1・プリズン◇ヘルスケア
石で作られた床はひんやり冷たく、無機質。
粗末なつくりでありながら、確実にその役割を果たす。
ココにあり、ココに留まり、ココに帰結する。
この世界は、つまりそういうものなのである。
決して動くことは無く、決して動かされることなく、動かすものも無く。
それでありながら、変質し、形を変え、色を変え、どう足掻こうと、変わって行く。
絶え間なくこの世界は動く。
動くことは、無い。
動かされることも、無い。
動かす存在など、無い。
それでありながら、動く。
動く存在でありながら、動かず、動かない存在でありながら、動く。
彩。
そう呼んだのは、仲間達。
NIR=13(サーティン)=AYA
そう呼んだのは、私を開発した者達。
唯一起動する事が出来た成功作にして、唯一周りの期待に背いた失敗作と呼ばれた。
人工知能NIRシステム開発当時、開発者達は、この人工知能の性別を女性と決めた。
理由は、モデルとなった脳が女性のものだったからだ。適合すると考えられたのだ。
人間により近づけるため――いや、人間として作られたこの身体には、電源やらスイッチやらは無い。
起動と言うよりは、目を覚ましたという感じだったが、しかし開発者は起動と呼ぶ。
(起動、ねぇ……)
彩は、石の床に座り込んで、石の壁に寄り掛かって、一人呟く。
たったいま眠りから覚めたところである。開発者の言う、起動か。
自分の体のどこかに電源やスイッチやらが無いおかげで、他人に切られるといとも簡単に意識が飛ぶなど、まっぴら御免な事態は無い。
彩の人工知能は、人間の脳を完全に模写することに成功した、……他にどう言えばいいのだろうか、つまるところ脳である。学者達の予想通り、この脳は女性の体と見事に適合した。
「……………………」
もっとも、彩自身、この体がどこまで人間の女として作られているのかはよく知らなかったりする。外見は完璧に女だった。人間として作られたので、食事、排泄機能まで人間と同じである。なら――、……試してみたくはあったが、しかしこの脳は恥じらいを感じてくれる。
少なくとも胸は柔らかい。
「……標準的かなぁ」
外見年齢は大体十六歳くらい。身長は百五十五センチくらい、スタイルは良いと言われる。顔は少々幼さが残るものの自他共に可愛いと認めている。そこは自慢ではあった。開発者の趣味なのかどうかは知らないが、ともかく気に入っているので感謝。ただ、一つ問題があった。
髪の毛である。何故か異様に早く伸びる。一日で五センチ。一週間切らなかったら、三十五センチ伸びる。気分に応じて躊躇無く髪を切ることができるのは便利と言えば便利だったが、しかしここまで早いと滅茶苦茶うっとうしい。
で、ちょうど二週間くらい前まではなんとなく腰まで伸ばしていたが、しかしこの二週間、わけあって牢に閉じ込められっぱなしである。自害を避けるためにか、刃物は一切無い。故に、切れない。故に、約一ヶ月髪は伸びっぱなし、今や髪の毛一本一本が、身長くらいある。
「……看守さぁん〜」
「鋏は禁止だ」
「ですよねぇ……」
しばらく前からこんなやり取りを、鉄格子の横に佇むごつい無愛想な看守の男と交わしている。
恨むぞ、開発者。
いっそのこと引きちぎるという手も考えたが、しかし根元から抜けてしまいそうで怖い。
もっとも、引きちぎることが出来たとしても、切り揃えられるわけもない。
他の方法はあるにはあるが、しかし、看守の目がある現時点では出来ない。
「むきゅう……」
鉄格子に顔を押し付けてみた。
頭の中で、自分の顔の状態が細部にわたって自動的に生成された。
「変な顔……」
人間として作られたはずだが、妙なところでコンピュータじみた能力があった。
