16.林檎パイと革のしおり
外套の裾を翻し、古城の外へと歩み出る。
城門の前には、二頭立ての馬車が待っていた。陽光を受けて、磨かれた車輪の金具がきらりと光を返す。
「いつでも出発できます」
御者の声に、私は小さく頷いた。
一歩、馬車の前へ進み出ると、ユリウスが私の前に立ち、恭しく手を差し出す。
「お足もとにお気をつけください、ルシアーナ様」
その声音は柔らかく、穏やかだった。私は彼の手に支えられ、馬車に乗り込む。続いて、アンヌが軽やかに裾を揺らして続いた。
扉が閉まり、馬車はゆるやかに動き出す。
ユリウスが窓を少し開けると、風が香りを含んで流れ込む。
「風が気持ちいいですね」
私は頷き、窓越しに街の景色を見つめた。近づくにつれ、音と匂いが一層はっきりと感じられてくる。
鍛冶場の鉄の音、果実の甘い香り、遠くの笑い声、そしてどこかから聞こえる笛の音。
やがて馬車が速度を落とす。
御者の「到着いたしました」という声とともに揺れが止まり、私は外套の裾を整えた。ユリウスが先に降り、扉を開ける。陽光が差し込み、その中で彼は私へ手を差し伸べる。
「どうぞ、ルシアーナ様」
「ありがとう、ユリウス」
足を踏み出すと、街の風は柔らかく、午後の陽光は揺れていた。アンヌが続いて降り、背後で馬車の扉が静かに閉まる。
「見て、ユリウス。美しい街でしょう?」
私がそう言うと、彼は微笑みを浮かべて頷いた。
「はい。時間がゆっくり流れているみたいです」
私はその言葉に小さく笑みを返す。
彼の瞳に映るこの街が、いつか彼自身の“国”になるように。そんな願いを胸に、私は歩き出した。
市場のざわめきの奥に、彼らの暮らしの温もりと重みが見える。人々の声、笑顔、積まれた果実。そのすべてが、この国の形をつくっていた。
ユリウスが私の隣に歩み寄る。
「店通りに来ると活気がありますね」
「そうね。ほら、ユリウス。焼きたての林檎パイよ。食べましょう? あなた、好きでしょう?」
湯気の立つパイから、甘く香ばしい香りが漂う。
「好きですが……視察中ですので、食べ歩きは……」
「堅いこと言わないの。じゃあ、半分こしましょう。せっかく来たんですもの。――すみません、リンゴパイを二つください」
露店の店主がにこやかに紙包みを差し出す。
私は小さな革袋から銅貨を取り出して渡し、包みを受け取った。パイを二つに割り、片方をユリウスの手にそっと乗せる。
「どうぞ、ユリウス」
湯気の中から、とろりと溶けた林檎が覗く。琥珀色の艶が陽にきらめいた。
ユリウスは一瞬ためらい、やがて意を決したように口に運ぶ。
「……っ! 本当に、おいしいですね!」
「でしょ? この街で一番人気なの。はい、アンヌもどうぞ。あなたは一つ全部食べられるわよね?」
「ありがとうございます! 余裕で食べられます!」
笑い声が混じる中、私たちはパイの香りを残したまま、ゆるやかな坂道を歩いた。
行き交う人々の笑い声、鐘の音、遠くの噴水の水音。そのすべてが、穏やかな昼下がりの調べのようだった。
ユリウスは隣で静かに街を見つめている。彼の歩幅は常に私に合わせられ、時折、さりげなく人の流れから私を庇うように身を寄せた。
やがて、通りの角に古びた木製の看板が見えてくる。
“雑貨店クローヴ”
扉を押すと、鈴の音が軽やかに響いた。
中は、紙と革とインクの匂いが混ざる静かな空間。思っていたよりもずっと広く、整然と並ぶ品々が柔らかな光を受けてきらめいていた。
奥の棚には封蝋や便箋、革張りのノート、繊細な羽ペン。
隣の棚には、色とりどりのリボンや香り袋、花模様のティーカップ。さらに奥へ進むと、紅茶やジャム、蜂蜜の瓶が整然と並んでいる。
「素敵ね」
思わず声が漏れた。窓から差し込む昼の光が瓶やガラス器に反射し、店内に小さな虹のようなきらめきを散らす。
「アンヌは何を買うの?」
尋ねると、アンヌは紅茶の棚の前で微笑んだ。
「エミリア様にお土産を。これで特訓を少し手加減してもらえたら……あはは、無理ですね」
「まぁ、アンヌったら」
その笑顔が可愛らしくて、私もつい笑ってしまう。
アンヌは孤児院出身だった。
私が幼い頃、孤児院を訪れた際に出会い、迷わず連れ帰った。その後、エミリアが直々に教育を施し、今では諜報も魔法も剣も、そして侍女としての作法まで完璧にこなす。
「エミリア様は最近、華やかな香りの紅茶を好まれますが……この新作も気になりますね。うーん……でも、これにします!」
その声音は明るく、迷いのない笑顔が咲いた。
かつて孤児院の片隅で怯えていた少女が、今はこんなにも凛として美しい。
「きっと、エミリアは喜ぶわ。あなたが選んだ紅茶ですもの」
私がそう言うと、アンヌは少し照れたように頬を染めて笑った。
ふと視線を向けると、ユリウスが真剣な表情でノートや羽ペンを選んでいる。革の装丁を指でなぞり、ページをめくるたびに小さく息をついていた。
「熱心ね。気に入ったものは見つかった?」
「あっ、すみません……こういうのは、見ているだけで時間が過ぎてしまいますね」
「ふふ、いいのよ。ゆっくり見て。私はお祖父様へのお土産を探してくるわ」
何か、お酒のお供になりそうなものはあるかしら。そんなことを考えながら、私は棚を覗き込んだ。
買い物を終えて店を出ると、昼下がりの陽光が街を包んでいた。
穏やかな風が頬を撫で、遠くから鐘の音が柔らかく響く。
「ルシアーナ様」
ユリウスが歩み寄ってくる。その手には細長い包み。金のリボンで丁寧に結ばれていた。
「これは?」
受け取ると、彼は少しだけ視線を逸らし、控えめに言った。
「今日、街を案内してくださったお礼です。大したものではありませんが……」
そっと包みを開くと、中から小さな革のしおりが現れた。淡い茶色の革に、白と青の糸で小さな鳥の刺繍が施されている。
「まぁ……かわいい!」
思わず笑みがこぼれた。指先でなぞると、革の感触と糸の温もりが伝わる。
「小鳥、お好きでしょう? 最近、ルシアーナ様はまた、執務の際によく眉を寄せておられますので……少しでも癒やしになればと」
「まぁ、そんなところまで見ていたの?」
思わず頬が熱くなる。眉を寄せていたなんて――少し恥ずかしい。
「はは、失礼しました。さぁ、遅くならないうちに帰りましょう」
「ふふ、そうね。ありがとう、ユリウス。……しおり、とても嬉しいわ」
隣を歩くユリウスの横顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
午後の光が彼の髪を金に染め、柔らかな風がその笑みを包み込む。




