77「非常階段はあっち! 狙いはあなただっ! 逃げますよ!」
「……998、999、1000。ふう……、あれ?」
筋トレに一区切りつけて、意識を自分の外側に向けた瞬間、湯ノ原は、周囲の空白に小さじいっぱいの寂しさを覚えた。ガンマが虫取りに行ったことで、二人部屋で一人になってしまったが、それだけでは説明がつかない寂寥感、あるいは物足りなさだった。
「防人さんの霊圧が……、消えた?」
真剣そうな表情で、異能バトルジャンルに属する少年漫画の登場人物風な台詞を吐く湯ノ原。半分は冗談だったが、もう半分は本気で言っていた。肉体的にはゴリラに匹敵するほど強い防人都は、存在感も群を抜いている。より正確に表現すると、朧煙学園の中等部に入学してすぐの頃、防人都の鉄棒曲げを目撃した瞬間から、肉体強度という指標を絶対視する湯ノ原の中で、彼女の存在は非常に大きなモノになっている。いつしか無意識のうちに、防人都の動向に注意するようになった。やがて、持ち前の野生的な勘は、彼女が近くにいるかどうかを感知出来るようになるまで鍛えられた。
どこに行ったんだろう。早速、古代「月の使者」とやらの調査に向かったのか。
旅の大まかな目的以外、湯ノ原は何も聞かされていない。自分は、防人都たちの隙間時間における遊び相手として駆り出されただけの、彼らの事情とは無関係な部外者だ。月の力なる異能に憧れがないと言えば嘘になるが、分不相応に深くまで踏み込むつもりは欠片もなかった。そうは言っても、旅の同行者である以上、メンバーの所在を知ろうとする権利はあるはずだ。
防人都はスマホをあまり頻繁に見ない。半日以上の未読もザラにある。不在の理由がちょっとした外出だった場合、スマホを携帯していない可能性すらある。それでも一応『どっか行ってる?』とメッセージを飛ばしてから、湯ノ原はカードキーをポケットに忍ばせた。廊下に出て、隣の部屋をノックする。
中から現れたのは、防人都の保護者兼、朧煙学園の社会科教師の荒屋盈だった。この時点で湯ノ原は、魂風美澄も旅館にいないと察する。
「おお、湯ノ原君。現状唯一の世界史満点侍ではないですか」
「唯一なんですか? 難易度、簡単じゃなかったけど標準レベルでしたよね?」
「だよね〜? 『微に入り細を穿つ性格の悪い問題の数々。地獄に落ちますよ』とか言われるほどの問題じゃなかったですよね?」
誰の物真似かは明らかだった。湯ノ原は苦笑いする。
「用があるのは都さん? それとも魂風さん? 生憎二人とも、旅館の周りを散策するって言って、御影さんを誘ってお出かけ中です。遅くとも昼食までには絶対戻ってきますよ。都さんは食いしん坊ですからね。……あれ、湯ノ原君はひょっとして、今一人とか? ガンマ、えっと、坂井昭吾君は?」
「昭吾なら、カブクワの幼虫を確保すべく飛び出していきました」
「えーっ!? 流石にそれは。自分たちの事情に我儘で湯ノ原君を付き合わせておいて、なんて自分勝手な……。しっかりしてそうな子に見えたのに、円ちゃんから悪い影響受けたのかな。こうなるって分かってたら、湯ノ原君もお誘いするよう都さんに言っておいたんですが」
「俺と石黒御影さんは接点がないですから。防人さんが敢えて組み合わせを避けたのかもしれません。俺も、女子三人に男一人混ざるのは気まずいですし」
「まあ、都さんは豪胆に思えて、人の関係性にはかなり繊細ですしね」
「そうなんですよ! 防人さんはその屈強さにもかかわらず平和主義者なので、群れの間に不和が生じるとストレスを覚えてしまう繊細さがあるんです!」
「……んふっ! あははははっ! 人間に与える説明じゃないでしょーそれ! そういう扱われ方すると、あの子、めちゃくちゃ拗ねますよ。君にゴリラ呼ばわりされたって、一ヶ月ずーっとネチネチネチネチ文句垂れてたもん。三年くらい前だけどまだ全然覚えてる!」
「ええ、俺も、一ヶ月は会う度文句言われましたし、半年は湯ノ原の前に『センスがおかしい』なる不名誉な称号が付着してました。何が駄目だったんでしょうね? ゴリラは、あんなにも美しい動物なのに……」
「うーわーおぉっ!? えっ? 湯ノ原君マジで言ってる? 君、それマジで言ってんの?」
「? はい、大真面目に言ってますけど……」
「マジかー。分かりました、湯ノ原君! ゴリラは確かに美しいかもしれない。でも、君のセンスはおかしいです!」
「ファっ!? そんな!? 酷いですよ! 教師が生徒に言うことじゃない!」