正確な時間はどんなときでも分かるし、複雑怪奇とか一般に言われる計算も一瞬で解けてしまう。円周率など時間さえ許せば空で幾らでも計算して言ってのけることが出来る。
「い〜まな〜んじ!?」
「しらん」
「おやじ」
「……………………」
「きゃはははははっ! ……はぁ」
(古くさい……)
つまらない。
ただいまの時刻、三時三十三分三十三秒三三。
「……お、ゾロ目じゃん」
もうそろそろ動くべきか。
いや、まだか。
一応、合図はすると言っていた。
そのとき。
「……っ」
音が聞えた。
「うっきゃああああぁ!?」
キンキンとした、頭が痛くなるような甲高い音。
「……どうした?」
看守が、頭を抱えて転げまわる彩を、奇怪なものを見るかのような眼で見ている。
超音波である。普通の人間には聞えない。聞こえてしまう彩にはたまらない。
彩にとっては、恐ろしく迷惑な合図の仕方だった。
「だ……!」
「おい」
看守の声などどうでもいい。
とにかく叫んだ。
「わかった! わかったうるさい! わかったからうきゃああああああっ!」
からかうように音量は大きくなり、そして突然止まった。
「……ぐ、ぐわん、ぐわん、ぐわん……」
くらくらする。
ふらふらしながら立ち上がり、身体中に巻きついた髪の毛を何とかまとめて背中で軽く束ねる。
「……頭重いよぅ……」
「おい。どうかしたか」
「頭重いっつってんのよ!」
とりあえず怒鳴ったらすっきりした。
すっきりした所で、この牢の鍵穴を覗き込む。
「……ねぇ、看守さん」
「………………」
わけが分からないというように、看守は無表情のままじっと彩を見る。
(……よし)
「鍵は掛かっていない」
「は?」
と、看守の意識が、彩の言葉を否定するより早く、彩は牢の扉を開けた。
鍵は、本当は掛かっていた。
だが、現実に鍵が掛かっていなければ問題はない。
「……………………」
無表情な看守が対応できないうちに、鉄格子で出来た扉をくぐって、看守の前に立つ。
そして、意識を深く。
深く。
意識の集合体、その一点に、看守の意識を確認する。
そして、そこに強く刻み付ける。
「あんたは今から三十分間、まったく動けないッ!」
看守が、止まった。
足も手も動かせない。目も動かせない、口も動かせない。心臓も肺も――。
「あ、死んじゃうじゃんか。生命活動は維持」
呼吸音が聞え始めた。一安心。
「悪く思わないでね? 三十分後には動けるから」
彩は、無表情のまま一ミリたりとも動かない看守にそう言って、にこりと笑うと、石で出来た廊下を歩いて行った。
鮮やかな世界、希薄な一つ。
全ては混じりあう。
全ては一つに帰結し、一つは全てに拡散する。
全ては限りなく一つなのであり。
一つは果てしなく全てなのであり。
無機質なすべては、薄色の極彩色。
モノクロのこの世界には、色がある。
外にただ広がるのは、極彩色の、現実。
全てが存在する。
「……故に存在しないものは、なんていうか、存在しないんだしやっぱり無いんだよねぇ。なんかごちゃごちゃだけど」
冷たく湿った地下牢から這い出て、何らかの(あまり考えたくナイ)アジトの無駄に広いエントランスに立って、呟いた。
(まー……この状況とは、いやぁ、まったくかんけーないんじゃないかなぁって思うんだけどさ)
注目の的だった。
(いやーん。……いやーん? なんでいやーんって、いやーんなんだろ)
彩の服装は、ジーンズとTシャツという随分ラフなものだった。その上結構汚れている。二週間近くずっと同じこの服でいたのだから当たり前である。
が、それが眼前で大乱闘の真っ最中だった人たちが突如として現れた少女に注目する理由ではない。まして、髪が長すぎるというのも違う。
(理由っていうか。私がここにいるからなんだろーけど)
取りあえず静寂は好きではないので、一言。
「……ナゾの美少女参上〜」
(ナゾってなんだろ?)
