15. 先入先出法といいます
「ソレがあったからぁ」
空に面した甲板から階段を下りると、砲列甲板と呼ばれる下層に出る。両舷には大砲が並び、階段裏の一角は間仕切られて医務室になっている。密会に適したその個室を覗いた瞬間、銃口と目が合ってしまった。
キャスと名乗った美女は桐花の上腕にあるBCG痕を銃口で指した。
「前にねぇ、近所に日本人が住んでたのぉ。何の真似かと思うじゃなぁい? 針の痕がいーっぱい並んでたらぁ。聞いたら日本式の予防接種だっけぇ? この遅れた世界にはないわよねぇ。うふふ。ないなぁい」
口角が勝ち誇っている。逆に桐花は唇を噛んだ。出遅れた。並行世界のトレード経験者だと、こっちが気付く前に見抜かれ待ち構えられていた。
「あらぁ脅してるんじゃないのぉ。だってぇ、あたしたちって敵じゃないわけだしぃ?」
拳銃は桐花を黙らせただけで満足だったらしく、ハンドバッグへ戻された。医務室の簡素なベッドですらりと肉感的な脚を組んで、キャスはうふんと微笑む。
「簡っ単な話じゃなぁい? しゃべんないの」
モンブランケーキ色の豊かな髪の陰で、青い瞳はとっぷりと甘さをたたえて見上げてくる。軍という男所帯に間借りしていた桐花は慣れない色気にあてられてくらくらした。ゆっくりした口調が催眠術的に思考を溶かそうとしてくる。
気付け薬代わりにラウーの笑顔を想像してみたら、あまりに虚しくてボンヤリから覚めた。
「それは……トレードだけなら誰も傷つきませんけど」
「トレードぉ? あースワップねぇ」
キャスは並行世界の交換で人が入れ替わるのをスワップと呼んでるらしい。
「言っとくけどぉ、スワップがバレたらヤバいのあんたの方よぅ。アダマスの人質でしょお? 民族の安全と引き換えの国家的政略結婚、有名よぉ」
どす黒い汚物をブッかけられたようだった。胃から嫌悪が逆流しかけるのを必死で我慢する。
信じられない。確かにラウーとの婚約は脅迫で始まったし、ネイティヴの人身御供かもしれない。でも何でそれをこの人に言われなきゃいけないんだろう。
「それがなーんの関係もない女だなんてぇ、バレたら死刑じゃなぁい? それを黙っててあげるって言ってるのよぉ」
まぶたをぎゅっと閉じても耳は閉じられない。甘ったるい声にざわざわと寒い鳥肌が立った。
「一緒に鷲に乗ってた堅物そーなのぉ、彼があんたの夫? あれ相手にハニートラップなんてまぁ可哀想、無謀だわぁ。うふん、頑張ってねぇ」
ピンヒールがゆっくりと脇をすり抜け、部屋を出て遠ざかる。毒を飲んでしまった気がして、桐花は何度も胸元をさすった。
着艦したスマラグダス大佐機から慎重に怪我人が降ろされる。
大佐は軍医の腕章を巻いていた。中隊の指揮権をダルジ少将へ渡して治療に従事、戦艦に傷病者を収容、帰港する旨が艦長へ告げられた。捕虜は満潮に合わせて別の艦で運ぶ計画だそうだ。
担架に移された受傷兵の足は応急処置を施されているが、軍服を染めた血が生々しい。カルロは傷に視点を合わせない努力をしながら担架の足側を持ち上げた。もう片方を持ち医務室へと先導していた大佐の早足が急に止まる。
「診せろ。……では用件は何だ」
厳しい問いかけを医務室内の誰かへ放っている。戦艦の狭い通路からは先客の姿が確認できない。
「何があった」
続く質問はさらに厳しかった。いや、あれは質問ではない。何かあったことは察知し前提にして、何があったのか? 話せ、という二段階を一つに凝縮している。
「ハニートラップって何?」
トーカ女史の声だ。弱々しい。あんな声は二食続けて飯を食い忘れた時しか聞いたことがない。
「主に女スパイが性的な手段で敵を籠絡することだ」
「……はふっ」
妹を持つ身として聞き覚えのある吐息だった。泣きたさを押し留めていた緊張が切れ、詰めていた息と涙とが決壊する瞬間。男を無条件に面倒か焦燥あるいはその両方へ追い込む瞬間だ。
しかしさすがスマラグダス大佐。振り返ったのはいつもの理知的な、我が副官生命を預けるにふさわしき冷静沈着な表情だった。
「レオン副官」
そして数々の難局を服従させた指導者の唇で、短く合理的な命令を下すのだ。
「担架を持っていろ」
一人でどう持てとーッ!