「まぁまぁまぁ、センスがおかしいのは都さんも負けず劣らずなんだから! センスがおかしい同士仲良くしなさいな」
担任教師との間で突然始まったコミュニケーションは、湯ノ原にとって納得の行かない結論に帰着した。どうすれば名誉を挽回出来るのだろう。ゴリラが如何に美しい動物なのか、そして、防人都が美しきゴリラの女王に如何に相応しいかについて、理解してもらえるまで説得したい衝動に駆られた。
しかし、何となく、目の前の頑迷な社会科教師には、どれだけ言葉を尽くしても伝わらない予感がした。また、彼女が締めに披露した物言いから、防人都も似たような諦めに直面しているのだろうと察した。
あの人と同じなら、まあ。
湯ノ原は代わりに礼を言う。
「防人さんたちの挙動を知って安心しました。ありがとうございました」
「旅行中なら、教えられる範囲で教えてあげますよ。君は一方的に巻き込まれただけの被害者。部活の練習もあるのに。同情の余地しかありません」
「はは……。あっ、エレベータの到着音。誰か戻ってきたのかも」
「へえ、聞こえなかったです。耳良いんだね。『女子散策組、都さんから出てくる』に、ジュース一本賭けます!」
「賭けるんですか!?」
湯ノ原は慄きながら、心の内で、意外と愉快な人なんだなと、荒屋盈に対する評価を改めていた。しっかりと組み立てられた授業内容、かっちりしたテストフォーマット、あるいは発話のベースが敬語であることなどから、真面目な先生だという印象しかなかった。確かに、女子寮では寮母さんから問題児ユニットとして防人都と一括りにされている、女子同士のお喋りではキツめの猥談に傾倒しがち、といった情報が流れてくるのを聞いた記憶はある。根も葉もない噂話だと思っていたが、案外本当なのかもしれない。防人さんが事ある毎に荒屋先生の悪評を垂れ流していたのも、単なる照れ隠しではない?
嗚呼と、湯ノ原は天啓を得る。荒屋盈という、真面目さと愉快さを備えた保護者と出会えたからこそ、特殊な生い立ちにもかかわらず、防人さんは強く生きてこられたのだと。
「では俺は、カブクワか他の甲虫か、幼虫の見分けがつかず、調べるために旅館のwi-fiを拾いにきた昭吾単品で」
防人都ではない確信が、湯ノ原にはあった。
二人で、エレベータに繋がる角から、誰が現れるのかを待つ。
カタカタカタカタ、カチカチ、カタカタカタカタ、カチカチ。
乾いた音が規則性を持って廊下に鳴り響き、徐々に大きくなる。
防人都が操る車椅子の走行音、先入観があればそう聞こえなくもない。または、旅館のスタッフが重用する手押し車の音。しかし、湯ノ原の優れた聴覚は、いずれの可能性もすぐに消去した。ではいったい何の音だろう? キーボードのタップ音、風で窓が揺れる音、時計が秒針を刻む音、折り畳み傘の柄を伸ばす音、割り箸を割る音、将棋を指す音──色々な候補が頭に浮かんだものの、やはり、どれも違うと感じられた。
非日常は突然に。
角の向こうからゆっくり現れたのは、無数の足を忙しなく動かす、日本伝統のカラクリ人形とテオ・ヤンセンのストランドビーストを掛け合わせたかのような、ひどく手の込んだ造りをした木製のロボットだった。
ボディを構成する部品のいくつかは、艶やかな緋色を帯びている。
湯ノ原は、真横に立つ荒屋盈と顔を見合わせた。
「湯ノ原君。あれ、クモ?」
「それよりは、殻のないヤドカリじゃないですか? 足は多すぎですけど」
「なるほどです」
カタカタカタカタ、カチカチ、カタカタ、カタ。
左は味わいのある飴色の土壁、右の窓から山景色。風情ある廊下の中央線に達したのち、カラクリのヤドカリ擬きがしばらく静止する。
ヤドカリ擬きの正面には、目を模したパーツが取り付けられていた。それが本当に目に類するセンサーなのか、湯ノ原には判別が付かなかった。ただ、ヤドカリ擬きがこちらを観察していることは明らかだった。命に敬意を払わない冷たく無機質な視線を、容赦なく浴びせかけてきていた。
ゾワリと皮膚が粟立つ。危機感が、神経の根元から沸々噴き上がる。
咄嗟の反応で荒屋盈の服を掴み、自分の方に引き寄せた。
湯ノ原は正解を引いた。ヤドカリ擬きは、盈がいた空間に突進した。隙間の多い輪郭が、開けっぱなしの扉を掠める。ひしゃげて折れ曲がった扉が、蝶番を失って倒れた。
怯んで当然の状況、恐怖で固まるには十分な光景だったが、湯ノ原は、取り柄の頑丈な精神を余す所なく発揮する。盈の手首を強引に引っ張り上げて、彼女の緊張を吹き飛ばすぐらいの大声で叫んだ。
「非常階段はあっち! 狙いはあなただっ! 逃げますよ!」




