26.想定通りの返事
マルセルの差し出した封書を受け取った瞬間、嫌な予感がした。理由もなく、しかし確実に。
紋章は判別できぬほど歪んでいる。押した者の怒気が、熱のまま蝋に焼きついているようだった。
なるほど。やはり「こちらへ来い」と。
理由は“民の誘拐”。堪えようのない笑いが漏れた。
「ふふ……誘拐、ですって」
紙の表面のその単語を指先で軽くなぞる。怒りよりも先に、滑稽さがこみ上げる。
『誘拐した民を今すぐ返せ』
『条件を飲め』
『事を大きくしても構わぬ』
『女神の力をそのようなことに使うとは、なんと罰当たりな──』
一つ一つの文言が、自己正義で飾り立てられていた。読めば読むほど、相手の浅慮が紙からにじみ出るようだった。
「……ろくに調べもせずに、こうして決めつけるとは」
ラザフォードが静かに息を吐く。普段は動じぬその横顔に、抑えきれぬ苛立ちが見える。
「じゃあ、あの国へ行くメンバーは、ここにいる皆でいいかしら?」
視線を上げると、そこにいる者たちが同時に頷いた。その揃った動きは、言葉より雄弁だった。覚悟が、彼らの瞳に宿っている。
その決意は、私のなかにも同じように灯る。
「それはさておき、我が国に来た方々の様子は? 混乱は出ていない?」
「仮住まいは、すでに全員に行き渡っております」
ユリウスが即座に答える。その落ち着いた声に、張りつめた空気がわずかに和らいだ。
「そう。できるだけ不便のないようにして。……人は、環境が整えばようやく心を休められるものよ」
私の言葉に、ユリウスは深く頷く。
続いてガレスが、表情をわずかに緩めて報告した。
「すでに仕事を見つけ、働き始めている者もいます」
不安の渦中でも、人は前に進もうとする生き物だ。
だが同時に、私は思う。彼らの心にはまだ、故国への想いが深く根を張っているはずだ、と。
「安心したわ。それでは、書簡に記された約束の日までは、アンヌを休ませておかなくてはいけないわね。この人数をまとめて転移してもらわなくてはならないのだから」
「ええ。休暇を取らせております。……もっとも、本人はもう動きたくて仕方がないようですが」
マルセルが小さく笑みを浮かべる。その一言に、私の口元もつられて柔らかく弧を描いた。
「実はね、アンヌが今朝、エミリアの目を盗んで、私の部屋に来たの」
その言葉に、ユリウスが小さく苦笑し、マルセルが「まさか……」と呟いた。
「忍び込むみたいにそっと入ってきて、書類を整理して、花瓶の水まで替えて……。最後には、私の茶器を全部洗ってくれていたのよ」
思い出すたび、あの小さな手がてきぱきと動いていた様子が鮮やかに蘇る。微笑ましい……けれど、休んでほしい。
あの子は、“仕えること”で、自分の居場所を確かめようとする子だ。
「はは、アンヌは何と言っていたのですか?」
ガレスが呆れ半分、優しさ半分の笑みを浮かべる。
「“落ち着かないんです”って。困った顔で、そう言っていたわ」
思い返してみれば、あまりにもアンヌらしくて、自然と口元が緩む。
「とはいえ、だいぶ無理をしましたからね。次の転移の時も倒れなければよいのですが」
エミリアの静かな声が、現実へと引き戻す。
「ええ……。あの子が無理をしなくても済むように、私たちも動かなくてはならないわね」
答えながら、机上の書類へ視線を落とす。すると、ユリウスが新たな報告書を差し出した。
「ルシアーナ様。転移してきた民の署名、すべて揃いました」
差し出された紙には、様々な筆跡で“自らの意思でこの地に来た”と記されている。その一つひとつに、重い決意が滲んでいた。
「……これを見せても、彼らは言うでしょう。“署名を強制させた”と」
エミリアの言葉に、小さく息を吐いた。
「そうでしょうね。あの者たちは、事実よりも、都合のいい“物語”を好むもの」
書類をそっと閉じると、視線は自然と遠くへ向いた。そして昨日の出来事が、ゆっくりと脳裏に浮かび上がる。
***
執務室を訪れたのは、二人の貴族だった。
どちらも長くあの国を支えてきた者でありながら、失望し、この地へ移った者たちだ。
「ご多忙の折、お時間をいただき恐れ入ります」
深く頭を下げる伯爵。その声音も所作も丁寧で、誠実さが滲む。隣の子爵も静かに頷き、同じ思いを示した。
「この地を見て、驚きました。皆が働き、笑っている。失ったものを嘆くより、築こうとする者たちの顔を、久しく見ていなかった気がします」
その一言に、私は思わず微笑んでいた。
「我々も力を尽くしたいのです。ここで“正しく”仕えたい。栄誉を求めるつもりはありません。ただ、人として恥じぬ国を築きたい」
伯爵の静かな声が、心に染みていく。
その瞬間、確信した。
この国は“捨てられた者たちの避難所”ではなく、“再び歩き出すための地”になるのだと。
「その志、歓迎します。ただし、ここでは“爵位”よりも“誠実さ”が重んじられます。それを受け入れられるのなら、共に進みましょう」
「もちろんです、ルシアーナ様」
彼らは迷いなく頭を下げた。
***
「昨日の伯爵たち。頼もしかったわね」
書類を閉じると、ユリウスが穏やかに頷く。
「ええ。再建についても明確な方針を持っていました。いずれは、あの地を任せてもよいでしょう」
「そこは、ユリウスとマルセルに任せるわ」
「承知しました」
窓の外には、朝の光が静かに差し込んでいた。それは、ゆっくりと新しい幕が上がる合図のようだった。




