6.国を継ぐ者
「お祖父様、ルシアーナです」
静まり返った回廊に、私の声が小さく響いた。数えきれない決断の末に辿り着いたこの扉の向こうに、私の始まりがある。
「入りなさい」
温かな声。お祖父様の声だった。その響きが耳に届いた瞬間、胸の奥で張りつめていたものがふっとほどける。
取っ手を握りしめ、ゆっくりと扉を押し開ける。
そこは、過ぎ去った時の香りに満ちていた。
古書の紙と蝋燭の残り香が混じり合い、奥の大窓からは柔らかな午後の光が斜めに差し込んでいる。
その光の中に、お祖父様は静かに座っていた。
「よく帰ってきたな、ルシアーナ。……今まで、本当によくやった」
祖父の口元に浮かんだ笑みは、誇りと安堵を宿していた。
私は深く一礼し、震える声で応える。
「はい。……ただいま戻りました、お祖父様」
私を見るお祖父様は、背筋をまっすぐに伸ばし、白銀の髪を整えた姿は威厳に満ちている。目元は驚くほど穏やかだ。
「帰ってきたということは、ルシアーナ。……決めたのだな」
かすかな悲しみを帯びた表情へと変わる。胸の奥がきゅっと締めつけられる。
どれほど悩んだかしれない。宿命、誇り、そして未来――そのすべてを背負う決意。
「はい」
短く答えた声が震えたが、お祖父様はそれを咎めず、静かに頷いた。
「ユリウス殿も、よく来てくれた」
祖父の視線が隣に向けられる。ユリウスは片膝を折り、頭を下げた。いつも礼節を忘れぬ彼は、どこか居心地悪そうに微笑む。
「大公殿下――どうか呼び捨てで」
その言葉に、お祖父様は朗らかに笑った。
「はは。そうか。……ルシアーナも、ユリウスも、楽にして座りなさい」
木製の椅子に腰を下ろすと、背に冷たい感触が伝わる。机の上には、古びた地図、印章、そして幾通もの封書が整然と並んでいた。
「では、アンヌから報告通り――独立し、国王となることを決めたのだな」
アンヌは私の侍女であり、護衛であり、影の伝令。
私の決断も行動も、彼女を通して密かにお祖父様に届いていたのだ。
「お祖父様。これまでの経緯と、そして“私の国”を創る覚悟を、聞いていただけますか?」
*****
「……なるほど」
重厚な椅子に深く腰を下ろしたお祖父様は、額に手を当て、しばし沈黙した。
その仕草の中に、深い絶望が滲む。
愛する兄の子――その行く末に、かすかな希望を抱いていたのだろう。
「兄上が亡くなった後、恐れていた通りの事態が起きたのだな」
祖父の声には、静かな怒りと諦念が混じっていた。
臣下に操られ、己の職務を放棄した国王。
政務に関わる力のない王妃。
婚約者の義務を果たさず、女神の使徒に心を奪われた王太子。
宮廷に漂うのは、空虚と不信ばかり。
異界から来たという女神の使徒は宰相の養女となり、水面下で陰謀を巡らせている。
宰相もまた権力の歯車を狂わせ、王家を内側から蝕んでいた。
国庫は浪費の渦に呑まれ、官僚は責を逃れ、外交は軽率の連続。王族の醜聞が次々と露見し、軍は乱れ、民は疲弊していく。
税は迷走し、法は形骸化し、街には不安と憤怒が渦巻いた。
――この国の腐敗は、もはや救いのないところまで来ている。市場では物価が乱高下し、商人たちが互いに責任を押し付け合っていた。
民衆の怒りは小さな火花となり、いつ暴発してもおかしくない。
幾度も手を尽くしたが、それは焼け石に水にすぎなかった。
「ドレイスブルグ国は、誰一人として守ろうとはしない。王家に、未来などありはしない……」
お祖父様はゆっくりと立ち上がり、窓の外へ視線を落とした。
「お祖父様。私が、民を守ります。すべてを、私が引き継ぎます」
この国の未来を守るために、立ち上がる者が必要だ。そして、その者は――私以外にいない。
ユリウスもまた静かにうなずき、低い声で言った。
「微力ながら、私も力になります」
お祖父様は長く息を吐き、やがて重々しい声で告げた。
「ルシアーナ。お前が導く国に名を与えよう。これまでの混乱を断ち切り、未来を照らす国――その名は、ヴェリディアだ」
ヴェリディア。それは新たな希望であり、私が守るべき未来の象徴。
「明日、これから国の中枢を担う者たちを集め、正式な会議を開く」
お祖父様の声は低く、しかし揺るぎなかった。
「その場で、お前の決意を示すのだ」
私は静かに深くうなずいた。胸の奥で、何かが確かに灯るのを感じながら。




