34. 放電できない電気椅子
「ボル・ヤバルはトロナ鉱石という良質のソーダ灰、すなわち殺菌剤を豊富に産出する」
はぁ、と鼻をつまみながら半分ため息で桐花は答えた。
「トロナ鉱石の活用によって、ボル・ヤバルの風土病とも呼ばれるポリオを劇的に沈静化させることが可能だろう」
はぁ、と目を背けながらほぼため息で桐花は答えた。
「おまえの翻訳によるとポリオは主に感染者の糞便から伝染する。ゆえに隔離病棟の糞便はソーダ灰で殺菌処理させている」
それでなぜ、わたしがその鼻の曲がる糞便殺菌処理場を見学させられているんでしょうか。
隔離地帯の隅では病棟から搬出される排泄物にソーダ灰をぶっかけて殺菌し、作業に従事した兵士は処理後に衣服を焼却するのだそうだ。
ラウー・スマラグダス大佐は、処理の完了した糞便がたまった大きな穴の縁に立って衛生管理の説明をしている。
宮殿の影に切り取られた月光はスポットライトのように明るい。この世界の月は大きい。満月に近い夜ともなると日没前後くらいの明るさがある。それが眠い目に痛い。
勝手に、いやラウーによると勝手ではないらしいのだが、勝手に婚姻届を出されてしまって怒っていた。ラウーの部屋の隅にクッションを寄せ集め、そこで丸まって寝ていたら、文字通り担ぎ出されてなぜか糞便処理場を見学させられているのだ。
「おまえは予防接種の効果を立証しなければならない。有効ならば予防接種は国家的事業となり、莫大な予算を準備する必要が生じる」
ワクチンを守銭奴ヴィルゴットがライセンス生産するとしたら、当然な話だ。
「つまりおまえをポリオ感染源に曝露するのは軍医としての使命だ。私から離れて就寝したいのならば、最も効果的な感染路であるこの糞便プールで」
「いやぁぁぁ! 抱いて寝てー!」
近辺を巡回していた兵士が急に不自然な方向転換をし、早足で立ち去った。
深夜の隔離病棟に響き渡るような大声で熱望させられたとおり、ラウーの腕に巻きつかれて就寝となる。
どんなに怒ってても、糞便にまみれて就寝するよりマシだ。
ソファとラウーの腕の中でもぞもぞと姿勢を調整していると、見慣れぬものを発見した。軍服の襟に縫い付けられた刺繍が今までと違う。
「記章が変わった」
しまった。話しかけないと宣言したのに、つい。
「大佐の記章だ」
一足す一は? 二。
それくらいの淡々とした、事実だけを述べ何も期待されていない答に気まずくなった。こんな子供じみたケンカするためにはるばるボル・ヤバルまで来たはずじゃないのに。
「昇進おめでとうございます」
結婚騒動で言いそびれていたお祝いに、できるだけ心を込めた。
「おまえが受け取る補償額が増えただけの話だ」
事務的な口調が心臓にキツイ。
「あの。結婚がイヤなわけじゃないんです。ラウーが提供できる最高の待遇だって理解してる。感謝してます。だけど不必要だと思う」
頭上に不穏な気配が渦巻きだした。鳴り出した雷雲の下で避難場所を探し回ってる気分。
「ラウーが万が一殉職するか翻訳が終わったら、もうできることないから元の世界に帰る。そしたら補償はいらないし、入れ替わりで戻ってくる紡ぐ家のトカが知らない間に人妻でしたじゃ困るだろうし」
「私をここに留まる理由にしろと言ったはずだ」
蓄電するラウー、その膝に座っているこの構図。わー人間電気椅子。
「家同士の取り決めでとか、玉の輿とか借金のカタとか……結婚する理由は色々あると思うけど。わたしにとって結婚は、好き合ってするものなの。憧れてた。生活保障の誠意としてじゃなくて。いつのまにかサインさせられてたとかじゃなくて」
「私がその誠意とやらを盾にしているとは感じないのか」
盾?
もしかして、ラウーって……。
こっちの世界じゃ結婚適齢期を過ぎてるんだろうか。何でもいいから奥さんが欲しかったんだろうか。
そんな自業自得に巻き込まないで欲しい。遠目には好青年でも顔が北極圏だし、家庭をかえりみそうにない仕事中毒だし、乙女を物理的にも精神的にも踏みにじるサドだし、そんなん結婚できなくて当然じゃないか!
睨みつけると睨み返された。
えーいくそう、なんで白人ってこんな奥目なんだろ、眼窩の影が怖いじゃないかー。しかも軍人として軍医として働き詰めなのだろう、さすがに頬がやつれて見える。怖いじゃないかー。
「死ぬ気はなくても、いつどこでどうやって死ぬかなど知れたものではない。私の遺言として聞け。私が死んでもパートナーとして遺志を継ぎ、ビスコアの保護のもと、知の時代へアダマス帝国を導け」
パートナーになりたい発言を逆手に取られている!
