36. 白魔の赤い魔方陣
注意一秒、怪我一生。
幼い頃から慣れ親しんだ交通標語を、バスルームの石の天井を見上げながら、桐花はぼんやりと思い返していた。
隔離病棟の元入院患者たちからのプレゼントである桐の生垣。全ての寄贈者名を確かめたかった。もう日が暮れてきていて、ランタンでメッセージと名前の書かれたプレートやリボンを照らした。
そんな暗さだから気付かなかった。
「下がれ!」
緊迫したラウーの警告も間に合わなかった。桐の木の根元から不意に褐色の縄が飛んできて、肩口に絡みついた。
ランタンが地面に落下して光と影が激しく揺れ動いた。太陽が暴れるような混沌とした視界の中で、ラウーが縄を叩き落とし、帯刀していたナイフで地面へ串刺しに貫くのが見えた。
「噛まれたか?」
ナイフに撃墜された縄はうねうねともがいていた。黄褐色の胴体に黒い縞模様、三角形の頭、縦に切れた不穏な瞳孔。普通、縄にはそんな装飾も動力もない。
蛇だった。
噛まれたかどうか、目で確認する必要なんてなかった。右肩の激痛が雄弁に叫んでいた。痛みが血管を焼きながら広がり始めた。
返事するまでもなく、視線が合っただけでラウーは答を知ったようだった。
ラウーの行動は早かった。
桐花とランタンと蛇の死骸を抱えてバスルームへ駆け込む。肩より心臓に近い場所を押さえる。咬み傷を洗い、口で強く吸っては毒を吐き捨てた。
咬まれた場所はすでに腫れ始めていた、そこに生まれた小さな点に桐花は見覚えがあった。
「発疹……」
ボル・ヤバルでの最初の朝に首や胸元に現れた発疹と同じだ。
バスルームの冷たい床に転がりながらラウーを仰いだ。懐かしい構図だと、場違いなことを思った。初めて会った時もこんな風に、よく回らない頭でラウーの瞳を見ていたっけ。
「発疹ではない。内出血だ」
茶と翡翠の瞳は真剣だ。傷から胴体へと毒が流れるのを阻止しようと胸元を押さえてくる手の圧力が増した。毒とラウーが交戦する戦地へと視線を転じた。ラウーの唇の下に生まれた内出血はすぐに赤紫色の腫れに飲み込まれていった。
なんてタイムリーなんだろう、と桐花は思った。
ヴィルゴットのために毒や伝染病の翻訳をしたばかりじゃないか。日常会話でさえ辞書片手に四苦八苦なのに、医療情報を訳すのはひどく苦労した。間違えてはいけないから、内容を覚えてしまうほど何度も何度も推敲した。
だから自分に何が起きたか分かった。これから何が起こるかも知っていた。どう処置すべきかも覚えていた。さすが軍医、ラウーの初期治療は的確だった。
でも吸い出しきれなかった毒が哄笑しながら焼け付く痛みをばらまいていた。血管が痛い、という感覚を初めて味わった。皮膚のもっと深い場所での、細胞が縮みひきつるような痛みだ。
ヴィルゴットが開発中の無害な毒とは狂暴さがまるで違う。心までねじれさせる。
「ハブって、こんなところにもいるんだね」
百科事典でも医療事典でも写真を見ていたから自信があった。クサリヘビ科と呼ばれる由来でもある独特の鎖状の模様はマムシやハブのものだ。
少しでも痛みから気を紛らわせたくて、何とかしゃべった。
「草木のない都市部は生息に適さない。加えてあれはボル・ヤバルの固有種だ」
ラウーは気休めを言うつもりはないようで、あっさりと認めた。
毒蛇はバスルームの端で緩慢にのた打ち回っていた。ナイフで息の根を止められたのに、筋肉はまだ活動している。精力剤になるわけだなぁと桐花は妙に感心した。
「桐の木についてきちゃったのかな」
「樹上性ではない」
やっちゃった。
アダマスにいないはずの、木に巻きつく性質のない毒蛇が、桐花が必ず近付くであろう場所に潜んでいた理由なんてひとつしかない。
「ごめんなさい……」
自衛しろって言われてたのに。武器を持った暗殺者がのこのこ姿を現して殺しに来るだなんて、どうして思い込んでしまったんだろう。こんなクラシックな方法は忘れてた。
「私の責任だ」
違う、と言いかけたところで息苦しさに邪魔された。ラウーが毒の侵入を阻むために胸元を押さえつけてくれてるけど、それとは異なる肺の圧迫感。
ハブの毒は激痛、腫れ、皮下や内臓の内出血を起こす。蠍やフグのような神経毒と違って出血毒と呼ばれるこのタイプの毒は死亡率が高いわけではない。
が、死に至るケースはある。
桐花は翻訳した出血毒の項目を思い返した。
咬み傷を中心に大きく腫れあがるため、手当てが遅れ組織が壊死した場合は手や足の切断など、重度の後遺症が残る。まさに注意一秒怪我一生だ。
さらに咬まれたのが首や胸だと、壊死以前に腫れのために心臓や呼吸器官が圧迫されて窒息してしまう。
クレオパトラは毒蛇に乳房を咬ませて自殺したと言われている。その蛇の毒が致死率の低い出血毒タイプだったとしても、心肺に近い乳房を咬ませれば死ねる可能性を高めることができたんだ。なんて賢いんだクレオパトラ。
自分が咬まれたのは肩だけど、これってセーフ? でも息苦しいのは肺が腫れてきてるって証拠だったりする? どうなのどうなの?