この担架は隠された台を内蔵しているのか? いや二本の棒に布を張ってあるだけだ。戦艦には担架の片方をチョイ置きしておけるシステムが装備されているのか? 需要低すぎるだろうそれは。衛生兵なら必ず知っている、一人で担架を持つ画期的方法があったりするのか?
返事に窮してモタモタしていると大佐方面からイラッとした気配が攻めてきて冷や汗が噴き出す。
すると担架に乗っていた患者が寝たままビシッと敬礼した。
「直ちに夫人の元へ、大佐! 担架なら自分で持ちます!」
自分でどうやってー!
感謝する、すぐ戻ると答えて大佐は担架を離した。カルロは慌ててしゃがむ。患者は受け身を決めて床に軟着陸し、グッと満足げな親指を立てて見せた。
こいつには大佐の合理性が理解できているのか? 自分には分からない、どういうことだ!
「桐花」
叱るように名を呼ぶたった一言には四段階が凝縮されていたように思える。どんな文脈で言われたのか? 誰が言ったのか? 話せ。私の時間を浪費させる気ならば涙腺を結紮するぞ。
しかし答えはなく、押し殺した泣き声だけが聞こえた。
「肩の歯形はダルジ少将だな。経緯は」
「アリの話をされて、いきなり噛まれた」
続く沈黙が大佐の理解の苦しみを語っていた。合理性の神も泣いている。おいたわしい。
「いいか」
呻きより地響きに近い震動がして、カルロの膝が笑い出す。
「ハニートラップの仕掛け人としておまえ以上の不適任者がいないことは、はらわたが煮えくり返るほど私が熟知している。むしろ逆だ」
聞き耳を立てていた担架上の兵士がムハーと身悶えた。
「ハニートラップを仕掛けているのはむしろ私だ、と……大佐、熱いです!」
兵士の小声の歓喜にカルロは小声で猛抗議する。
「勘違いも甚だしい。大佐はむしろ嫌悪ばかりを感じるとおっしゃっているのだ!」
「おまえは知の時代の娘だ。雑音に惑わされずに仕事に専念しろ。そして」
地鳴りが囁く。
「桐花・スマラグダスに会わせろ。早く」
「早くアダマス本土に戻って来いと……大佐、愛が燃えてます!」
「違うッ。速やかに大佐夫人たる人格を形成しろとおっしゃっているのだ!」
カルロの主張を裏付けるように、医務室からはハイィと怯えて涙も止まったような返事が漏れてきた。
廊下の担架に怪我人が横たわっていて、桐花は治療の邪魔をしていたことに気付いた。ごめんなさいと繰り返す。怪我人は必死に上半身を起こしなぜか感激の面持ちで手を握ってきた。
「アダマス軍立病院や隔離病棟での伝説のエンターテイメントをここで拝見できるとは。怪我の功名とはこのことです!」
病気や怪我をすると現れる疫病神みたいな言われようだ。
「ムハァうらやましいです大佐、こんな可愛い夫人の甘く熱ーいハニーポットにハメまくっウゴッ」
「鎮痛剤が不足している。代替手段を用いた」
軍医の手刀を延髄にブチ込まれた怪我人が医務室に搬入される。処置の妨害をしちゃいけない。場を離れようとしたら呼び止められた。手動麻酔したバイオレンス軍医が包みを投げて寄越した。
「鞠という名の日系人女性の切創は縫合した。全治二週間だ。謝礼を押し付けられたが不要だ、処分しておけ」
そうだ鞠姐さん怪我してたんだ! 無事だったんだ手当てしてくれたんだ。
ありがとう、と言う前に医務室のドアを閉められてしまった。ドア越しにありがとーと叫んだら霧笛に消された。もうすぐ出航するらしい。もう一度ありがとーと絶叫しておいた。
階段を上がった甲板では朗々と響く艦長の指示に従い、乗組員がキビキビと帆の調整にいそしんでいる。空にはいつの間にか雲がもったり垂れていて、限界まで湿気を抱えた風が乱暴に髪をなぶっていく。打ち据えられた帆がばたばたとわめいた。
ハニートラップって何? スパイが性的な手段で敵を籠絡することだ。
可愛くないと自覚しててもブスと言われれば傷つくのと一緒だ。偽装結婚も新婚パフォーマンスも、自分で言うから耐えられた。安全と引き換えの国家的政略結婚でアダマスの人質。和平の象徴たる花嫁という美辞麗句だって裏を返せばそういうことだ。
だけどわざわざ嫌味ったらしく言わなくてもいいじゃないかー!