自分で言っておきながら疑問符。
できれば白けてほしかったのだが、しかし、
「に、逃げたぞーッ!」
「捕まえろーッ!」
と、彩を牢にぶち込んだ側の人間(五十人くらい)が次々に叫び、
「待ってたぜーッ!」
「キターーーーーーーー」
「うおおおおおおお! 救世主登場!」
と、彩の仲間達がぱらぱらと叫ぶ。十人程度である。
(……好き勝手な奴ら)
エントランス最奥に佇む彩に向かって五十人が押し寄せる。他十人はほったらかし。
「私って猛獣か何かだったのかなぁ……」
と、他人事に様に呟いてはみるものの、何をどうしたところで他人事ではない。
この状況は何とかして打破しなければならない。
他人事にできるのなら。
と、考えたところで気付く。
「あ、他人事にすればいーのか」
一番前に迫ってきた男が、飛び掛ってくるその瞬間、彩は意識を深く沈めた。
意識に時間は存在しない。故に、時間は止まる。
この場の意識の集合の中、襲い来る五十人の最後尾に位置する男の意識を見つけ、
(私の立ち位置にいる)
と、刻みつけ、
(私はここにいる)
と、自分自身の意識に刻み付ける。
あとはこの場の意識に浸透させるだけ。
彩は、意識を浮上させる。
時間が動き出す。
直後に叫ぶ。
「私はここにいないっ!」
それが現実になる。
言葉は、この場の全てに浸透する。
次の瞬間、彩は、五十人の最後尾に立っていた。
決め台詞。
「移し身の術」
(空蝉だっけ……。どっちでもいいけど)
今、エントランス最奥でもみくちゃにされているのであろう憐れな男は、一瞬前までここにいた男である。が、他人事なので興味なし。
周りを見れば、ほったらかしにされていた十人が、エントランス最奥をボーっと見ている。取りあえず、近くにいる男に話しかけることにした。
「……って」
年の頃は二十歳、中肉中背で、短髪。切れのある眼。真っ黒な服。
名前は雅樹。
今回の計画において、彩を牢屋に二週間ぶち込むことを思いついた張本人。
殴る。
「うりゃ!」
「お?」
「あう」
雅樹のわき腹に拳が触れる寸前で、拳は雅樹の手に受け止められていた。
「お、彩か」
「気付かなかったの? とっとと外に出るよ。あいつら閉じ込めるから」
「あ、ああ。外に出ろ!」
わき腹を押さえつつ、周りに呼びかけ、外へ飛び出す。
太陽が眩しい。
振り返って、無駄に巨大な建物を振り返る。
細かい因果操作はあとで構わないだろう。
「この建物からは、誰も出られない!」
叫び、全てに浸透させ、現実にする。
この能力を、因果干渉と彩は呼んでいる。
すべての存在には、存在するが故に意識が伴う。
生物には感覚器官を媒体として対象を識別するとき、識と呼ばれる心の働きがある。
眼識、耳識、鼻識、舌識、身識の、五識。いわゆる五感。
そして、生物に限らず万物に共通して存在する、第六識、存在思考を司る意識。
彩が干渉した意識は、その場の意識。つまり、その場に居合わせた全ての意識がまとまった、意識集合体に干渉することにより、その場における因果に干渉し、操作する。
故に基本的に何でもできる。
だが、干渉していじくる対象が因果なのである。こじれさせた事象がどんな結果をもたらすかを予想し、辻褄を合わせるために事細かに膨大な論理を組み立てて干渉しなければならない。だから大きな事象であればあるほど、その手続きがクソめんどうなのである。
「まぁ、……例えば誰も出られないとか……そんな単純じゃ済むはず無いんだよなぁ……」
「なに一人でブツクサ言ってるんだよ。何とかしろ」
「むぅ……」
建物は一階フロアが全面ガラス張り。ガラスはとっくに割れているが、中にいる人たちは、なにか透明な壁にぶつかってパントマイムをしている。
誰も出られない。
誰でも入れる。
でも出られない。
誰も、なので物は出る。
なんかいっぱい投げられる。
出せとかいう声も喧しい。
うかつに入った一人が袋叩き。
「うげろぼぐえぐひゃげえええええええええ!」
(……なんか変な悲鳴響いてるし……)
彩は、意識を沈めた。
ヒトをヒトとして成立させるものは何なのだろう。
まぁ、ヒトだろう。
ヒトはヒトであるが故にヒトだ。
だから、結局ヒトはヒトとして生きなければならないし、ヒト以外の何かになることはできない。
どれ程現実離れしていようと、ヒトはヒトなのであり、どれ程ヒトの域を超えたヒトであろうと、ヒトはヒトだ。
