32.沈黙する王国
やがて、王は大きく息を吐いた。
「どうやら、様々な誤解があり……我々が対立したのは、あの二人のせいだったようだ」
そんなはず、あるわけないでしょう。
胸の奥でひっそりと溜息が落ちる。
都合よく塗り替えられていく“正義”。その笑みの白々しさに、吐き気を伴った冷たい感情がざわりと波立った。
「改めて、交渉に入ろう」
――まあ、いいわ。
私は唇の端をかすかに引き上げる。話が進むなら、それすら利用するまで。
王は威厳を誇示するかのように、わざと声を張り上げた。
「まずはこちらから条件を提示する。兵と民を国に戻してもらおう。本来なら賠償金を請求したいところだが王としてあの二人の言葉に乗り、冷静さを欠いたことを鑑みて、帰してもらえるのなら賠償金はいらない。それで終わりとしよう」
怒りのままに兵を動かしておいて、よく言えたものね。
「民の署名のことは、もうお忘れかしら?」
「だから、それは貴様が――」
「“貴様”? 陛下、口を慎んでください」
ユリウスの低い声が鋭く割り込み、沸騰しかけた王の怒声をぴしゃりと封じた。私は内心で小さく笑いながら、外側だけは礼節ある微笑を保つ。
「っ……! 次に、すでにこの国の土地の三分の二を取り込んでいるようだが、独立を許すのは自領のみだ。急ぎ、それ以外を我が国に返してもらう。また今後、他国と結び領地を広げようとする際には、まず私の許可を得ること」
一語一語、吐き出されるたびに、王の頬が苛立ちの色に染まってゆく。
私は扇をひらりと揺らし、彼へ真っ直ぐ視線を向けた。
「私の力は、私利私欲のために使うものではありません。民や兵がこの国へ戻らないことを望んだのも、他領が我が国に加わることを願ったのも、私の“声の力”ではございません。女神の意に反する言葉は叶いませんし、それはアンヌも同じです。民の移動は、アンヌが魔方陣を用いましたが、魔方陣に入ると決めたのは、民自身の意思です」
その言葉が落ちた瞬間、会議の場がぴたりと凍りついた。
静寂の中で、真実だけが波紋のように広がっていく。
「常識では、一人につき一つの魔方陣が限界だぞ」
「それなのに、あの人数すべてを、一度に…?」
「女神の使徒……?」
「まさか、そんな――!」
驚愕。恐れ。不信。
そのすべてが重なり合い、場を満たしていく。
「次に、他領の返還ですが、これは承服いたしかねます。最初は自領のみの独立を考えておりましたが、考えを改めました。残りの三分の一も私の領土とし、この国すべてを私のものと致します」
「な、何を言っている! それでは王座を奪うというのと変わらないではないか!」
王の怒声が空気を震わせた。
「横暴だ!」
「最初からそれが狙いだったのか!」
重臣たちの罵声が雪崩のように浴びせられる。
私は扇の裏で、にっこりと笑みを深めたまま静かに告げた。
「ある意味、これはあなた方のためでございますよ」
意味を理解できず、眉間に皺を寄せる面々。
「民のいない王都。物流の停止。枯渇していく物資。それで、どう統治を続けるおつもりでしたの?」
重臣の一人が、喉を震わせながら問う。
「そ、そうなった場合、我々は、どうなる? 一領主になるということか?」
私は王へゆっくりと視線を滑らせた。憤怒と焦燥に染まったその顔は、青ざめ、醜く歪んでいく。
「何を馬鹿なことを聞いている! 王は私だぞ!」
叫びは誰の心にも届かない。
視線は、ただ私へ。
「民が消えた日に、私は『国を憂いし、女神の子らよ』と語りかけました。皆様には聞こえましたか? いえ、聞こえるはずがない。国を憂えていない者に、女神の声が届くわけがありませんもの」
民なき者は、王とは呼ばれない。
民を思わぬ者は、統治者ではない。
ただ、それだけのこと。
「それでは、我々をどうするつもりだ」
震えを抑えきれない声が、王の側から上ずって漏れた。
「――あら。ずいぶん前に申し上げましたでしょう?」
ぱちん、と音を立てて扇を閉じる。
その一瞬、空気が張り詰める。
「“その名誉とやらは、あなた方にお譲りいたします”あの日の言葉、もう、お忘れですか?」
あなた方が、私の行く末を勝手に決めつけていた、あの日のこと。
「一族皆で神殿へ行くとよろしいですわ。女神アウレリア様に、一生お仕えくださいませ。なんと名誉なお役目でしょう。志あれば、死して女神のもとへ赴くことも叶いましょう」
甘く、逃れられない拘束。
静寂が、音もなく降り積もる。
――これは脅しではない。
私が望むのは、ただ一つ。
民の幸福のみ。女神の子である民を蔑ろにする者が生きるには、心を改め、女神へ仕える他に道はない。
ふふ。“名誉なこと”だと仰っていたのは、他でもないあなた方自身ですもの。
文句など、言わせないわ。
誰かが唇を噛む微かな音が、鮮明に聞こえるようだった。




