39.番外編 光の傍らに
「アンヌ、そろそろユリウスが来る時間かしら」
控えていたアンヌが穏やかに微笑む。
「そうですね。今日は婚姻式の打ち合わせでしたね」
「式って、面倒よね。どうせなら全部すっ飛ばして、明日から王と王配でよくないかしら」
口にしてみると、少しだけ肩の力が抜けた。形式も儀礼も、忙しい今、煩わしいだけ。
「駄目です! 私、ドレス姿を楽しみにしているんですから」
「ふふ、そう。じゃあアンヌのために頑張るわ」
「はい、そうしてください」
アンヌが嬉しそうに紅茶を注ぐ音が、静寂の中に心地よく響いた。
「アンヌも座って、一緒に休憩しましょう」
「ありがとうございます」
アンヌが遠慮がちに腰を下ろした。
「ルシアーナ様。サラ様のこと、ご存じですか?」
紅茶を口に運ぼうとしていた手が、わずかに止まる。
サラ。その名を聞くだけで、小さな痛みが走る。
女神の使徒を偽った罪で処刑された。異世界から来た女神の使徒の名を騙り、国を惑わせた大罪人として、人知れずその命を終えた。
「もう、戻らない人のことは、話したくないわね」
「あ! そうでした。サラ様じゃなく、エリーのことです!」
瞬きをしてから、ふっと微笑む。
「ああ、それなら知っているわ。エミリアが張り切っていたもの」
「そう、それですよ!!」
アンヌの声が弾む。
サラは処刑された、ということになっている。表向きは。しかし、まだ生きている。そして、真実を知る者は少ない。
あの日のことを、私は忘れない。
「どうか、せめて……せめて、生かしてあげてください」
涙に濡れた顔で膝を突き、アンヌは声を震わせていた。その姿は、祈りというより、叫びに近かった。
私は、許すつもりなどなかった。
私欲のために使徒を偽る。
それは女神への冒涜であり、この世界の秩序を揺るがす罪だ。情に流されて見逃せるものではない。本来なら、万死に値する。
それでもアンヌが、私に「何かを願った」のは、あれが初めてだった。
乞うことはなかった子。常に一歩引いて、私を支えてきた存在。
そんな彼女が、膝を折り、声を詰まらせ、なおも必死に言葉を紡いでいる。
……アンヌにしか、分からない何かがある。
理屈では測れないもの。
言葉にすれば壊れてしまうほど、個人的で、切実な理由。それが、彼女をここまで追い詰めたのだろう。
正しさだけを貫くなら、頷くべきではない。女神の使徒として、私がすべき判断は、すでに決まっていた。
それでも私は、頷いた。
サラのためではない。罪を赦したわけでもない。アンヌのため。ただ、アンヌが初めて差し出した願いを、ここで踏みにじることが、どうしてもできなかった。
それは、女神の意志ではなかったかもしれない。
女神よ。どうか、私のこの選択が、誰かを救うものでありますように。正しさを歪めた罰が、いずれ私に返るとしても――。
そしてサラは人知れず処刑されたこととし、本来の名“エリー”として、生かされたのだ。人知れず生きることを条件として。宰相を含め、サラをよく知るものたちはそれぞれ遠くの神殿へとばらばらに送った。
カップを指でなぞりながら、小さく目を伏せた。
「どうせ表に出て生きていけないなら、私が国の影として育てるわって、エミリア様がおっしゃって……。どう思います?」
エリーは、孤児として生きてきたにも関わらす大胆にも女神の使徒、異世界から来たと周りを偽った。そして、1年、努力を惜しまず必要な物を身に付けていった。
言動は褒められたものではないが、自分も周りも偽り、一人で成し遂げようとしたことをエミリアがおもしろがってしまった。影としての逸材、そう言って笑っていた。
今も、エミリアから礼儀も剣も学び、ものすごい勢いで身に付けていると聞いている。
もしかしたら、エリーは、異世界から来た使徒の子孫かもしれない。確かめる術はないけれど。
「エミリア、根性のある子は好きだものね。境遇もあなたに似ているし、思うところがあるのではないかしら」
「はぁ、エミリア様、エリーに、つきっきりですよ」
アンヌが唇を尖らせるのを見て、くすりと笑った。
「ふふ、嫉妬しているのかしら? でも、あなたがエミリアに引き合わせたのでしょう?」