ヒト、ヒト、ヒト。
ヒトは、ヒトとして存在する。
ヒト以外の何物でもない。
(二十一回もヒト。ヒトって多いんだなぁ。……全然関係ないけど)
事務所の中、ぼんやり考えた。
彩自身は、開発者からはヒトとして定義された。
ヒトの意識を持ち、ヒトの思考をし、ヒトと変わらない働きをする脳を持っているからだというが、しかし一番の理由は人間の脳を模倣した人工知能の精神面を考慮したのだろう。
とは言え、彩にとっては比較的どうでもいい話ではあった。
ここに存在するのは確かなのだから別になんでもいい。
「こら彩。髪、切るのやめるか?」
雅樹は、理髪様の鋏を彩の頭の上で弄びながら言った。
「え、やめない!」
「じゃ、ぼへーっとすんのやめろ」
「むきゅぅ……」
狭いが、何も置いていないせいで広い事務所二階のど真ん中で、彩は理髪様のカッパを着て椅子に座っていた。
何らかのアジト(やっぱり考えたくない)の連中は、漏れなく警察に捕まった。
秘密裏にテロ活動を支援していた企業である。大罪である。
彩が捕まっていた理由はそこだった。
彩(AYA)の存在は一般的なものではない。彩は人間として作られ、人間として生活することを求められている。故に、開発者およびその関係者、そして信頼できる同業者しか、彩の生い立ちを知るものはいないはずだった。
だが、どこからかその情報が漏れたらしかった。
知識の無い者から言わせれば、彩は次世代ロボットである。技術を盗んで何かに使おうとでも考えたのだろうが、しかし彩はロボットと言うわけではない。肉体、脳を模倣する技術は確かにかなり高度のものだが、しかし、人の手で創られたとは言え、人間とほとんど変わらないものである。その上、あくまでも模倣できるだけで、思い通りに作ることは決してできない。要するに、テロ活動に使えるような技術などまるで使われていないのである。まぁ、電卓や時計代わりには使えるだろうが。
「で、どうするんだ? 髪型は」
「うんとね」
ずっと頭が重かった。
「ボーイッシュに。短すぎるのはいや」
「似合うようにはするさ」
じょき。
ばさばさばさ。
一部切るだけでこれだ。
「……………………」
重いはずである。
仕事仲間と解散した彩と雅樹が、事務所についてから最初にやったことがこの散髪だった。
仕事仲間、彩と雅樹の仕事。
ズバリ、何でも屋である。ただし、請け負うのは合法的なものだけである。それでは何でも屋ではない気がするが、しかしそんな些細な矛盾は今更とがめても仕方がない。
「……お前、臭いぞ」
「はぅっ!」
心無い一言だった。
二週間、体を洗うことが無かったから当たり前だ。しかも地下牢という清潔ではないところで。
「誰のせいよっ!」
「まぁ、俺のせいだな。あとで風呂に入れ。シャワーでもいいが」
先に入らなかった理由は、髪をサッパリさせてからのほうがよかったからだった。
「ああ、そうだ。お前のおかげで摘発にまでこじつけられたよ。助かった」
「そう」
今回の彩の役割は、あの企業の注意を彩にひきつけることだった。
その間に、雅樹たちが企業のテロ活動支援の証拠を掴む。
だから彩は、捕まっている二週間の間にも、雅樹とは何度も会うことはできた。
というより、今回の役割は必ずそうすることを条件に引き受けていた。
「ところでお前、捕まってるときに連中に何かされたりしてないだろうな」
「……なにかって?」
「あんなことやこんなこと。もっと説明が必要か?」
「……………………」
恥じらいはないのかこの男には。
「……させなかったよ」
「そりゃよかった」
企業の連中の意識に、彩の体の作りの調査など、肌を晒すことになるようなことに関しては先延ばしという意識を植え付けておいた。
もちろん、本人達は気づいていないが。
「便利な力だな。因果干渉ってのは。難点はあれか。手続きとやらが面倒なことか」
ほいほいと簡単に使えたら、今回の仕事は一秒も掛からずに終わっていただろう。
だがその一秒よりも、この二週間をかけたほうが危険も少なかったのである。
因果干渉は、彩は起動したそのときからできた。
開発者達も予想しなかった能力である。
予想の仕様も無かった。
コンピュータ並みの計算、理論の組み立ての速さと、人間の意識、人間という肉体が合わさって初めてできた能力だった。
