第1章 片っぽ靴下さん
第1章 片っぽ靴下さん
コンクリートの塀に囲まれたワンルームマンション。
引っ越してきたのは、半年ほど前だった。
その敷地の隅には、小さな祠がある。
何を祀っているのか、誰も知らない。
住人たちは、せいぜい厄除けくらいにしか思っていなかった。
……俺もあの時までは、そうだった。
窓から差し込む朝日が、ワンルームの床を照らし出した。
はっと息を吸って、突っ伏していたデスクから顔を上げる。
昨夜のレイド戦の記憶が曖昧だった。
チャット欄には、『オツカレ』『助かったよ』などの文字が残っている。
「ゴメン寝落ち」
短く打ち込んで、モニターを切る。時計を見れば、七時をとうに回っていた。
重い身体を引きずるようにして、俺はいつもの支度を始めた。
六本入りのスティックパンを二本、牛乳で流し込む。
——あれ、残り一本になってるぞ?
おかしい。三日もたすはずだった計画は、完全に狂っていた。
衣装ケースから適当に選んだ靴下を掴み、その片割れを探すが、どうしても見当たらない。
——また『片っぽ靴下さん』か。
——まあ、誰も他人の足元なんか見ないからな、柄物と無地でいいや。
出勤用のバッグを手に玄関のドアを開けると、同時に隣のドアが開く音がした。
「あっ、佐藤さん。おはようございます」
「……」
明るい髪を肩のあたりで切り揃えた女性。服飾専門学校に通う、隣人の佐藤さん。
俺と歳も近く、半年前は笑顔で挨拶を交わし、世間話も少しはしていたのに、今では口もきいてくれない。
それどころか、今日は激しく睨みつけてくる。
——俺が一体、何をしたって言うんだよ……。
「川崎さん、ちょっといいかい?」
エントランスに降りると、管理人の婆さんに呼び止められた。
「ゴミの分別、ちゃんとしておくれよ。プリンの容器はプラスチックの日だからね」
「混ざってましたか、……すみません」
わりと几帳面な俺は、ゴミの分別には絶対の自信があった。
——寝ぼけて捨ててしまったのか?……しかし、よく見てるな。
その日の夜。
会社から帰宅し、部屋着にしている白いダボTシャツを探すが、見当たらない。
洗濯機の中、干していたベランダ、その下の敷地。
どこをどう探しても、ない。
——おかしいな、どこに消えたんだ。
他の物件より少し広めのワンルームで、しかも家賃は相場より圧倒的に安かった。
私物の多い俺は、クローゼットのほかにもハンガーラックや衣装ケースを置ける余裕のあるこの部屋が気に入っていた。
ただ、その広さのせいか、とにかく物をなくす。
洗濯物を畳みながら、朝の『片っぽ靴下さん』の答え合わせをする。
片割れは出てこず、手に残ったのは、朝のものとは別の、色違いの片方だけだった。
——そのうち出てくるか……。
いつものネトゲにログインした俺を、ギルドのみんなが迎えてくれた。
『昨日のサポートは完璧だったぞ!』
『次も頼むな、ツムギ』
そんな気持ちのいい褒め言葉の中に、身に覚えのない一言も流れる。
『……さすが、住人だな』
「いや、普通の会社員だよ」
『在宅ワークか?』
「違うって、ただゲーム歴が長いだけだよ」
他のプレイヤーからすれば、住人並みのやり込み具合に映るのかもしれない。
レベル上げもアイテム集めも不思議と早く、ゲームの中では俺は最強クラスだった。
冷蔵庫から飲みかけの緑茶のペットボトルを取り出すと、やけに軽い。
——あれ? 昨日、一口飲んだだけなのに。
昨日コンビニで買ったヨーグルト、五本入りのアイス、十本パックの乳酸菌飲料。
すべてが、俺の計画より早く減っている。
俺の記憶が間違っているのか。
それとも、この部屋に、何か別のものが……。
固まる俺の背後で、ビニール袋の鳴る音がした。
心臓が跳ね上がるのを感じながら、ゆっくりと振り返る。
そこには……長い黒髪に、見たこともない精巧な髪飾りを挿した、若く美しい女がいた。
彼女は我が物顔で俺のベッドに寝そべり、さっきまで探していた、あのお気に入りの白いダボTシャツをだらしなく身にまとっている。
裾から剥き出しになった、しなやかで白い脚。それが、退屈そうにゆっくりと揺れていた。
その足元の靴下だけが、なぜか左右色違いだった。