しかもその人質が性的手段で生き延びようとあがいてる、そんな見方をする人がいたなんて。
いつもならちょっと驚いてちょっと怒って流せたかもしれないけど、タイミングが悪かったと思う。
単なるホームシックを「ここより元の世界がいいのか」みたいに言われて申し訳なくて不安になって、トレード仲間と思ったアニキは死んじゃってがっかりして、そしたらトレードしたのはワイフでキャスで驚いて。
でもキャスは意地悪だった。何だよーあのせいぜい頑張りなさい的な上から目線! 色気も胸もたっぷりだからってー。反論できないけどっ!
そうやって感情がぶんぶん振り回されてたところに、ハニートラップ扱いが来た。
ラウーが誠意で提供できる最高の待遇、妻。それを不純な行いで盗み取ろうとしてるみたいに。そんなつもりないのに。そんなんじゃないのに。そんな方法で欲しくはないのに。行き場のない悔しさが涙腺で暴れた。
うんでもあの不適任発言は怖かった。だよね。激しく迷惑と苦労ばかりかけてる、ハニーの一滴もないただのトラップだもんね。はらわたも煮えくり返るよね。涙も速乾したよ。アロンアルファもびっくりだよ。
とにかく怒られて我に返った。乙女の涙をくだらない、仕事しろと叱りつける冷血にも慣れなくちゃね。
冷血といえば、と桐花は手元の小さな包みを見下ろした。ラウーが押し付けられた、不要だ、処分しろと投げ付けてきたもの。患者さんの感謝をヒドい。ラウーを英雄視してた鞠姐さんの好意をヒドい。
中身を覗いてもいいよね。ほら処分するにも分別とかあるし、と口実をつけて開けてみる。
現れたのは白い三角形だった。竹皮に守られたおにぎりはつやつやと輝いていた。乱暴に扱われたのに形を保っているのは、きゅっと大事に握られたから。お米の甘い匂い。海苔の香りが潮を呼んで、涙が溢れてきた。
日本文化が恋しいか。ここに留まる理由よりも、望郷の念の方が強いのか。
尋問みたいな事務的口調が歓迎できない事態だと明言していた。助手兼妻にホームシックで帰国されたりしたら大損失だから。ラウーには契約書や「ここで生きてたいです」発言を振りかざして、望郷など無駄だと論破する方法もあったのに。
だって包みを捨てるつもりなら捨てればいいんだもん。海にでもゴミ箱にでも。わざわざ投げ付けてくるなんて、くれたとしか思えないよ。ラウーは中身が日本食だって知っててやったんだよ。何でも与えるって約束を守ってくれたんだ。
医務室の扉の前に駆け戻り、遮られた向こう側へ叫ぶ。
「ラウー、ありがとう! ありがと! ありがとー! 一緒に食べようね。レオン兄妹と月天と分けようね。三つを五人で分けると一人何個? 数学得意な人が等分してね!」
「医者の手元を狂わせたいなら叫び続けていろ」
「ムハー、大佐が笑っ……うらやましいです、今夜は大佐の手元でなく息子が暴れ狂うギャアア痛いです大佐お手柔らかにィィィ」
ハニートラップなんていわれのない悪意は気にしない。頑張ってれば見てる人は見てくれてる。たとえたった一人でも、その一人がラウーであることが大切!
ボーゥと霧笛が鳴り響き、アマゾナス河口の滝がゆっくり旋回していく。気付いた大切さを胸に抱き、徐々にスピードを上げて離れていく瀑布を眺めていて、大切な何かを忘れていることに気付いた。記憶の糸を手繰って戦艦に乗った目的を思い返してみる。
一つ覚えたら一つ出て行くなんて、本当に脳の容量に問題があるんじゃないだろうか。
日系人村で製紙用樹脂のこと聞くの忘れてたー!




