13.帰還の午後
「ただいま戻りました」
静かに開いた扉の向こうから、ユリウスとマルセルが姿を現した。
外套の裾がわずかに光を掠め、動くたびに柔らかく揺れる。
旅の埃をまとったそれを脱ぎながら、二人はほっと息をついた。
「お帰りなさい。待っていたわ、さあ、座って」
扉が閉じられると同時に、外の冷たい風が遮られ、部屋の中に穏やかな暖気が満ちていく。
アンヌが手際よくポットを持ち上げる。
マルセルがカップを取り、ひと口。ユリウスは背もたれに深く身を預け、肩の力を抜く。
「やはり、アンヌの淹れる紅茶は格別だ」
マルセルの表情がふっとやわらいだ。
「全て順調に進んでいます。諸外国五カ国の承認も得られました。また、取り急ぎ近隣の領地も回りましたが、どこも歓迎してくれました。正式な合流の署名もすでに頂いています。我が兄のいるファルケンハイン領とその周辺も同様です」
ユリウスが穏やかに言葉を継ぐ。
「まあ、説得の必要もなかったようね」
思わず口元が緩む。二人がどんなふうに各地を駆け回ったのか、目に浮かぶようだった。
「ユリウス様のご手腕のおかげですよ」
マルセルが嬉しそうに笑う。
「ルーシー……いえ、ルシアーナ様。ユリウス様をよくぞお連れくださいました」
「まあ、マルセル。昔みたいに“ルーシー”でいいのに」
軽く冗談めかして言うと、マルセルは言葉に詰まり、気恥ずかしそうに視線を逸らした。
彼の耳がわずかに赤く染まっているのが見える。
マルセルの父は、かつて前国王が現ドレイスブルグ国王につけた側近だった。
けれど、早々に王を見限り、爵位を長男に譲って領地に引きこもり、静かな余生を送っていた。
私の5つ年上のマルセルは、幼いころそんな父に連れられて何度もこの地を訪れている。
広々とした領地、人々の穏やかな暮らしを気に入り、やがては行儀見習いとして移り住み祖父のもとで仕事を手伝うようになった。
きっとこの地は、彼にとって“第二の故郷”なのだろう。
「我が父も、近々こちらに参るそうです。兄が領地を継いで暇を持て余していたようですが……あれほど政治を嫌っていたのに、不思議なものです。いえ、やはりユリウス様のおかげですね」
「マルセル様の父君は、ただ背中を押してくれる誰かを待っておられたのでしょう。私でなくても、いずれ動かれていたはずです」
「いいえ、あの頑固者が他人の言葉に耳を貸すなんて、ありえませんよ。ユリウス様だからこそです。……まったく、私が兄と話している間に、どんな“魔法”を使ったんです?」
「はは……特別な呪文など使っていませんよ」
穏やかな声に、自然と皆の視線が集まる。
「マルセル様の父君の中に眠っていたものを、ほんの少しだけ刺激しただけです。あの方が動いたのは、私の言葉のせいではありません。ルシアーナ様のために、という思いがあったからこそです」
紅茶の表面に光が揺れ、ユリウスの瞳にも微かな輝きが宿る。
「具体的には?」
「『ルシアーナ様が国を再び興す』という話を、ただの夢ではなく“現実の計画”としてお伝えしたのです」
ユリウスの声が低く落ち着いた響きを帯びる。
「必要な人材、資金、土地――それらを整理し、道筋を見せた。『人手が足りない』と聞けば、血が騒ぐものです。静かな余生を捨ててでも、再び立ち上がる理由を……私は、ただ示しただけですよ」
その穏やかな声音には、確かな自信と誇りが滲んでいた。
「いやはや……まったく。こんな優秀な方をどうやって引き抜いたのか、ぜひ伺いたいものです、ルシアーナ様」
マルセルがわざとらしく感嘆してみせる。
そのおどけた声に場の空気が和み、アンヌの口元にも笑みが浮かんだ。
「簡単なことよ」
私は肩をすくめて笑う。
「時間がない中で二択を迫る――考える余地を与えず、勢いで決めさせて、そのまま連れてきただけ」
マルセルは目を瞬かせ、本気で驚いたように眉を上げた。
「そんな乱暴な……!」
思わず声を上げたマルセルが、すぐにアンヌの方へと向き直る。
「本当か? アンヌ」
「ええ、本当ですよ」
アンヌはくすりと笑い、空になったカップにもう一度紅茶を注いだ。
湯気がふわりと立ちのぼり、やわらかな香りが広がっていく。
その香りに包まれた瞬間、さっきまでの冗談めいた空気が、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻したその時。
「いえ、私は――ちゃんと考えましたよ」
静かな声が響いた。ユリウスだ。
「正確には“ずっと考えていた”んです」
その一言で、場の空気がぴんと張りつめた。私は反射的に顔を上げる。
――考えていた? 知らせていなかったはずなのに。
アンヌと目が合う。
彼女は小さく首をかしげ、いつもの穏やかな微笑を浮かべている。
まるで「私は、言っていませんよ」と言いたげに。
ユリウスはそんな私たちの反応を受け止めながら、静かに微笑んだ。
「もちろん、国を興すという話を、事前に耳にしていたわけではありません。……そうですね。ただ、すでに心に決めていた、とだけ言っておきます」
柔らかな言葉の奥に、揺るぎない意志のようなものがあった。
「まあ、私には何のことかよく分かりませんが、ユリウス様の決断には感謝していますよ」
マルセルが軽く笑い、カップを唇に運ぶ。
その穏やかな声が、空気をやわらかく解きほぐしていった。