パートナーって言ったって、空軍大佐で知の時代を志すラウーが活かしてくれるからこそなのに。わたし一人じゃ無理だよ。
「おまえは知識を受け売りしているだけだと言った。だがどんなに下手であれ英語に翻訳できること、翻訳しようとする本の内容を理解するだけの基礎知識。それはまぎれもなくおまえの財産であり能力だ」
どんなに下手であれ、のさりげない一言が刺さる。
「教育を授かりながら活用しないのは、文明を築き繋げてきた先人たちへの侮辱であり怠慢だ。おまえを帰す気はない。助手の契約期間は私が死んでも一生涯と記してある」
「ええっ?」
助手の約束は翻訳が終わるまでって話だったじゃないかー!
「もう一度言うが不服ならば、説明を遮り、書類の内容を確認せずにサインした自分を告訴するんだな」
座禅でもしようと思った。
どんな文言にも冷静でいられるように。
「配偶者ならば私の遺言を遂行する義務が生じる。結婚は撤回しない」
「知能犯、インテリヤクザ、中佐の皮かぶった悪魔っ」
「大佐だ」
座禅はやめよう。百年あぐらをかいたところで、ラウーより冷静になれる自信がない。
「どうでもいいけど皮かぶりーっ」
「語弊と誤解を含む単語を叫ぶな。どんな誤解かその身にねじ込むぞ」
仮面と理論で武装する横暴を告発してるのに。
すごーく痛そうな体罰をされる直感がしたので黙った。
「タイラー師から私が受け継いだように、私の遺志を継げ。安心しろ、私としても死は最優先で回避すべき事項だ。ユピテライズだ、簡単に死にはしない。出世し、より強大な権力をもって知の時代を築く」
「ラウーはユピテライズじゃありません」
左右で色の違う瞳。前髪に一筋だけ混じった色素の抜けた髪。
そうした組み合わせが夢でなければあり得ないという思い込みが誤解だったと、医学事典を引いてみて初めて知った。
虹彩異色症は遺伝子疾患として生まれ持つ場合もあるし、虹彩の炎症や損傷で発現する場合もある。中でもラウーの症状はワールデンブルグ症候群という常染色体性優性遺伝に当てはまった。
「聞き取れない。何だって?」
あ、理科で習ったメンデルの遺伝子のエンドウマメ実験。あれはこの世界ではまだ実現されてないんだ。ラウーには初耳な単語を並べてしまった。
……単に発音をとがめられたのかもしれないが。
「兄弟とか両親とか祖父母とかに、ラウーと同じ特徴の人がいたんじゃない?」
「いた」
短い、感情を汲み取れないほど短い答は何を秘めているのか。
変わった外見によって差別を受けたのかもしれない。避けられるにしろ崇められるにしろ、本人が不快を感じるなら差別なのかもしれない。それを問うことさえも。
きれいだなんてのんきに眺めていた自分を恥じてモジモジする。
「ってことは、他の人より死ににくいってこともないと思うの。だから眠って、食べて、休んでね。偉そうにわたしの身体測定なんかしたくせに、頬がやつれたよ。タイラーおじーちゃんに会ったら言いつけてやるから」
恥じてはいるんだけど、やっぱりきれいだと思ってしまう。茶と翡翠の瞳は窓からの月光を含んで磨き上げられた貴石みたいだ。
男のくせして女の自分より圧倒的に美麗な部分があるなんてずるいぞ。
「ラウーにとって昇進は、タイラーおじーちゃんの理想をより確実に実現させる手段なんだよね。だから昇進、おめでとう。これもおじーちゃんに会ったら言いつけておくね」
「盾だ、桐花」
ひっ。
なにその呻いてるみたいな低い声! 殺気はないけど妙にドスが!
思わずラウーの腕の中で身を縮める。追いかけるようにラウーの顔が寄ってきて、さらに縮こまる。
「私が人並みだとわかっているなら、私にも人並みな感情が備わっていると覚えておけ」
ああ、そうか。
「覚えてるもん……」
思い出した。まだタイラーおじーちゃんがこの世界にいた頃、ラウーの過労を案じるおじーちゃんに心配無用だと伝えろと言われたときの表情。
「面と向かって心配されると、シャイ・ガイ・モードに入ることでしょ?」
ギャー、デカい手で口を塞ぐなー! 今度は殺気がっ。息ができない、ソファとラウーの腕の中じゃ逃げ場もない、名実ともに口封じ。電気椅子が窒息死を執行するのは反則だー!
そうやって押さえつけられてたら、てん、と額に温かく柔らかい感触が載った。
「夜の検温だ。発熱はない」
熱がなくてなにより。でも窒息死したら体温そのものがなくなるよ? 力というか怨念のこもったラウーの手指をぐいぐいと引っぺがした。
「ポリオの潜伏期間は七日から十四日程度だそうだな。二週間はこのまま我慢しろ。暑いだろうが」
このまま。予防接種の効果を立証するため、ソファで密着して過ごす夜のまま。
ラウーは絞るように呟いた。
「……苦行だ」
暑がりなのはヴィルゴットだけかと思ってた。