25.民が消えた side 国王
side 国王
書簡を読み終えた瞬間、私はそれを机に叩きつけた。
乾いた音が、執務室に不吉な余韻を残す。
こめかみが脈打つ。苛立ちを抑えきれず、歯の奥で舌打ちする。
──あの愚か者め。
心の中で叫んだ罵りが、胸の内で火花を散らす。
腕輪をはめさせ、ただ一人の娘の視線を縛るという、たったそれだけのことができなかったのだ。
王太子が捕虜など……。
人質は、より強い者こそが行うべきだ。なのに、奪われる側に回るなど、王家の恥もいいところだ。
交渉の札は、音もなく崩れ落ちた。
――だが、まだ終わりではない。
「陛下。文面には、何と?」
宰相の声。落ち着いているようで、その実、怯えを隠し切れていない。
私はそれを内心で嘲笑した。まだ分かっていないのだ。この程度で王は動じぬ、と。
「王太子が捕らえられた。ルシアーナを害そうとした罪だそうだ。私に交渉の場へ出てこいと書いてある」
鼻で笑う。
「拒めば、独立を強行すると」
「……っ」
宰相が息を呑む。
「どうすればよい、宰相」
問いかけながら、答えなど決まっている。王は選択を誤らぬ。誤ってきたことなど、ただの一度もない。
「王太子は、必ず取り戻さねばなりません」
正論だ。だからこそ、退屈だ。
王太子は“唯一”だが、“代えがきかぬ”わけではない。
王家とはそういうものだ。
「王妃陛下は泣き伏しております」
その言葉に、ほんの一瞬だけ胸が揺れた。だが、すぐに切り捨てる。
「涙で国は守れぬ」
私は王だ。
感情より、体面と秩序を優先する存在だ。
「……サラも、殿下を案じております」
その名が出た瞬間、思考が切り替わる。
サラ。女神の使徒。信仰の象徴。
そして、まだこちらの手の内にある切り札。
「交渉の場には、サラを同行させる」
「よろしいのですか?」
「ああ」
私は断言した。
「信仰とは、弱者にとっては希望であり、強者にとっては道具だ」
宰相は深く頭を下げる。それを見下ろしながら、私は勝利の形を思い描いていた。
王太子を取り戻し、
独立の芽を摘み、
女王気取りの娘に、現実を教えてやる。
そのとき。
扉が、叩き壊す勢いで揺れた。
侍従が雪崩れ込むように入ってくる。顔面蒼白。呼吸は乱れ、言葉が喉に詰まっている。
その様子を見た瞬間、胸の奥で“嫌な予感”が芽吹いた。
「大変です……」
「簡潔に言え」
苛立ちを隠さず言い放つ。
「た、民が……消えました」
――は?
一瞬、意味が理解できなかった。
「何を言っている。逃亡か?」
「い、いえ……王都の大半が……最初から、いなかったかのように……」
広場が空洞。
通りに人影なし。
光に吸い込まれる民。
次々放たれる言葉に、めまいがする。
――馬鹿な。
「城門は封じているはずだ!」
声を荒げる私を、宰相が静かに制した。
「……魔方陣でしょう」
その一言が、胸の奥を冷たく刺す。
「ヴェリディアの仕業に間違いありません。あの規模は……すでに、我々の想定を超えています」
想定。その言葉が、ひどく不愉快だった。
「つまり、民を人質に取ったと?」
「……はい」
私は、ゆっくりと背もたれに身を預けた。
焦りはない。
いや、焦ってはならない。
「ならば尚更、こちらの城で交渉だ。向こうの地に赴くなど、王のすることではない」
自分に言い聞かせるように、断言する。
宰相は一瞬、何か言いかけ、口を閉じた。
それでいい。王の判断に、異を唱える必要はない。
私は書簡を握り潰す。紙の感触は、思いのほか脆かった。
――すべて、まだ私の掌の上だ。
「少し席を外す」
私は、王妃の私室へ向かった。
この足取りに、迷いはない。
王太子のことなどではない――王妃を安心させるためだ。泣き伏していると聞いたらいても立ってもいられない。
「涙で国は守れぬ」
そうは言ったが、泣いている王妃をそのままにする気などない。
あれは、私の最愛だ。王妃こそが、私の選んだ女であり、王座に並ぶ存在。
王太子は、その副産物に過ぎぬ。
扉を開けると、香の匂いと、押し殺した嗚咽が混じって漂ってきた。王妃は長椅子に座り、蒼白な顔で侍女に支えられている。
「下がれ」
侍女たちに命じると、彼女たちは一礼して退出する。私は扉を閉め、静かに王妃へ近づいた。
「……陛下」
震える声。私を見る目は、縋るようで、怯えている。
守らねばならぬ。
それだけは、はっきりしている。
「聞いたのだろう」
私は低く告げた。
「王太子は、ヴェリディア国に捕らえられた」
王妃の喉が、ひくりと鳴った。
「やはり本当なのですね……」
問い返す声は弱々しい。
「……私たちは……?」
王妃は、唇を震わせながら続ける。
「陛下、もし、もしも、あの女が逆恨みして……この城に、あなたや、私に、何か……」
その瞬間、私は確信した。彼女が恐れているのは、息子の生死ではない。王妃は、正しい。
母としては欠けていよう。私の最愛として、この反応こそ、当然だ。
私は王妃の前に膝をつき、視線を合わせた。
「安心しろ」
はっきりと、断言する。
「誰が何をしようと、私はお前を守る」
王妃の瞳が、ぱっと潤む。
「陛下……」
「王太子がどうなろうと、お前の身に危険が及ぶことは、決して許さぬ」
言葉を選ばず、続けた。それは、王の言葉でも父の言葉でもない。ただの男の誓いだ。
王妃は、ほっと息をつき、今にも泣き崩れそうになる。
「……よかった……本当によかった……」
その腕が、私の袖を掴む。
「私……怖かったのです」
「城からは出るな。交渉が終わるまで、人前にも立つ必要はない」
私は穏やかに、しかし有無を言わせぬ声音で告げる。
「はい」
素直な返事。それでいい。
王太子は、必要なら取り戻す。だが、王妃を失う選択肢は、最初から存在しない。
私は立ち上がり、王妃の額に軽く口づけた。
「すべて、私が決める」
扉を閉めながら、背後で王妃が小さく息を吐くのを聞く。
安堵の吐息だ。
私の守るべきものは、はっきりしている。