「……まあ、そうなるといいなと思って、そうしたのですけど」
その反応が可愛らしくて、思わず笑みが漏れる。
「それより、お母様と呼ばないと、エミリアに怒られるわよ」
「うっ! なれないんですよ、照れてしまって」
そのうちエミリアはエリーも娘にと言いそうね。アンヌはむくれながらも嬉しそうにしている姿が目に浮かぶわ。
さて、どうしましょう。
ノックの音が、静かな執務室に響いた。
「どうぞ」
軽く答えると、扉の向こうからユリウスが姿を現した。端正な顔にわずかな疲れを滲ませている。
「お邪魔しましたか?」
「いいえ、あなたを待っていたところよ。それにアンヌは約束があるから、そろそろ席を外すわ」
「あっ! そうでした」
アンヌは、急いでユリウスに紅茶を出すと、にこりと笑い、軽い足取りで部屋を出ていった。
「ユリウスの仕事はもう終わったの?」
「はい。一段落しました。マルセルも休憩に入っています」
「マルセル、宰相になって、文句を言っていなかった?」
ユリウスは肩をすくめ、苦笑する。
「はは、私には言いませんが、ラザフォード様には、会うたびに“今からでも代わってくれ”とお願いしているそうです」
「ふふ、そうなの」
紅茶をひと口含む。香りが鼻に抜けて、心が少しほぐれる。そんな空気の中で、ユリウスがぽつりと尋ねた。
「ルシアーナ様は……マルセルではなくてよかったのですか? もちろん、代わる気はないのですが」
「何のこと?」
「王配のことです。本人のいないところで言うのも失礼ですが、マルセルは、ルシアーナ様を慕っていたのではないかと」
「マルセルが? まさか!」
少し笑って、思い出す。
頭の中に、子供の頃の光景が浮かぶ。私のわがままに振り回され、呆れたようにため息をつく少年――マルセル。
私を慕う? 絶対そんなわけないわ。
「どうしてそう思ったの?」
「以前、彼が言っていました。小さい頃から想っている方がいると。泣いているとき甘いお菓子をあげると、嬉しそうに笑ってくれたと。大きな使命を背負っている方だと」
ああ、そういうこと。
「それは私ではないわ」
「ルシアーナ様ではない? でも……」
「私が泣いていたら抱き上げてくれる人はお祖父様だけではなかったし、甘いお菓子をくれる人もたくさんいたわ。マルセルが入り込む余地なんてなかったもの。それに、“大きな使命”を背負っているのは私だけじゃないわ」
そう言って、立ち上がり、窓辺に近づき外を見やった。陽が傾き、中庭が金色に染まっているかのようだった。
手招きすると、ユリウスが不思議そうな顔で近寄ってくる。
窓の下のベンチには、アンヌとマルセルが並んで座り、笑いながらお菓子を分け合っていた。
「……あっ! アンヌでしたか」
「そうよ。マルセルは小さい頃アンヌに一目惚れして、父親を説得してここへ行儀見習いとして来たの。本人は、ばれていないと思っているけど、皆、知っている話よ」
「なるほど、勘違いをしていました」
照れたように笑うユリウスを見て、思わず笑ってしまう。
「つまり、ユリウスは、マルセルに少し気を遣っていたのね?」
「少しではありません。横から入り込んだのかと、夜も眠れないほどで」
「まあ、ふふ。早く聞いてくれればよかったのに」
「まったくです」
二人の笑い声が重なる。気づけば、外の風がやわらかくカーテンを揺らしていた。
ユリウスが、ふと真面目な表情になる。
「マルセルから話を聞いたとき、お似合いの二人だと思いました。だから、あなたが私を王配にと望んだとき、能力を買われたにしても、政治的な理由にしても、嬉しかったのです。マルセルへの罪悪感を一生背負う覚悟でいました」
その言葉にゆっくりと微笑んだ。
「あら、伝わっていなかったのね。私はあなたを夫に選んだのよ。あのとき、国に一緒に来ないかと誘ったとき、もし断られたらどうやって無理やり連れてこようかとアンヌと策を練ったくらいには、本気であなたを手に入れたいと思っていたわ」
ユリウスは息を詰め、それから照れくさそうに笑う。
「ルシアーナ様に好かれていると、うぬぼれても?」
「ええ、もちろんよ。私は、あなたに好かれていると、とっくにうぬぼれているもの」
ふたりの笑い声が、やわらかな陽の中に溶けていった。




