉快だというのに、爪とぎをする生物など、ありえない」
「その差別主義直らねえのかクソ船、あとチョウをつけろ! 続けて船・長! それくらい言えんだろ!」
「拒否する。あなたに長の字がふさわしいとでも?」
「この……!」
歯を噛み、後方壁を睨みつけた。
心動船は加速する。船体は軋みを上げ、牙との距離を開く。
「センチョ! はいはーい!」
「おまえはおまえで、なんだよ――」
中空のハンモックであぐらをかいていた聖女が手を挙げた。反動で白猫が落ちて、ちいさく鳴いた。
「ぼくが出て、やっつける!」
小さな両手を強く握りながらの宣言だった。
「――ダメだ」
「なんでだ!」
「おまえは、この船で唯一有効な攻撃手段だ。この速度で移動しながらの攻撃は、リスクが高すぎる。まして初めての戦闘だ、生還を第一に――」
「速度低下中」
「状況説明もやっちゃダメってかクソ!」
怒りを忘れた冷静な思考は、出力低下を引き起こしていた。
「おお、ふわっふわだはぁっ!」
「魔女も猫撫でて喜んでんじゃねえよ! 浮かんじまうだろうが! 船隠す場所が見つかんねえだろうが!」
「センの提案を却下。魔女の提案は無効。聖女の提案に賛成票だ。このままでは帰還予定時刻を越える。あなた方の命を使い捨てるべきだ」
「ははは――ふっざけんなクソ船! 俺らの命より、時間厳守が大事ってか!」
「その通り。どうだろうか?」
聖女に向けての言葉だった。
「うん、いつでも!」
元気のいい頷きに白の長髪が波打った。
「待て! それは――」
狭い船体、その中空に浮かぶハンモックが『引っ込んだ』。
存在特性により壁は意味をなさない。引き込む力はそのまま上に乗るもの――聖女を投擲する速度となった。
そして、壁一枚を隔てた向こうは、意海だ。
「――!」
船長は叫び声を押し殺し、猫をひっつかんだ。抗議の鳴き声も無視して無理矢理見上げさせる。
かなりの不細工顔となりながらも猫の瞳はそれを捉えた。
悪意の充満する黒色のただ中に、聖女はいた。戦闘的な白光を鮮やかに纏い、会心の笑みを浮かべていた。
だがそれは、すぐに「あれ?」という疑問に変わる。
「勢いつけすぎてんじゃねえか! あいつの周囲に敵いねえじゃねえか! 見当違いの方向に飛ばしてんじゃねえぞクソ船がァ!!」
「おや」
「魔女! 急上昇だ! 笑え!」
叫びながら制御する。瞬時の百八十度回頭ができないことが悔しくて仕方ない。
「あはは――」
「沈むな! 機嫌良く馬鹿みたいに笑え!」
魔女の笑いは泣き声に近かった。機嫌の良くなる要素がどこにもない。
「く――」
最小半径で引き返そうとしているが、それでも『上』へ飛ばした聖女との交差は難しい。上下の距離は離れる一方だ。
猫を通して見る聖女の顔は、徐々に苦しげなものとなっていた。悪意がその身を侵すことはないが、空気がないことに変わりはない。
そして、この事態を打破するためには、笑わなければならない。
「ここでシリアスになったらアウトってのはどんな冗談だコラ!」
言いながら手袋を外し、親指の一部を噛みちぎる。吹き出る血に、現金に反応するものがいた。
「おお――!」
心動船の声に舌打ちしながらも狭い船内の天井に図形を描いた。直接コマンド。血は木肌に触れたとたん沸騰したように吸い込まれる。点対象となる床にも同じ図形を。
心動船こと血吸いの樹の種は、くすぐられたような笑いを上げる。その『食料』が嬉しくてしかたない。
――実はこれ狙ってやったんじゃねえだろうな……