この世の物理法則をまったく無視できてしまう。
現代科学でも、意識という物の働きは完全には解明されていない。
予想しようにも、そもそも予想するための材料すらなかった。
「起きろ」
「うにゃ?」
雅樹の声で目を覚ます。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
カッパも片付けられていて、頭も軽い。
「おわっらの?」
舌が回らなかった。
「大変だったぞ。頭カクカク揺らし――涎、出てるぞ」
「あぅ」
拭う。
「……なんでもいいが。風呂に入れ。俺は一階にいる。……あれだ、えーと。……あまり口に出したくないが、……世界征服を目指す会……とかの情報がある」
思い出してしまった。
あまりに安直過ぎる上、それでいて内容のわりにどこかのほほんとしたネーミング。
こんな連中が支配する世界はある意味平和なのかもしれない。が、ネーミングからしてもあからさまなテロ活動には変わりない。テロは犯罪である。
「それとだ。お前、明日は健康診断らしいぞ」
「明日? また急な」
「データが取りたいんだろ。まぁ、聴覚は相変わらず異常に良いみたいだが」
超音波。
「あんたか! あれめっちゃヤな音なんだよ!」
「俺は聞えないからなぁ」
「黒板を引っ掻いた音のサラウンド版みたいな」
「そりゃ確かに嫌だな」
雅樹は苦い顔をする。
「でも気付かれなくていい合図にはなったろ」
「いい合図じゃないってば」
「そりゃわるかった」
二週間ぶりにサッパリとした湯上り、清潔なタオルで全身を拭いて、清潔な服に身を包み。
浴衣だが。
「目のやりどころに困るな」
「それ本人を目の前に言うこと?」
「確かにそうだが。胸元はもう少し隠したほうが身のためだ」
「身のためって……」
「多分、俺じゃなきゃ正気は保ってられないな」
「……なに、その精神攻撃……」
しぶしぶと、暑いのをガマンして浴衣を締めなおす。
(浴衣って締めるものだっけ)
「勘違いするなよ。分かってやってるなら性質が悪いってことだ。小悪魔的な」
(素直に綺麗だからって言えば良いのに)
「まぁ、お前が可愛くて綺麗だってことだが。……どうした? なんで俯く」
「………………。……いや、なんでもない」
ストレートを空振りした気分だった。
そういうことは、普通真顔で言うものではないだろう。
逆にこっちのほうが赤面してしまう。
「じゃあ、まぁ、大したことはないが本題に入ろう」
一階事務所は整理整頓されてはいるが、もとよりそう広くない空間のせいで、本棚や事務所らしくデスクなど、物がある分狭かった。しかし、ソファが二つあればテレビもあり、コーヒーメイカーに電子レンジ、冷蔵庫もあり、その他家具の大半のものが温かみのある木製の作りで、くつろげる生活空間としては充実している。
彩は、雅樹が座るデスクに向かい合わせのソファに寝転がった。
「ふぁ」
欠伸が出た。
「……そのまま寝るなよ」
「寝ないって」
安請け合い。正直かなり眠かった。
「まぁ、たいしたことはないが……そうだな。ほぼ確実に次も依頼が来る」
「次?」
「何某の会だよ。あの企業が本拠地ってわけじゃない。他の企業も関わっている。一つ、関わっていることが間違いないのが有吉コンツェルン」
「コンツェルンって。またでっかいのが」
「コンツェルンは確かにでかいが、ヘッドを崩すことができれば自然に解体される。解体されなくても、何某の会から引き離せればそれでいい。まぁ、次に依頼されるのはここへの潜入と情報収集とだな。今回と同じ――」
彩は自然、雅樹を睨んでいた。
「またあんなのはヤだからね」
「……ああ、あの手は二度と使わない。約束する」
「ふんだ」
ぷいとそっぽを向いてみせる。
「悪かったよ。もうしない。今回は違う手で行く。俺らと同業ともまた組むことになるが、ちゃんと言っておく」
「でも私には絶対なにか役目が回ってくるでしょ」
「それは仕方ない。けどもっとまともな役目だ」
「それならいいけどさ」
「例えばお色気だ」
「殴るよ」
懇親の力を込めて。
「冗談だ」
冗談は真顔で言うものではない。
まぁ、本気だとはもちろん思わなかったが。
「社員かアルバイトに成りすまして入り込む。こんなところだろ」
「何で今回はその手使わなかったのよ」
