35. 花咲く夜
予防接種の効果を立証するための軍医による強制密着二週間は、ポリオを発症することなく無事に終了した。
謎の発疹が出たが、あれもボル・ヤバル滞在初日の翌朝だけだった。三日目にヴィルゴットに焚いてもらった虫よけの燻煙が効いたんだと思う。
「ユピテライズした巨大猛毒スズメバチを一掃した実績ある配合でございます」
ラウーの部屋にありったけの軍服と装備を吊るし、窓と戸口を目張りして、害虫退治に有効だという薬草を焚きしめてもらった。作業代は小切手買取価格に上乗せされた。白紙の小切手に上乗せしたって白紙であることに変わりはないんだけど。
燻煙が終わる頃に部屋へ向かうと、階段の風通しのいい場所で白ローブがグッタリと涼んでいた。目張りは外され、役目を終えた爽やかで苦いような煙が風に運ばれている。
「終了でございます」
ヴィルゴットは息も絶え絶えだ。バナナの葉で作ったうちわで扇いでやった。
「大丈夫? 暑いもんね」
「否。熱帯の風も凍てつかせる氷の視線に恍惚としております。人身大のノミが一匹、睨んで行ったのでございます」
「ええっノミまでユピテライズしてんの? キモッ! どこっどこに逃げたのっ」
スズメバチを退治した煙も効かないノミとは一体どんな体力バカなのか!
こわごわ室内を覗いたが、不機嫌そうなラウーが窓の目張りを蹴破っているだけだった。怪物ノミの行方は知れないが、幸いにして誰からも被害は聞かない。どこかで息を潜めているのだろう。
アダマス帝国軍ボル・ヤバル駐屯地におけるポリオは終息を迎えつつあった。軽度の麻痺が残った者、ポリオより怪我がひどくて亡くなった者もいたが、全体として予後は悪くない。
看護法と衛生管理の冊子がまとめられ、軍と民間両方の病院へ配布されるにあたって、軍医としてのラウーの駐屯も終了した。
ラウーと同時にダルジ大佐も昇格して少将になったそうだ。ボル・ヤバル統治にはそのダルジ少将があたるらしい。補佐役になったという生真面目そうな大尉がすがりつくような目で追ってくるのをバッサリ振り切り、ラウーは帰途につくべく軍鷲にまたがった。
不本意ながら夫人である桐花はスマラグダス大佐の鞍に同乗すべきだ。が、ヴィルゴットの同乗者をめぐって帰還予定兵が前線に赴くかの悲壮な顔つきで抽選を始めるのを見て、今回も立候補せざるを得なかった。
軍鷲の編隊はV字を描き、アダマスへと続く青い海を悠然と見下ろしながら滑空する。
海の色が濃さを増し、風の含む太陽熱が和らぐと、それまで塩盛りナメクジのようにげっそりしていた後部座席のヴィルゴットがやや生気を取り戻した。
「大蛇を退治して、岩山の氷穴にラボを移したらどうかな。暗くて涼しくていいんじゃない?」
「魅力的な案でございます。ですがその立地ではうっかり犬を放し、無作為に実験体を得る計画が頓挫いたします」
街の人で合意なく強制的に人体実験してるってことじゃないか! 全然うっかりなんじゃないぞ!
あれっそんな被害には身に覚えがあるような……。
「それより」
「それより、で流していい話題じゃないと思うんだけどっ」
振り返ったら、まつ毛も眉毛も倫理もないヴィルゴットがにっこりと神父笑顔で出迎えた。
「我が内には、我が主の命令に背く企てがございます」
面倒ですから単刀直入に申し上げます、という不遜な一言で始まったヴィルゴットの話はこうだ。
自衛しろ。
アイヤイを奴隷に使役していた武器商人、カジヤベから火器を購入した人物は、アダマス帝国軍内に潜んでいる可能性があった。
「カジヤベと直接取引した人物から芋づる式に拷問……失敬、聴取しておりましたが、動きを悟られたようでございます。軍の厩舎への強行着陸などという騒動が起きなければ、内密に事を運べたでしょうに」
これっぽっちも悪気を感じさせない爽やか笑顔で嫌味を言われた。
ヴィルゴットが拷問……聴取して吐き出させた次なる容疑者は、逮捕する前に殺害されていた。この黒幕の口封じにより、芋づるは断絶した。
「そこで我が主は、自らのお命をおとりになさったのでございます」
ボル・ヤバル前政権を独裁していた女王を捕縛する際、ラウーは女王を全裸にし、剃髪させ、体の隅まで調べ尽くした。女王としては死よりもはるかに屈辱。
「あれは我が主にとって、敵に対し常に行う武装解除に過ぎません。体のどこにどんな暗器を仕込んでいるか。我が主は傭兵の武器の多様さから些細なこともあなどらず、武装解除を徹底的に行います。相手が老人であろうと婦女であろうと無関係でございます」