そんな疑惑が浮かんだが、どちらにせよ船内に新鮮な風が送り込まれるのを確認。命令は、たしかに届いた。心動船の意志とは関係ない、特性反応を利用した粗密変化のコマンドだ。
「魔女!」
「な、なに……」
ひきつる半端な笑いを浮かべる魔女に向け、船長は吠えた。
「おごってやる!」
「え」
「クッキーおごってやる! チョコだろうがバターだろうミルクだろうがクッキーの食べ放題だ! なんならケーキもつけてやる! 『樹』に戻ったら腹破裂するまで食いやがれ!」
魔女が弾かれたように立ち上がった。
「うひょぉおおおおおおおぉあぁあ! え、まじで? え、うっそ、やっべ、やっば、うあひゃっはっ! やっぱナシ無しな! 食い放題って、うっわどうする? どうするよ! おいおいおいやっべテンション上がってきた! 聞いてっか聖ちゃん! そんなとこでぷかぷか浮いてる場合じゃねえって!」
狭い船内で、叫ぶ。フードを目深に被った魔女の姿が燃え立つように浮かび上がり、その存在を濃くさせる。猫が船長の手から逃げ出す。船は前進以上の速度で浮かび上がる。
「――っ!」
テンション上げすぎだという叫びを飲み込んだ。
判断と意志にのみ注力する。
恐ろしい速さの急上昇、一つ間違えば操作を失い、錐揉みを始める。
叫び逃げる猫の顔をつかんで固定。手には爪痕がリアルタイムで増え続けた。
白を貴重とした和服、意海でより目立つよう設計された衣服に身を包んだ、それでも小さな聖女の姿を捉えさせる。
猫爪によって飛び散る血に、船は満足の声を隠そうともしない。
ほとんど激突のような速度差で、船体は聖女を捉えて飲み込んだ。
図形を描いた箇所が今度は透過することなく、柔らかいクッションのように速度を緩和し、復活したハンモックが更にその銃弾速度を殺そうとするが――吸収しきれない。船長が描いた反対側の図形をも突破し再び外へ。ハンモックが弾性限界に挑戦するかのように引き延ばされる。
猫の眼球は素早く動き、その高速移動を正確に捉えた。鋭く呼吸をした様子もまた。
聖女は、ただの一秒も諦めなかった。
強引に捕獲されたハンモックの内部から、強く彼方を睨む。赤に染まる牙の群れが急上昇しながら迫る様子があった。
まだ遠い、だが、数秒もすれば追いつかれる速度差だ。
ちいさな拳を握り、裂帛の息を吐く――
少ない酸素を消費した息吹が『力』を加速させ内部で循環。身を包む白光が膨張し、残留怨念が聖女の周囲から蒸発した。
引き延ばされきったハンモックの中で全身を連動。腕を力の限りに振り抜く。拳先から一閃が放出され、暗い意界に直線を描いた。
その直線は牙の群を枯れ葉のように吹き飛ばした。
一瞬だけの排出は、反作用により戻される。聖女は今度こそ船内へと戻る。
「あっはっは、死ぬかと思ったー!」
全身から汗を流しながら笑っていた。
「よっしゃ! クッキーだぞケーキだぞ、食い放題だ!」
「え、ほんとか!」
魔女と聖女は共に手を挙げ、その場で踊り出す。さすがに接触するようなまねはしない。
「あれは方便だ、実際にはおごらん」
船長がばっさり言い切った。
「え――」
「とりあえずは、危機を脱した。受け持ち区域の探査は終了。『界』を形成してない程度の敵だ、報告は問題なしでいいだろ。猫の見える範囲で、他の敵もなしだ」
船長は腕を組む、船は加速する。
「それよりもな……」
じろりと聖女を睨む。
「あんな無謀は、もう二度とするな。このクソ船の言うこと真に受けて命粗末にしてんじゃねえぞ」
「え、やだ」
聖女はきょとんと言った。
「ああ゛?」
