16. チップに人生の残り全部
3÷5は? なんだ0.6でキレイに割り切れるじゃん。じゃあ次の問題。正三角形の面積を6:4に分割せよ。解答制限時間はラウーに樹脂調査失敗が露見するまでとする。
往路と潮位が違うから、岩礁地帯の様相は一変していた。渦潮の位置も動いている。
艦長も乗組員も月天ロザリア組も艦首に取り付き、安全な航路の確保に懸命だった。すいませーん忘れ物したのでUターンお願いしますとは絶対言えない雰囲気だ。船も自分の信頼も座礁する。
操船の邪魔にならなさそうな船尾の隅で、桐花はダラダラと心臓に冷や汗をかいていた。
ダルジ少将と戦艦を動員させて、拉致されて武器工場で交戦させて死傷者まで出た。大規模な軍事行動に発展してしまった船旅の原初の目的、樹脂の調査をきれいさっぱり忘れてたなんて。
心象風景そのままに空は暗雲に覆われ、海は不穏な風に煽られて大きな波頭を立てている。
これはさっさとおにぎりを消化すべきだと思う。失態がバレて回収されるのはイヤだ。そうだラウーが治療で多忙な間に0.6個を先にもらっちゃおうか。
でもおにぎりの具が違ったら、それぞれを分けなきゃいけない。正三角形を5等分ってどうやって? しかも具の入ってる中心部分を必ず含めなくちゃ。また鞠姐さんに幾何学の父ナントカって怒られてしまう!
「なぁに一人で爆発してんのぉ……」
甘ったるい声に脳内の三角形が溶解した。キャスは風に巻くモンブランケーキ色の髪をうざったそうにして、風上へ顔を背け細い眉をしかめている。
そうだった、と桐花は気と唇を引き締める。アダマスの人質発言に茫然とした隙に逃げられて、話が途中で終わっていた。
「あの。ダルジ少将のそばから離れた方がいいと思います」
「なぁにそれ、脅迫ぅ?」
眉間に世にも嫌そうなシワを寄せても美人は美人のままなんて、神様はえこひいきだ。
「いえ。武器工場が制圧されたので、捕虜や職人が移動するはずです。少将の周囲にいると見咎められるんじゃないでしょうか。アニキのワイフは反アダマスゲリラに加勢してたと分かってますから、きっと逮捕されます」
「やぁだ、何でそこまで知ってんのぉ……スワップだけと思ったのにぃ、もおぉ」
ピンヒールが最後尾のマストに苛立ちを蹴りつけている。「キャス=アニキのワイフ」まではバレてないと思っていたらしい。
「あいつとあたしは切れたのよぉ。いいじゃなぁい昔のことなんて」
「でも元の世界から持ってきた拳銃がありますよね。この世界では製造不可能なSF級の武器です。そんな危険物を隠し持ってダルジ少将のそばにいるのを見過ごすわけにはいきません」
「じゃぁあげるわよぉ」
気抜けするほどあっけなかった。キャスはハンドバッグから拳銃をつまみ上げると甲板に置き、ピンヒールの先で軽く蹴って寄越した。金属の野蛮な塊がくるくる回転しながら滑ってくる。桐花は慌てて飛びのいた。
「うふふん。危ない危ない。トリガー引くだけで撃てちゃうわよぉ」
そんなものをむきだしでバッグに突っ込んでたのか! 少将に事故がなくてよかった。
アダマス軍は銃火器を厳しく管理している。民間人が持っていれば不法所持だ。銃の受け渡しを目撃されなかったかとアタフタ見回したが、幸い戦艦乗組員たちの注意は前方に集中している。
桐花はこの船旅で肌身離さず、それこそ鬼の首に干されてた時さえ握り締めていたトートバッグの中を覗いた。英和、和英の二冊の分厚い辞書は鞠姐さん謹製ピーチパイの残骸にまみれてベットベトだ。でも収納場所は他にない。辞書に慎重に拳銃を挟んだ。
「少将を傷つけたりしないわよぉ。だーいじな、素敵な権力者さまだものぉ」
ぷるつやの唇は優勢を微笑んでいる。
「分かってるぅ? もうあたしたち共犯よぅ?」
身の危険を説けばキャス自ら姿をくらましてくれると考えたのに、甘かった。少将の愛人という豪華な椅子から降りる気はないらしい。