桐花も初対面のボディチェックで裸になれと言われた。実にやりかねないと頷く。
けれど、そうと知らない者には、ラウー・スマラグダスが女王を辱めたと同義。
女王は取り巻きから熱狂的に崇拝されていたそうだ。洗脳して非道な、命知らずな任務をさせて成立した独裁国家だった。アダマス帝国軍に潜む内通者も女王の信者となったに違いない。
ラウーは辱めと曲解できる武装解除の様子を帝国軍に流布させた。その行為に激昂し、報復を仕掛けてくるであろう内通者を迎撃するつもりでいるらしい。
ところがラウーの身内・桐花に残した護衛のアイヤイは少々頼りない精神状態。
そこへ伝書鳩が届き、ヴィルゴットは思いついた。この機に乗じてむしろ桐花を隔離病棟に幽閉してしまえばいいではないか。伝染病を恐れる暗殺者なら近付けないし、何と言ってもラウーがいる。
事後承諾だが、ヴィルゴットはこの案についてラウーの了承を得た。しかし病をも恐れぬ狂信的暗殺者が隔離病棟へ入り込む、あるいはすでに潜入されている可能性があった。
「そこで大佐夫人の披露が行われたのでございます。我が主の強気な賭けでございました。目的はまず、注目されることで暗殺の機会を減らすこと。そしてあの披露の瞬間に冷静でいた者を見分けることでございました」
上官の昇進、そして冷酷無比の代名詞ラウー・スマラグダスの結婚。これを歓喜も驚愕もないさめた眼で迎えるのは、心の内でラウーを標的と定めている者。
告知の一瞬でラウーは一人の兵士を見出し、監視を重ねて裏切り者と断定したという。
「合併症を併発して死亡したことになっているその患者は、我が毒と共に糞便処理場に沈んでおります」
そうやって始末した一人も氷山の一角に過ぎないでしょう、とヴィルゴットは淡々と嫌なことを言う。
「ヴィルゴットさんが予防接種や翻訳のマズさにかこつけてわたしの周りにウロウロしてたのは、警護してくれてたからだったの?」
「暗殺されて痛んだ献体は使いづらいですし、予防接種事業の利益を失うのも痛手でございます」
ここまであけすけに下心を明かされるといっそ楽だ。自己の利益や保身が理由かと嘆くのもそろそろバカらしくなってきた。
「隔離病棟から出た今が暗殺者には絶好の機会でございます。警護がいても自衛していただくのが最善」
「気をつける」
「我が主は、夫人を警護せよと命じられました。ですが暗殺者の狙いは二人。我が主とその夫人。人の掌がすくえるモノは有限でございます」
理解を促すような一拍の沈黙。
「あ、そうか」
分かってしまった。ラウーを尊敬しラウーに従う傭兵が唯一、ラウーの命令に背く条件が。
「ヴィルゴットさんは、いざって時はわたしよりラウーを助けるのを優先するってことだよね」
「ご明察にございます」
返事は明瞭で迷いがなかった。
なんか新鮮だ。順位や主役を決めるのを良しとしない風潮さえある桐花の世界ではそうそう味わえそうにない、明確な順位付け。
ヴィルゴットは科学者でもあるけど、傭兵。一瞬の判断が生死を分ける。だからこそ優先順位を定めておく必要があるんだろう。
しょうがない。心細い、でもヴィルゴットの言い分はあまりに理解できてしまう。ヴィルゴットが毒で侵してしまった故国を救う希望は、ラウーにしか見出せないのだから。
わたしが元の世界から持ってきた毒に関する知識はもう翻訳してヴィルゴットに渡してある。その中に彼の求める解毒剤の答がないのなら、わたしには利用価値がないのだから。
故国を清める目的の前には、予防接種のライセンス生産による実利など小さなものなのだろう。
「うん、当然と思うよ」
のしかかる心配と不安と、少々のさびしさ。
それ以上に黒く暗くたちこめるのは虚しさ。
昇進と結婚を報告したときの総員での敬礼は、桐花の胸を打った。なのにあの瞬間、ラウーは暗殺者を見分けようと軍人のレーダーを研ぎ澄ませていた。
落胆のため息をつく。
いくらため息を吐き出しても、胸の暗雲は排出されてくれなかった。
アダマス帝国軍基地へ帰還するなり、衛生本部のお偉いさんに感謝状を授与されてしまったり、佐官や将官の奥様方による怒涛の挨拶に目を回したりして、解放してもらえた頃には日が傾いていた。
ラウーと並んで屋敷へと向かう。
基地内を連れ回されたせいで、すれ違う兵士という兵士に戦勝、昇進、結婚を祝福されてしまった。ラウーは涼しい顔で受けていたが。
あんなに大人数に祝われてしまって、今さら「不必要なので結婚やめちゃいましたー」なんて状況に持っていけるわけがない! そういう心理にさせるラウーの戦略?