「アルバイトも社員も募集してなかったんだよ。というより寄せ付けなかったんだ。誰も入れたくなかったんだろ。今回の企業はちょっと異常だった」
何故か地下牢とかあったし。
ただの企業なのに。
「他に質問は?」
「ない」
「明日の健康診断は午前十時からだ。それまでには起きろよ」
「わーった」
「寝てよし」
「ぐう」
二秒で眠れた。
二週間地下牢で過ごしたのだから、居心地がいいこの場所はまさに天国だった。
◇
白と黒は、真反対の色であると言われる。
感覚的に言えば、白は明るくて、黒は暗い。
明と暗。
白は光を反射して、黒は光を吸収する。
真反対の色ではあるとは言え、違いがどうであるかと問えば、結局そんなものなのである。
決定的な違いだが、しかし大した違いでもない。
光が存在しなければ、白は反射するものが、黒は吸収するものが、それぞれ存在しない。
生まれつき全盲の人に白や黒がどんな色であるかを伝えようとしてもほぼ不可能だし、そもそも生まれつき色を知らないのだから、色と言う概念はあやふやにしか存在し得ない。
視覚という感覚に限って言ってしまえば、白や黒、そのほかの色は、例えどんな色であれ、見ることができない限り、結局全てが同じ。全てが同じで、違うのは名前だけである。
だから、見えない白は、限りなく黒に同一なのであり、見えない黒は、限りなく白に同一なのであり。
「なんていうか、見えないものほどあやふやなものはないってことなんだよねぇ……まぁ、見えてないんだから気付きよーもないんだけど」
真っ暗な中、彩は一人呟いた。
「何一人で哲学してるんだよ」
右斜め四十五度上方から雅樹の声が聞える。
「だって暇なんだもん」
健康診断とは言え、彩の健康診断は、健康診断なのだが健康診断ではない。
(わけわかんねー)
研究所の広い一部屋で、彩は柔らかい寝台に横になっていた。
彩の目は確かに開いていて、照明器具もばっちりだが、しかし彩の視界は真っ暗だった。
頭部になにやらごちゃごちゃした物を取り付けられ、今は視神経を弄られている。
「なるほど。お前の頭の中身がよく見える」
「……へ!? うそ!? 切り開いてんの!?」
「冗談だ」
「な、な、もう!」
ただでさえ視界が封じられているのである。不安で仕方が無い。
彩にはよく分からないが、何らかの方法で頭を切り開かずに神経を弄っているはずである。
「仲がいいね。君たちは」
しわがれた声が頭の上二メートルはなれたところから聞える。
青木と言う、五十代くらいの研究員である。
今は見えないが、小柄で白髪交じりのふさふさとした髪を蓄え、初老のしわが年期を感じさせる男。の、はず。
「じゃ、カメラに視覚を送るから。もし眩しかったら言って」
「あい」
返事をした直後、暗い視界が一気に明るくなった。明るくはなったが、瞳孔が無いのと、カメラが調節されているおかげで眩しくはない。
そして、目の前に広がる光景を認識する。
「高い」
カメラから見た光景、自分の身体が真下に見える。二、三メートルといったところだろう。自分の目ではないので、正確な値はわからないが。
宙吊りになっているような錯覚があり、自然と足が動いてしまう。ぴくぴくと足が動いているのが見える。
自分の顔も見えた。眼を瞬かせてみると、目の前の自分が眼を瞬かせる。が、カメラは瞬きをしない。周りを見回そうとしてみると、目の前の自分は目をきょろきょろと動かしているが、カメラは動かない。
「……へんなの」
「じゃあ、これは?」
「うげらぁっ!?」
突然、視界がこんがらがった。
右目と左目の役割を果たしていたカメラが別々に動き回っている。
何が何だか分からない。
勝手に目玉が動いている感じと、視点がまったくとんちんかんなせいで、
「やめっ! やめて! き、気持ちわるっ――おぇぇ」
ぴたりと焦点が合って、視点も安定する。
「……酔った」
目の前の自分が言った。
「すまないね。まぁ、異常はないよ。その反応もいたって正常だ」
「おぇえええ!」
「吐くなよ」
雅樹の後頭部がカメラ視点に覗いた。
彩の顔を覗き込んでいる。
後ろから小突いてやりたい気分だったが、彩の拳は雅樹の正面に飛び出た。
やすやすと受け止められる。
「雅樹の後頭部十円ハゲ発見!」
「……俺にハゲなんてないぞ」
苦し紛れに言ってみるが軽くいなされてしまう。
「じゃあ、視覚を元に戻すから。眩しいだろうから目を瞑って」
