15.承認という鎖
「――それでは、最後の案件です」
マルセルの低い声が落ちた瞬間、室内の空気がかすかに揺れた。
「セドリック・ヴァルデニア王太子が“使者”としてこちらに向かっているとの先触れが入りました」
短い報告のあと、沈黙。
次いで、低いざわめきが広がる。誰もが息を詰め、互いの顔を窺った。
私は指先で机を軽く叩く。小さな音が、静けさを切り裂いた。
「王太子自ら、ね」
「はい。兵は最小限。目的は“条約交渉”とのことですが……」
マルセルの言葉が一瞬途切れた。
「捕虜の件については、一切触れられていません」
予想していた通り。私は短く息を吐いた。
「強気で来るのは間違いないでしょうな」
白髭のラザフォードが腕を組み、低く唸る。その声音には、長年の戦略家としての苦味が滲んでいた。
エミリアが静かに口を開く。
「条約の内容は、すでに手に入れているわ。アンヌ、配って」
命を受けたアンヌが、数枚の写しを机の上に並べる。
視線が次々と紙面に落ち、次の瞬間、部屋の空気が凍る。
「……関税の決定権をドレイスブルグ王国が握る? しかも軍の規模にまで制限を。まるで属国扱いではありませんか」
マルセルが眉をひそめ、紙をめくる。
「ふざけた内容だ。こちらを従属国にする気か」
ラザフォードの声が低く唸る。
私は視線を落としたまま、唇の端をかすかに吊り上げた。
――やはり、そう来たのね。
王の承認なくして独立は成らない。その一点を盾に、“屈服の条件”を突きつけるつもりだろう。
表向きは和平、実際は“支配”。
「……属国というより、“鎖”ね。こちらが首輪をつけられるための条文ばかり」
私は紙面を指でなぞりながらつぶやいた。室内に一瞬、沈黙が落ちる。紙をめくる音が、緊張の静寂をさらに深めた。
やがて、ユリウスが慎重に口を開く。
「ルシアーナ様。これはもちろん断るとして……こちらでも妥当な条約案を用意しておきましょうか?」
「ええ、そうしてちょうだい」
手札は多い方がいい。
「王太子が使者として来るということは、“この条約を拒めば独立を認めない”という脅しでしょうね。つまり、承認を盾に交渉を有利に進めるつもりかしら」
エミリアの声が冷たく響いた。私は視線の端で彼女の鋭い横顔を捉える。
「それでも、頷くつもりはないわ。前国王からもらった“罪を問わない証文”があるもの。それに、進めている策がうまくいけば、近いうちに向こうから頭を下げて、“承認させてくれ”と頼みに来ることになると思わない?」
その言葉に、重苦しかった空気がわずかに緩んだ。
「――今日はここまでにしましょう」
私の声に従い、皆が立ち上がる。地図の上の駒が片付けられ、机の上は再び静寂に包まれた。
「ルシアーナ様は、予定通り街へ視察ということでよろしいでしょうか?」
アンヌが穏やかに問いかける。
「ええ、そうね。流れてきた民の様子も気になるし、予定通り、変装して行きましょう」
「おお、それであれば、ルシアーナ様」
ラザフォードが笑みを含んだ声で言う。
「ユリウスも連れて行くとよいですぞ。見聞を広めさせるには絶好の機会です」
ユリウスは、困ったように笑った。
「残念ながら、私では護衛にはなりません。それに、自領とはいえ、この時期に視察など危険すぎます。ガレス様や、その部下を――」
「いや、ユリウス」
ガレスの低く響く声が、言葉を遮った。
「ルシアーナ様に護衛などいらん。私の愛弟子だぞ。それにアンヌもおる。心配など無用だ」
豪快にガレスが笑う。
「それに、この国を支えていくのなら、この街を肌で感じておかねばならん。帳簿と机上だけでは国は見えんぞ」
その言葉にユリウスは視線を落とし、ちらりと私を見た。
軽く頷くと、彼の表情がわずかに緩む。
隣でエミリアが静かに付け加えた。
「大丈夫よ、ユリウス。私の部下も影としてつけているもの。あなたも安全よ」
ユリウスが苦笑する。
「はは……結局、一番護衛が必要なのは私ということですね」
「ふふ、いつか領地を案内するって約束していたわね? あなたの好きそうなものも、たくさんあるわよ」
私はいたずらっぽく微笑む。
「焼きたての林檎パイとか、紙なじみのいいインクとか」
ユリウスは視線をそわそわと泳がせ、机の書類を整え始めた。
「それは、楽しみですね」
「決まりね。さあ行きましょう」
私は外套を羽織り、背筋を伸ばす。
「承知いたしました、ルシアーナ様」
その声の端に、微かな笑みの気配が漂った。