船は更に加速した。
「なんかピンチだったし、みんなが助かった、ぼくは間違ったことはしていない」
迷いのない、まっすぐな視線だった。
船長の額に青筋が盛り上がり、反射的に拳を振り上げ、その頑迷な視線を真っ正面からにらみ返し、振り下ろした。
「ざッけんな!」
「そこのセン、わたしを殴るのは、やめてくれないか」
聖女背後の木製の壁はいい音を鳴らした。
「俺の目の前で死んでみろ! なにがあろうと許さねえ! 全員を生かして返すのが俺の仕事だ!」
「センチョも知ってるでしょ、ぼくが『ここ』で死んでも、無駄じゃないんだ。だから――」
船長はいまだに血のにじむ親指を壁に固定し、力一杯殴りつけた。飛び散る血しぶきは見る間に吸収される。聖女は息を飲み込む。魔女は「おぉ」と戸惑った声を出す。猫は寝ていた。船は更にうれしそうに体を揺らす。
そうして自らを十分に痛めつけた後、聖女を軽くはたいた。蚊も殺せぬ速度だったが、触れた箇所から少女の肌が灼ける。混者への拒否反応だった。
「悲しいことを言うんじゃねえ! 悲しいだろうが!」
道理の通っていない叫びは、心動船を急停止させた。後ろ向きの感情は、船を後退させる。
聖女は何度もまばたきしていた、落ちた財布を届けたら警官に叩かれたような顔だ。だが、一転して口をへの字にし。
「それでもぼくは、みんなを、助ける」
「俺は、そういうのが嫌なんだ!」
船は前後への移動を同時に行い、結果として停止した。
「ふむ? 不合理だとしか思えない」
「――一番の元凶が他人事のふりしてんじゃねえぞクソ船が……!」
「聖女の主張はともかく、行動は褒め称えられるべきものだ。わたしたちは近海偵察と、防衛のミッションを成功させた。怒る必要がどこにあると?」
――ああ、そうだろうな、おまえにとっては俺らの命なんざ、使い捨てにしても惜しくねえシロモノなんだろうな、てめえの内部にいること自体が死ぬほど不愉快だクソ。
そうした叫びを飲み込み、手を広げ、頬を歪めた。
「成功? は、成功? 血吸い種ていどの頭じゃそう考えてんのか、すげえな、おい」
「わたしが運び、聖女が倒した。その程度の道理もわからないのか、人間は」
「証拠がどこにあるんだ?」
「む――」
猫が遠くでふわふわ浮かぶそれらを見ていた。捉えようと前足を動かす。意海に浮かぶ残骸はしかし、牙の群の一部だ。
離れた距離からの一撃は、敵集団を倒すのに十分な威力を持たず、群れを散じただけで終わった。
「倒した証拠は、どこにもねえ。どっかのクソ船が勝手に見当はずれの攻撃指示やった結末だ」
吸収した残骸量によってスコアは決まる。
退散させただけでは撃退にはならない、栄養にもならない。
そして意海内では、ビデオカメラを初めとした電子機器は機能しない。
「な――」
心動船がいまさらのようにそちらへ『根』を伸ばし、少しでも栄養を得ようとするが、どのみち雑魚を数匹倒した程度の量しか残っていない。
「――嘘つかれた、嘘つかれた、嘘つかれた。もう誰も信じられない、信じるべきじゃない。人は一人で生きて、一人で死んで行く。誰も彼もが他人事、奪うことにためらわず、言動の結末を考えない。それがどれほど人を傷つけるのか無頓着なままに終わる。そうした人たちが世を統べる――クッキーたべたいよぉ」
沈降し、その残骸からも距離が離れる。
「魔女はいますぐ高揚し、沈下を停止することを提案する」
「はっは、ただの言葉で心が動くかボケ」
初戦は、実質的には敗北だった。
※実はそのうち名乗ります。