オリジナルの拳銃を手放してしまえば、キャスにはアニキのワイフだったという物的証拠は何も残らない。指紋鑑定法はまだないはず。武器工場の捕虜たちの証言など、他人の空似と笑い飛ばして済ませる計算だろう。
ダルジ少将の愛人が親ゲリラ武器商人の妻だったのも、スマラグダス大佐が国家的政略結婚した妻の出身詐称も、アダマスには大スキャンダルだ。国家に忠誠を誓った軍人二人の経歴は傷つき、キャスと桐花は居場所を追われるだろう。
ラウーのそばにいられなくなる。
背筋に寒気が走って、身を縮めた。
キャスが少将を傷つける気がないのなら、お互いが口をつぐんでいれば収まる話なんだ。気分のいい話じゃないけど、これが一番無難な解決法だと思う。
「分かりました」
「うふふ。そうよねぇ。なら、誓いの儀式しましょうよぉ」
「はい?」
するん、と身体を寄せてくるキャスは水中で餌をねだる熱帯魚に似ていた。ピンクのてらてらドレスの裾をひらめかせた魚にすり寄られ、桐花は思わず二歩三歩と後退する。腰が船尾の手すりに当たったところで、ピンクの熱帯魚はひらりと横に並んできた。
苦手な相手に密着されて落ち着かない。カバンを抱えてモジモジしてしまう。
「えーと、儀式って?」
あのねぇ、と微笑み大接近する艶やかな顔に目を奪われた。
パァンと乾いた音が何かなんて、腹部への衝撃でそれどころじゃなかった。尻餅をついて大きく揺れた視界にピンヒールの靴底が追撃してくる。ガンガンと腰を蹴られ、手すりの間から上半身が外へ抜けた。
「あらぁ。二丁あるって言い忘れてたぁ。ふふ、うふふ」
べったり塗られた唇が勝ち誇って歪んでいる。手すりの外へ見覚えのない拳銃が投げ捨てられていった。波間に沈んだ拳銃の後を追わせようと、ピンヒールの蹴りが容赦なく加えられる。
桐花は腹部を抱えて呻いた。
「この……嘘つきピラニア!」
後方で響いた銃声にびくりと跳ねた。
三本のマストと帆に遮られて船尾の様子は知れない。海面の注視を中断された乗組員たちとカルロは顔を見合わせた。
「艦長先生、あっち浅いよ」
チチチとさえずり続けていたロザリアが早口を挟んだ。暗礁探知から集中を逸らさない妹の成長に息を飲む。認められようと学問に励んだ二年間がグラついた。
「面舵二十度。副艦長、事態の報告を」
アイアイサー、と答えた副艦長が乗組員を二名選んで船尾へ向き直ったとき、下層に続く階段からスマラグダス大佐が飛び出してきた。軍医の白衣を羽織ったまま、手には弓矢を携えている。
誰より迅速に船尾へと駆ける上官の背を、カルロは迷わず追った。月天に抜かれた。ロザリアを船首に置いてきたようだ。負けまいと歯を食い縛り、長い甲板を走って船尾へなだれ込んだ。
トーカ女史が狂った。
としか思えない状況だった。女史はへたり込んで船尾の手すりにしがみつき、般若の形相でダルジ少将の愛人を睨み上げている。伸ばした手がぶるぶる震えながら握るのは拳銃だ。
狙われている金茶髪の女は硬い表情で、大きな胸の前でおろおろと手首をさすっている。靴のヒールが片方折れていてふらつくが、それでも健気に立っていた。怪我はないようだから銃弾は外れたのだろう。
「大佐夫人! 違法な危険行為です。ただちに武器を下ろしてこちらに渡して下さい」
副艦長の仲裁を女史は拒否した。ピンクのドレスの女を見据える目には明らかな殺意がこもっている。
何やってんすか、とカルロは頭をかきむしった。
スマラグダス大佐の妻、和平の花嫁が銃を無許可携行の上、あろうことか発砲、殺人未遂だとッ。大佐の輝かしき名誉に傷が! 間違いなく降格だ!
「殺されちゃうわぁ、助けてぇ」
すすり泣くドレスの女に副艦長は慌てふためいて、必ず助けますからとなだめている。泣きたいのはこっちだ!
