27.覚悟と、過去と sideユリウス
sideユリウス
「よし、できました。ユリウス様、ありがとうございます」
積み上げられた書類を、マルセルが丁寧な手つきで揃える。
ぴたりと紙が揃うその音は、静まり返った部屋の空気をわずかに震わせた。
「ようやく、終わりが見えてきましたね」
私が言うと、マルセルはほっと息を吐いた。
「でも、ここからですよ。ルシアーナ様が“王”となられてからが、本番です」
私は机の端に片手をつき、軽く笑った。
その通りだ。彼女が玉座に腰を下ろす瞬間こそ、国の始まりなのだから。
「ユリウス様も宰相ですからね。忙しくなりますよ」
冗談めいた口調に、私は思わず肩をすくめた。
「いや、宰相はラザフォード様だろう。経験が違う」
「はは、それが違うんですよ。この前一緒に飲んだとき、本人が言ってました。“老体に無理をさせるな”って。あれは本気で怒ってましたよ」
マルセルが苦笑し、私もつられて笑みを漏らす。その光景が目に浮かぶようで、肩の力がふっと抜けた。
「なら、マルセルが務めればいい。私なんて、新参者には荷が重い」
「まさか。私には、覚悟が足りません」
「覚悟?」
「ええ。ルシアーナ様が“国を創る”なんて……夢にも思わなかった。だから、いまでも少し怖いんです」
その声には、敬意も畏れも入り混じっていた。
だがそれは、私だって同じだ。
彼女の手を取ったのは、宰相になるためではない。ただ――。
「きっとルシアーナ様は、あなたを宰相にするつもりで連れてきたのですよ。諦めて腹を括ってください、ユリウス様」
マルセルが軽口めいた笑みを向ける。
宰相、か……。
「ところで、ユリウス様には、婚約者の方はいらっしゃらなかったのですか?」
突然の問い。ペン先がぴたりと止まる。わずかな沈黙が落ち、私は曖昧に微笑んだ。
「いましたよ」
「その方は、残してこられたのですか?」
慎重に問いかけるマルセルの声。
「いえ。正確には、学院を卒業する頃に、婚約を解消しました」
過去をめくるように静かに語る。
もう色褪せたはずの記憶なのに、胸の奥がわずかに痛む。
「ええと、理由を、お聞きしても?」
ためらいと好奇心が入り混じった問いだった。
「もちろん。もう昔の話ですから」
小さく息を整え、話し出す。
「私は、幼い頃から勉強ばかりしていましたからね。社交も舞踏も興味がなかった。退屈な人間だったと思います。今も似たようなものですが」
自嘲気味に笑う。
マルセルは何か言いかけて、結局言葉を飲み込む。
「彼女は隣国からの留学生と親しくなりまして……。いつの間にか、恋をしていたようです。節度は保っていましたよ。決して軽率ではなかった。でも、目を見れば分かるんです。私ではない誰かを想っていることは」
その目を思い出し、一拍、言葉が途切れる。
「それでも彼女は、“婚約者としての責務”を果たそうとしていた。その誠実さが、余計に辛かった。誰かを想いながら義務のために結婚するなんて、耐えられなかったんです」
そっと息を落とし、視線を下げる。
「だから、私の方から解消を申し出ました」
「……ご自分から」
「ええ。両親も理解してくれました。次男でしたからね。家は兄が継ぐ。だから私は、自由に生きられた」
そう、自由に。
「今は幸せに暮らしていると聞きます。隣国で結婚もして、良い夫人になったそうですよ」
マルセルはすぐには返事をせず、カップの縁に指を添えた。揺れた茶の面が、ふたりの沈黙を静かに映す。
「……ユリウス様は、お優しいんですね」
ぽつりと落ちた言葉。尊敬にも哀惜にも似た、柔らかな響きがあった。
私は答えず、ただ微笑みで返す。
「ユリウス様、私は三男でしたからね。仕事も、兄たちに比べれば自由に選べたんです。この領地が気に入って、小さい頃から行儀見習いのような形で移り住みまして。もう、ずいぶん経ちます」
穏やかに語るマルセルに、私は静かにうなずいた。
その声は優しい。
けれど、不意に翳りが落ちる。
「ですが、このような状況になった今、自由に結婚するのは難しいでしょうね」
わずかに伏せられた瞳。その言葉には、かすかな諦めが滲んでいた。
重要な役目を担う者にとって、婚姻はもはや“個人の自由”ではない。
家と家の均衡、政治的な意味、そして責任という名の鎖。
マルセルは、それを痛いほど理解している。だから、紅茶の表面を見つめながら、一瞬だけ言葉を失ったのだ。
「好意を寄せている方が、いらっしゃるのですか?」
問いかけると、マルセルは小さく息を呑んだ。蝋燭の光がその瞳に宿り、淡く光る。
「ええ。でも、ただ、想っていただけです」
静かすぎるほどの声が、空気に溶けていく。
「その人は、小さい頃は、よく部屋の隅で泣いているような子でした。甘いお菓子をあげると、嬉しそうに笑ってくれてね。それだけで、救われた気がしたものです」
懐かしげな微笑は一瞬だけ、すぐに消えた。
「けれど、やがて知ったんです。彼女が、大きな使命を背負っていることを。それを知ってからは、力になりたいと願うばかりでした。今はもう、私など居なくても、彼女は、自分の足で立っている」
最後の言葉は、驚くほど穏やかだった。
諦めではなく。誇らしさと、祈りのような静かな想いを乗せた声。
「……そうですか」
私はただうなずく。これ以上、踏み込むことはできない。
思い浮かべているその先に誰がいるのか。もう、聞かずとも分かる。
――やはり、そうか。
心の中で、そっと呟いた。マルセルは、少し哀しみを混ぜたような表情で、それでも優しく微笑んだ。
「……はは、余計なことを言いましたね」
そう言って手元の資料を片付けだした。
「さあ、行きましょうか」
「ええ」
二人の足音が、静まり返った執務室に小さく響く。
蝋燭の炎が揺れ、机に積まれた書類の影が床に伸びる。
それは、これから築かれる“新しい国の道筋”を、ほんの少しだけ先取りして示しているかのようだった。