でももしかして連れ回しながらまた暗殺者選別してるのかもしれないと思うと、屋敷へ戻りたいなんて言えなかったし。
ラウー・スマラグダス大佐にとって結婚は、助手の保護と敵対者選別装置。文明を守り帝国のために命を張るのは立派だと思うし、協力もしたいけど。
結婚をそれに使って欲しくはなかった。
外そうとすると肉がはがれる、肉付きの面なんて怖い言い伝えがあったっけ。これはまるで心付きの面。妻の仮面を着けるのも持て余す、外そうとすれば心が痛む。
交互に機械的に進む爪先をぼんやり眺めながら歩いた。
空中都市であるアダマスの地面は石板が敷き詰めてある。階下の海面を住居とするネイティヴに配慮して、陽光を通すよう水晶で作られている部分もある。
その水晶の地面が夕焼けを含んで柔らかな暖色に光り、滑走路のように家へ続いていた。
石造りの空中都市で見られないもの、草木。なにしろ土がない。緑溢れるボル・ヤバルから戻ってみるとアダマスの季節感のなさ、人造感とも言うべき硬質な無機質さが目立ったりするのだが。
そのあるはずのないものを前にして、足を止めた。
桐花はラウーの屋敷をぐるりと取り囲む木々に呆然とする。二週間前にこんな生垣はなかった。
木々は土を入れた石製の巨大プランターに植えられている。天の恩寵を抱き止めようとする腕みたいな大らかに開いた枝、濃い緑の丸みを帯びた葉、百合がそっと身を寄せ合ったような薄紫の花。
それらは全て桐の木だった。
「どうして……」
道を間違えたかときょろきょろする。周囲は見慣れた家々だ。
「私が運ばせたのは、隔離病棟の庭にあったこの一本のみだったが」
玄関のアルコーブのすぐ脇にある、樹形のひときわ整った一本を仰ぎながらラウーが言う。
「でも十……二十本以上はあるよ?」
「隔離病棟を退院してから聞きつけた兵士が次々と、桐の木を探して掘り出しては植えに来たそうだ。基地では桐の木を担いだ兵士が毎日のように帰還するのがミステリーとして語られていたようだ」
よく見れば、木々の枝にはプレートが下がっていたりリボンが結んであったりした。
『トーカ・スマラグダスさまへ感謝を込めて』。『スマラグダス大佐夫妻のご結婚を祝して』。続く寄贈者の名前には覚えがあった。隔離病棟の入院患者たち。
一本一本に添えられたメッセージを確かめながら屋敷の周囲を歩いていく。ボル・ヤバルでの二週間のうちに顔なじみになった兵士たちの顔が脳裏へ鮮やかに蘇ってくる。
ラウーは黙って背後をついてくる。
昇進と結婚を告知したとき、ラウーには思惑があったかもしれない。それでも暗殺者一名を除いた兵士たちの敬礼は本物だった。こんなかさばる荷物を鷲に載せ、ボル・ヤバルから遠路はるばる謝意と祝福を届けてくれたのだ。
気落ちしたりしちゃダメだった、と桐花は自分を叱る。
どうしよう、胸が熱い。目が熱い。プレートを確かめる指が震える。
本の受け売りをしただけでこんな感動をもらえるなんて、悪い癖になってしまいそう。
「私は、おまえの父親の代わりにタンスを作ってやることは出来ない」
背後から凪いだ静かな声がする。
「だがおまえは『わたしの家には桐の木があった』と言った。おまえは私の妻だ。おまえの家はここだ」
だから、桐の木を植えてくれたの?
ここが居場所だと実感させるために?
脅迫でも命令でも財力でもないこんなやり方、ラウー・スマラグダスらしくない。唇や指先が優しくて温かいのは、心とは真逆だって驚いてたはずだった。
『おまえは私を、ここに留まる理由にしろ』
あの言葉が、助手の約束を指しているんじゃないと思えてくる。
ラウーの微笑も幻じゃないのかもしれないって。
「ありがとう。ほんとに」
桐の木肌を撫でる。
「わたしね。服も家も、息をして吸う空気まで、こっちの世界は全部借り物だと思ってた」
旅行先で泊まるホテルみたいに。
手に出来るなんて考えてみたこともなかった。
「でも、いてもいいんだって気がしてきた」
「今日がどんな夜か知っているか」
不意に不思議な問いを投げられて振り返る。
夕焼けはどんどん明度を落として紺色の闇に空を明け渡そうとしている。ラウーの表情は桐の葉と建物の影になって見えない。
「禁の解けた夜だ」
禁。軍医の拘禁?
そっか、予防接種の効果判定は終了した。今日からベッドで自由に寝られるんだ!
「うん、知ってる。嬉しい」
ボル・ヤバルでの抜き打ち婚姻発覚から二週間。その間に細くなった月を背負うラウーから、有無を言わせぬ濃密な気配が漂ってきた。
第三部ボル・ヤバル編、終了。
お付き合いくださった方々、ありがとう!
次の第四部で完結してもいいかなーと思ってるんですが、あれースマラグダス八鬼神がたったの二人しか・・・・・・!