「レオン副官」
渦中の女史にいきなり呼ばれて心臓が飛び上がった。危険な視線はドレスの女から外れていない。いつ撃ってもおかしくないと思える。はいと答えるつもりの返事は喉に詰まった。
「辞書あげます。翻訳に使って。それからわたしとラウーが結婚してないこと、証言して下さい。わたしが何をしてもラウーは無関係です。今からすることはわたしの意思で、わたし個人の責任です」
普段の情けない女史と同一人物とは信じがたい強烈なオーラに囚われる。心肺が冷えて腹へ落ちる感覚。頭をすっ飛ばした内臓のどこかが、これが命懸けの決意表明だと悟った。
空気がびんと張って肌を刺す。どれだけ胸を膨らませても息が吸えない。
「ラウー。ごめんね」
場に似つかわしくない、静かで柔らかい声が言う。
「ラウーの隣が良かった。けど、無理になっちゃったみたい」
大佐はゆっくり瞬きした。見間違いかと疑うほどのほんの一瞬、安らいだ顔をさせたのは何だろうか。重圧からの解放、天上の許し、待ち焦がれた慕情を与えられた者のような満ち足りた顔をさせたのは。
しかし即座に鋼鉄の軍人顔が戻る。
「桐花、落ち着いて私の提案を聞くんだ」
「イヤです。夫でもない人の命令は聞けません」
「そうか。月天、私の背後へ。マスクを作れ」
理解できなかった。
怪訝な視線が飛び交う中、月天が大佐の背後にぴたりと寄り添う。渡された白衣の袖を引き破り、二人の顔の下半分をそれぞれ覆って後頭部で緩く結んでいる。ぼそぼそと小さな会話が聞こえたが白衣が口と喉元を隠していて、カルロには発言者が特定できなかった。
意味が分からず戸惑う一同をよそに、大佐の声が響き渡る。
「トーカ、ならば私がその女を撃つ。おまえの制止は聞き入れない」
「トーカ、ならば私はおまえを撃つ。提案を聞くなら命は残してやる」
言い終わる時にはすでに白魔の弓が引き絞られていた。
ラウー・スマラグダス大佐は有言実行の男である。
副官ならずとも誰もが知っている。比較的や九割方などと半端な実現率ではない。大佐が突破すると宣誓すれば、百戦錬磨の兵士がこれも運命かと諦観を抱いた窮地さえ屈服させたと聞く。その判断は常にアダマス帝国軍に恩恵を捧げてきた。
しかし民間女性への狙撃宣告は忠実な大佐にあるまじき乱心だ。一人は総統のご子息ダルジ少将が寵愛する愛人、一人はネイティヴとの和平の象徴であるご自身の妻。
人道にもアダマスにも弓引く愚行だが、やると言ったらやる方だからやる。実行されれば降格どころか投獄もありうる。
悪夢としか思えない。なぜこんなことになったんだ! カルロは一世一代の怨念をこめ、狂乱の元凶を睨みつけた。女史の視線はドレスの女に据えられたままで、脇からの敵意など気付きもしない。
だが大佐の声は届いていたのが見て取れた。黒い瞳が動揺して唇も震えている。頬に涙が筋を作り、顎を伝い落ち、腿を打ってぱたぱたと音を立てた。
涙を追った先で違和感を覚えたカルロは片眼鏡をしっかりはめ直し、女史の服を凝視する。
かすかだが、白いワンピースに散る汚れは靴跡か? 破れている箇所もある。めくれた裾から覗く腿には擦り傷がつき、赤く腫れた内出血は少将の愛人の壊れたヒールと形状が似てはいないか。ヒールの破損は壊れるほど女史を蹴りつけたからか。
銃を構え圧倒的優位にある者が、そこまでの激しい反撃を甘受するだろうか?
傷ついた脚の脇に女史の布製カバンが落ちている。穴が開いている。焦げたような小さな穴だ。カバンの口から分厚い本がはみ出している。表紙に並ぶ金文字に妙な歪みがあり、何かがめり込んでいる。交戦後の武器工場で同じものを見た。盾に撃ち込まれて潰れた銃弾。
胸の隅で黒い違和感がもやりと大きくなる。カルロは副官の証である軍服の飾緒を握り締めた。
ドレスの女はまだおろおろと手首をさすっている。
仮にだ。
カルロは数学の文章題を解くときの客観的思考回路を引っ張り出した。
立ったまま相手の下腹に拳銃を押し付けると仮定した場合、手首は多少無理のある曲げ方を強いられる。その状態での発砲は衝撃により手首を傷めるのではないか。
不意打ちを狙って拳銃を相手の死角に隠そうとするなら、カバン越しの発砲はうってつけじゃないのか。だが分厚い本が鎧代わりに銃弾を阻むことは予想できる事態だ。襲撃する者がわざわざ防御の厚い場所を狙うのは道理に合わない。
つまり女史がカバン越しに発砲したなら、そこに頭の回らない壊滅的バカだということになる。あり得る。しかし仮にそこまでバカではなかったら? 女史が本を鎧代わりに使った、あるいは幸運にも鎧代わりになったのだとしたら?
毛穴という毛穴に氷が詰まった。
立ちすくんだまま見回した。副艦長と乗組員たちは少将の愛人へ痛ましい同情を、女史には警戒の視線を送っている。無理もない、女史には奇行の噂が多すぎる。
実際に奇特ではあるが、大佐に足る妻になりたいと願っていた眼差しは真摯だった。その女史が婚姻関係がないと告白し、こんな自滅行為に走るからには、切迫した事情が裏にあるんじゃないのか。
誤解ではないか。狂った女史がダルジ少将の愛人を射殺しようとしている、この解釈は間違っているんじゃないのか。誤った危険なシナリオが進行している予感がする。このまま取り返しのつかない事態が起きれば悲劇だ。
大気を固体化させる緊張の中、白魔の弓身がしなって軋むかすかな鳴き声がした。