23.天の道しるべ side王都の民
side王都の民
「ねえ、お母さん。お父さん、いつ帰ってくるの?」
「もうすぐよ」
そう答えながら、私は食器を洗う手を止めなかった。窓の外では、冬を前にした風が木の枝を揺らしている。
先日、夫のルイとメアリーと三人でピクニックに行く夢を見た。目覚めて、隣を探したけれど、そこにルイはいなかった。
ルイがドレイスブルグ国へ出兵して、もう二ヶ月。
捕虜になったと聞いた。
二度と帰ってこないかもしれない。それでも、帰ってくると信じるしかない。
偶然にも同じ夢を見たメアリーは、その日から「いつ帰ってくるの?」と、何度も尋ねるようになった。
国の命令で戦に駆り出されたのに、残された家族への補償などどこにもない。
だから、先週から、仕事を一つ増やした。
「この子だけは、不自由なく育てなければ」
その思いだけが、苦しい毎日を支えていた。
だが、王都は閉鎖され、物流は滞っている。銅貨一枚で買えたパンが、今ではその三倍。また物価が上がる前に、少しでも買いだめしておかなくてはいけないわ。
「メアリー、お母さんちょっとお買い物に行くから、お留守番お願いね」
「うん!」
明るい返事に、かすかに笑みを浮かべ、外套を羽織って戸を出た。通りでは、隣人たちが二、三人、声を潜めて話し込んでいる。
「ねえ、聞いた? 捕虜になった人たちがいるのに、国は解放のための賠償金を払わなかったんですって」
「聞いたわ。払わなかったら、どうなるのかしら。やっぱり今頃――」
「しっ! あっ、マイラ。今から買い物?」
「ええ……」
微笑んだつもりだった。けれど、その頬はこわばっていたと思う。
――駄目だ、泣いては。
市場をぐるりと歩き回る。かつて賑わっていた店は半分に減り、並ぶ品もどこか色あせていた。
値札を見るたびに、胸の奥が冷えていく。こんな値段では、買えない。けれど、手ぶらで帰るわけにもいかない。
「今日のスープ、お野菜少ないね」
「ごめんね。今日、買い物に行くのが遅くなって……ほしい野菜がなかったの」
口から出た言葉は、静かな嘘だった。野菜はあった。けれど、買えなかった。メアリーの瞳がまっすぐに向けられるたび、心が痛んだ。
「ううん、大丈夫。それより、やっぱり私、早くお父さんに会いたいな」
「……うん。お母さんもよ」
その一言が胸に刺さった。
食事が終わり、娘を寝かしつけると、窓際の椅子に腰を下ろし、糸を手に取った。
そのときだった。頭の奥に、誰かの声が流れ込んできた。
『国を憂いし、女神の子らに声が届く。我が名はルシアーナ・アイゼンベルク。女神の使徒』
――え? 何?
『この国に未来はない。私を信じ、ヴェリディア王国へ来てほしい。女神の名にかけて、皆を守ることを誓おう』
繰り返し同じ言葉が流れたあと、静寂が訪れる。聞き間違いではない。確かに、耳の奥で響いていた。
慌てて外に出ると、薄闇の中で何人かの隣人たちが戸口に立っていた。
皆、同じように空を仰いでいる。
「ねえ……みんなにも、聞こえていたの?」
「ええ。あれ、何なの? 怖いわ」
「声は消えたけど、でも、なんだか……呼ばれている気がするの。あっちの方から……」
誰かが震える指で北を指した。
月明かりの向こう――淡く光る雲が、一筋、空を裂くように垂れ下がっている。まるで女神が天から道を降ろしたように。
冷たい風が頬を撫でた。
気づけば、足が自然と前へ出ていた。ざわめく人々とともに、その光の差す方へと歩いていく。
石畳に響く靴音が、不思議と揃っていた。誰も声を出さないのに、皆、同じ場所を目指している。
やがて広場にたどり着くと――息を呑んだ。
地面一面に、光り輝く文様が浮かび上がっている。それは生き物のように脈打ち、淡い金色の輝きが夜気に揺れていた。
「なあ、さっきの声の内容、本当なんだろうか……」
「おい、誰か行ってみろよ」
「嫌だよ。命に何かあったらどうする」
ざわざわと声が交わされ、誰も近づこうとしない。恐れと期待とが、見えない波となって人々の間を行き交っていた。
そのとき――。
遠くから、馬蹄の音が響いた。
カン、カン、と石畳を打つ音がだんだん大きくなる。
やがて、黒塗りの馬車が街道の角を曲がり、広場の明かりに姿を現した。御者が手綱を引き、馬が嘶く。
止まった馬車から、立派な外套を羽織った貴族の一団が降り立つ。
「おい、あれ……アシュフォード子爵様じゃないか?」
「ローズウッド伯爵様もおられるぞ……」
ざわめきが広がる。
誰もが息を潜め、その行方を見守った。
ローズウッド伯爵は文様の前に立つと、静かに深呼吸をし、くるりと振り向いた。その顔には、決意と覚悟が宿っていた。
「皆、聞くのだ!」
低く、しかし確かな声が広場に響く。
「ルシアーナ・アイゼンベルク様は、この国の未来を憂い、新たな国を興すと宣言された! 私はその声に従い、ヴェリディア国へ赴く! この国を変える――いや、救うための、唯一の道だ!」
人々の間に、再びざわめきが走る。信じたい者、信じられぬ者。誰もが息を詰めて、伯爵の次の言葉を待った。
「初めて見るものも多いだろう。これは転移の魔方陣。危険はない。見よ、私が先陣を切る!」
伯爵はためらうことなく文様の上に足を踏み入れる。
瞬間、光が彼を包んだ。金の粒子が舞い上がり、彼の姿はゆっくりと、夜の中に溶けていく。
残されたのは、淡く輝く魔方陣と静まり返った人々の吐息だけだった。




