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ルナ・ベータ  作者: オッコー勝森
第十話 月は震えて 初めて

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 学校という狭いコミュニティでは、大物生徒に関わる与太話が度々流布されるものである。最近は、校内で最も貫禄のある少女、防人都についての話題が熱い。どうも彼女は、朧煙随一の名家、石黒家の孫娘である御影とよく絡んでいるらしい。御影をその取り巻きとまとめて自分のシマである文芸部に迎え入れたとか。車椅子の傑物「ワイルド・デスロール」は、本格的に朧煙の魔王を目指し始めたのではないか。

 朧煙校生の間でまことしやかに囁かれる噂が、ゴシップ感度は比較的低い湯ノ原の耳にも届く。御影「に取り入る」ではなく「を取り込む」という形で認識されている辺り、さすが防人さんだと彼は誇らしくなった。尤も彼は、当の防人都から、商店街の爆発事件を端緒にして御影に近づかれるようになったと聞いている。ただし、彼は防人の生物的な強さを神聖視しているから、きっかけはどうあれ防人と接した御影がそのパワーに心酔し、事実上の手足となることで、噂が本当になる可能性を高く見積もっていた。

 4月25日、土曜日の早朝、湯ノ原はいつも通り、庭で加圧トレーニングを熟す。仕事に疲れた両親の迷惑にならないように、勢いを抑えたシャワーで身を清め、忍び足で階段を昇った。自室の机に座り、いくつかの教科書と向かい合う。


「防人さん、遠い存在になっちゃうかもな」


 集中が途切れたタイミングで、彼はそう呟いた。まるで、突出した能力を認められた仲間が中央に取り立てられるのを祝いながら見送る、大勢の内の一人になったかのような心境だった。防人さんにとって石黒家は踏み台に過ぎず、朧煙の魔王などただの通過点。彼女の縄張りは、やがて、世界規模に広がっていくのだ。このゴリラ的(ファンタスティック)なサクセスストーリーを、古参ファン面しながら後方腕組みして鑑賞出来る自分は、なんて幸運なのだろう。スターダムを駆け上がる彼女の姿を妄想するだけで、湯ノ原の脳は多幸感に包まれる。

 湯ノ原宅のインターフォンが鳴る。一家の一人息子は時計を一瞥した。父はそろそろ起きてくるもののぼんやりしている頃合い。母はまだ眠っている。自分が出るしかないと、彼は椅子から立ち上がった。面倒臭いと感じるが、訪問販売や宗教勧誘の場合、毅然と対応して追い払っておくべきだ。

 扉を開けると、最近よく話すようになった友人がいた。二週間と少し前に転校してきた、防人と共通の秘密を抱える女の子。

 デルタこと魂風美澄。


「魂風さんじゃん。どうしたの?」

「よ、レイジ。上がっていい?」

「ん? んー、どうぞ」


 アポ無しの来訪だったが、追い返す理由はない。そう判断した湯ノ原は、魂風を家に招き入れる。すると、リビングに繋がる廊下の前で、彼の父親が、寝惚け眼の間抜け面を晒して突っ立っていた。インターフォンの呼び出しに応じるつもりだったのだろう。目元を擦りながら息子に声をかける。


「友達か?」「ああ、まあ」

「仲良くしろよ」


 それ以上の言葉はなく、湯ノ原父は(きびす)を返す。地方銀行員らしい気の利いたお出迎えだぜ、と息子は内心で皮肉った。眠いから頭が回ってないんだろうが、眠いならもうちょっと寝とけばいいのに。

 真面目な湯ノ原は思案する。魂風さんは一応異性なわけだが、このままストレートに自室へ案内して良いのか? その間に、魂風は靴を脱ぎ、勝手に階段を上がり始めた。彼女の選択肢に「待つ」はないようだ。


「レイジの匂いが濃い! レイジの部屋はこっち!」

「え? 嘘でしょ? 俺、そんなに(にお)う?」


 絶望に襲われるも、湯ノ原はどうにか持ち堪えた。硬直する筋肉質な太腿を叩いて再起動し、階段を駆けて部屋に戻る。いつもの癖でドアノブに手を掛け、外開きの扉を閉めようとした。

 たじろぎ、背中で押し返す。

 魂風は、湯ノ原のベッドで大胆に寝転がっていた。気持ち良さげに鼻歌を歌って。そばがら入りの枕を抜き去り、胸の上でギュッと抱きしめる。

 やり投げ一本でやってきた思春期の少年には、刺激が強すぎるシチュエーションだった。あまりの衝撃に、彼は、思考をやめて廊下に立ち尽くす。動物的直感の鋭い彼にしては珍しく、すぐ側まで近づいていた父親に気づくのが遅れた。


「おい零時。ジュースと、お前は食べんかもしれんが甘い系のお菓子を……」


 景色に怯んだ父と、困惑する息子の目が合った。内緒話が始まる。


「そういう関係?」

「ちげーよ。言ったろ? 高二までは競技に集中するって」

「とは言ってもロマンスはコントロール出来んぜ? 父さんと母さんはな……」

「うるせー、ここで昔話はやめろ。ショート動画にでもまとめとけ!」

「レイジなら、私の騎士にしてやっても、いい」


 満更でもなさそうな声音に割り込まれる。親子は揃って目を丸くした。ボリュームは抑えたはずだが、少女の地獄耳に拾われてしまったらしい。


「お嬢さんはだいぶ好意的なようだ。隅に置けん奴だなお前も」

「好かれるようなことをした記憶はないんだけど」


 父はスマホを取り出し、親指で素早く操作した。息子のスマホが鳴る。


『お前にその気がないとしても、あの子に恥だけは掻かせるな。後が怖いぞ』

「お、脅すなよ。本当に怖いだろうが」


 父は階下に退いた。ベッドの方をチラリと警戒しながら、湯ノ原は自身の勉強机に回り込む。机の前の回転椅子はとても優秀で、彼の筋張った尻が乗っても軋まず、ゆったりとした低反発を返すのみ。さすがオ◯ムラ製だと、彼はメーカーを称える。現実逃避気味に。