「おまえがヴィルゴットに渡した、毒と伝染病に関する翻訳は私も目を通した」
ラウーが空いている手で顎をつかんできた。ぐいぐいと調整され、無残に腫れあがった患部から視線を引きはがされてしまう。
代わりに視界を支配した異色の瞳は恐ろしく凪いでいて、静かだ。鷲に二人乗りして蛇穴特攻させられた時もこんな眼差しをしてたっけ。つまり、重大な局面。
そんなの理解しちゃうほど対ラウー経験も蓄積されてたらしい。
「ラウー」
激痛の範囲は広がり、肺の圧迫感は強まり、刻々と毒に侵略されているのが分かる。症状を伝えなくても異常な腫れ具合の進行を見れば、毒の優勢は誰にだって分かるだろう。
なのに軍医は決戦に臨む目をしたまま、それ以上の手を打とうとしない。
だから訊かずとも答えは知れた。
「まだ、ここに血清の技術はないんだね」
「そうだ。だから私が引導を渡してやる」
は?
ノーの答えは予想してたけど、後に続いた物騒な台詞は何ですか?
聞き間違いかなーなんて楽観的希望は、ラウーがどこからか取り出した小刀で砂粒並みに打ち砕かれた。胸元を押さえて毒の防波堤となっていた手は、ゴツい軍靴の底に差し替えられる。
そうやって空いた両手でワンピースの胸元を引き裂かれた。
ギャーと叫びたくても肺が苦しくて、せいぜいカハッと不発な息が漏れるだけ。
蛇の毒で窒息しそうな乙女を文字通り踏みにじった挙句、とどめを刺すつもりですかっ?
うわラウーってば何を始めたんだろう、小刀使って自分で自分の指先切ってる、その指で晒された胸をなぞってくる、刺す場所に目印でもつけてるの? 魔方陣? あるいは死化粧とか?
待て待て、まだウネウネしてる蛇を腹に安置してきたりして何の儀式? 白魔のくせに黒魔術的な、とにかくへんたーい!
アダマスの葬式はこんな気味の悪いものだったのかー! アイヤイがアダマス軍式の葬式を嫌がるのも当たり前だ!
飛び起きて逃げたくても踏みつけられてて動けない。
「苦痛を長引かせたいなら暴れていろ」
軍人による一瞬の刺殺で比較的安楽に死ねるとしても、服を破られ蛇の死骸を載せられた変態的死に際よりも、尊厳ある窒息死を望みます!
「桐花」
尊厳死を却下する氷の視線が見下ろしてくる。瀕死の乙女を足蹴にし仁王立ちする姿が似合いすぎる!
「何でも与えると約束した。自由をやる」
抵抗を忘れた。
「助手の契約と婚姻を破棄する。おまえは私を愛していない。ゆえにおまえを束縛するものは何もない」
咬み傷の激痛は忘れられない、でもどうでもよくなった。
どうして?
一瞬で脳が真空になったみたいだった。思考が動けない。もったりと分厚い宇宙服にまとわりつかれて、上も下もなくふやふやと迷走しだす。
どうしてそんなこと言い出すの。あれほど強引に確保したがった助手なのに。
死ぬ前だから解放するの? 死刑執行前に許されるタバコみたいに?
それに、なに?
おまえは私を愛していないって、なに?
「……これ以上、時間を浪費させるな」
無情な通告は、酸素の供給を停止しますと機械的に読み上げるアナウンスにも聞こえた。
ラウーがゆっくりと右手の小刀を構えた。指先から伝った血が刃の先からぽたり、ぽたりと滴っている。下からランタンの灯に煽られる、異色の瞳に宿る凄絶な光が桐花の背筋を凍らせた。
「行け!」
微塵の迷いもない刃が振り下ろされる、ひゅっという風切り音に思わず目をつぶる。
そのまま痛みか、衝撃かが来るのを待った。
でも違った。
「ギャアアアどうしたのトカちゃん!」
聞き慣れた声が絶叫する。
「やだ怪我してるの? 大丈夫なのトカちゃ……桐花ちゃん?」
聞き慣れた母の呼び声がする。
「桐花ちゃん! 待ってねすぐ救急車呼ぶから!」
電話のボタンの電子音。テレビがニュースを伝えている。救急車のサイレンが近付いてくる。どかどかと急いた複数の足音が駆け寄ってくる。
その中にあの尊大で横暴な、けれど頼もしくてどうしようもない足音がないのが悲しかった。