 部屋の主が座に着くが否や、がっちりとホールドした枕を芯に、魂風は上体を起こした。青緑色の生地に小さな花が細かく刺繍された、どこか異国情緒の漂う可愛い私服に皺が寄りそうだったが、それを懸念する様子は一切ない。枕に顎を刺して、ザリザリとした感触を楽しみ、満足そうに微笑む。

 遊具にじゃれつく猫みたい。その感想を以って、湯ノ原が魂風に抱いていた印象に、ほんの少しだけ丸みが加わる。

 尋ねかけた。


「えーっと、その、俺、臭うんじゃなかったっけ」

「レイジの匂いは、好き。落ち着く。安心するので」

「あ、そ、そう……」


 湯ノ原の心臓が大きくかつ早く脈打つ。絶好調な肉体で、描いていたベストフォームを実践出来た後、投擲した槍を見送る瞬間と、発現する症状だけは似ている。しかし、湧き上がる高揚感の種類はまったく違った。決定的で、にもかかわらず、青いガキには言語化不可能な差異が、そこにはあった。

 女の子に匂いを褒められた。ありがとうと言いたくなる男の子の本能に、従ったらヤバい。匂いというか、五感についての話題は全部まずい。湯ノ原は早々に軌道修正を図る。


「防人さんからは、魂風さんは休日に寝坊しがちと聞いたんだが」

「休日は、いつ起きても良い」

「土日は惰眠を貪るタイプの友達も、たまーに早く起きたら三文ほど儲かった感があると言っていたけど、生活リズムはなるべく整えた方がいいぜ。不規則というか、気まぐれなライフスタイルによってもたらされる幸福は刹那的なもので、命はちょっとずつ蝕まれていってるんだ。代償にな」

「ふっふっふ。心配無用」


 魂風は得意げに口角を歪ませる。そして、右の膝から左の膝までの曲線を活かし、メトロノームみたく左右にグラつき始めた。押し潰される掛け布団が、ガサゴソと悲鳴を上げる。空気の揺らぎが湯ノ原の肌まで伝わる。


「『月の使者』は強い。異能で体を健康に保つ。習慣の乱れくらい平気」


 バランスを取れなくなったのか、彼女はポテンと倒れてしまった。転校初日とは打って変わって綺麗になった髪が円形に広がる。正面からだと隠れ気味な二重ラインがこの角度だとくっきり見える。虎の毛並みが想起される、シャトヤンシーを伴う瞳が、晴れた外の光を反射して輝いている。

 扇情的で、どこか危うい。


「珍しく早起きした。なのに、寮にベータがいなかった」

「アクティブな人だから、休日にお出かけぐらいするだろうさ。ものの弾みでエベレストに挑戦してても俺は驚かない」

「寂しかった。だからレイジに会いに来た」

「……寮なんだから、防人さん以外の友達もいるだろ? 野々島さんとか」

「レイジがいい」


 魂風はそう言って、そばがら入りの枕から右手を離し、人差し指を湯ノ原に向ける。

 湯ノ原は、背中と腰の下に違和感を覚えた。カタカタと揺れ始めた椅子の震動を感じ取ったからだ。電動アシストなど付いていないごく普通のキャスターが、手押しもなく自転する。椅子とベッドが近づく。

 湯ノ原と魂風の間の距離が、縮まっていく。

 超能力だ! 魂風さんは間違いなく、超能力を使っている!

 九日前、彼女は申告した。防人都(ベータ)と同じく、自分も人ならざる力を持っていると。商店街の広場では、防人による車椅子の変形は一瞬だった。こうしてじっくり体験出来て、湯ノ原の興奮は(とど)まるところを知らない。


「レイジは私をちゃんと見てくれる」


 我に返った時には、魂風の端正な顔立ちが間近にあった。湯ノ原の両耳が掌で包まれる。耳たぶをふわりと撫でる髪が、少しだけくすぐったい。

 こちらを見つめる彼女の目から、彼も視線を逸らせない。瞳に吸い込まれそうになる。その奥にある、輪郭が不確かなものの正体を知りたくなって。

 しばしの静寂は、魂風の満足そうな呟きによって破られる。


「ふふ。あったかくて、ドキドキして、ゾクゾクする」

「あ、あのー。いつまでこの姿勢を保てば」

「あと十分」

「絶妙に長いな。絶妙に長いんじゃないかなって、俺くんは思ったり」

「おーい零時! ちょっといいか……、すまん。お取り込み中だったか」


 部屋の外、廊下から聞こえた父親の声に、息子は、顔から火が出そうな心地を味わった。部屋の扉を開けっ放しにしていたことについて心底から後悔し、窓から飛び降りたくなった。

 恥ずかしさを吹き飛ばすべく、彼は早口で切り返す。


「実はお取り込み中じゃないんだ。いや、常識的に考えたらとても信じられないかもしれないけど、断じてそうじゃないんだよ父さん」

「レイジなら、取り込んでもいい」

「魂風さんは黙って……、俺を取り込むってどういう意味!? まあとにかく、そういうんじゃないからな! で、父さん、用件はなんだ?」

「ああ、うん、了解した、取り込んでないなら話そう」


 激しく狼狽しながらも、父はどうにか立て直し、息子に問いかけた。


「ショート動画を作りたいんだが、おすすめの編集アプリを教えてくれ」


オカムラのSylphyは素晴らしいと思います。

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