「んあ〜。身体にたましーがもどったーって感じ」
思い切り伸びをして、寝台に腰を降ろす。
「そりゃ死んでるな」
雅樹は用意された丸椅子に座って、突っ込む。
「生き返った〜ってこと」
改めて自分の目玉で世界を見ると、まさにそんな感じだった。
空で見る視界より、地で見る自分の視界のほうが落ち着くものである。
「しかしあれだな。やっぱりお前って最先端の結集なんだな」
「最先端ねぇ。そいえばそうなんだよねぇ。実感無いけど。時代の最先端を行く少女?」
「ニュアンスが違うだろ」
「ちがうねぇ」
実感など無い。
その材料が大して無いのだから、当たり前と言えば当たり前ではある。
この身体は成長もしている。
「……失敗作には思えないのだけれどね……」
彩の後ろでコンピュータに向き合っている青木が、小さく呟いた。
本人は聞えるように言っているつもりは無いのだろうが、しかししっかりと聞えた。
「そーいや、私って失敗作って言われてるみたいだねぇ」
とは言え、起動したのは唯一、彩だけである。
今でも二代目の彩を作ろうと奮闘してはいるようだが、成功の見込みはまったく無い。
「……すまない。上が言っていることなのだが」
上、とは、要するに研究所所属の上層部のことである。
彩が失敗作といわれるようになった原因は、初起動したときの行動にある。
起動直後、彩は研究所から姿を消した。
ここにいては縛られたまま。自由がほしい。
彩の念頭にあったことはそれだった。
しかし、それは開発者達が仕込んだ先入観だった。
逃げ出すことを見越して――いや、実のところ逃げ出させることが目的だった。
人間らしい感情として、自由を欲することが挙げられ、それを実行させたのである。
そして逃げ出したあとの行動を観察する。どのような行動を取るのか。
が、彩の行動は開発者達を失望させた。
逃げ出して一時間後、何もしないうちに研究所に自ら戻ってきたからだった。
「はじめて訊くことになるのか……君は、あのとき何で戻ってきたんだ?」
「うわ。初めて訊かれるよそれ。誰も聞かないんだもん」
「……訊かなかったのか?」
訝しげに雅樹が口を挟む。
「情けないが、結果だけを見たのだよ。その後は訊く機会を逃してね……。君は帰ってきてしまった。……何故なんだ」
彩は大して考えることもなく、あっさりと答える。
「だってさ。何もできないじゃん」
「何もできないって――。そんな理由か!?」
納得がいかないのだろう。青木は声を大きくしていた。
「理由ったって。お金もないし道も知らないし。そこいらうろうろしてたって、誰かに拾われるとは限らないし、誰に拾われるかもわかんないし。社会なんて何も知らないんだからさ。へたしたら飢え死にだし。私を作ったのがここの人たちなら、私を知ってるのはここの人たちだけじゃない?」
「だが、うまく行く可能性もあっただろう」
「賭けじゃん。私賭けはキライなんだよねぇ」
要するに、生きるために一番手っ取り早い方法を選んだだけなのだった。
しかし当たり前の話である。
日常生活をするための基礎知識は最初から持っていた彩だが、しかしそれだけでは世間知らず温室育ちと相違ない。大概が結局何もできないで終わる。
「私が言うのも変かも知んないけど、人間ってさ、自由好きな癖して実は縛られないと生きていけないんだよねぇ……。変な話だけど」
最後に哲学っぽいことを言ってみた。
(決まったぜ)
優越感に浸ってみる。
雅樹が、珍しく感心したような視線を送ってきている。
「にひひひ。私って結構カッコイ――」
「失敗作? そんな馬鹿な話があるか! 立派な成功作じゃないか!」
なんか怒鳴りだした。
「いや。違うだろ」
対抗して言葉を発したのは雅樹だった。
同感だった。とりあえず、雅樹に任せてみる。
「何が違う? 成功作……作は変だな。成功じゃないか」
「いや、あれだ。お前らが作ったのは彩って人間なんだろ。ここじゃNIRなんとかって呼ばれてるみたいだが」
正しくはNIR=13(サーティン)=AYAである。いわゆる製造番号だが。
ちなみに体にそのようなマークはない。
「そのつもりだが?」
「人間なんだろ? 失敗も成功もないだろう」
人間にはなにかしら欠けたところがある。と、言いたいらしい。
いいぞその調子。
「失敗でも成功でもないと?」
「いや……どっちでもないとかじゃなくてだな。そうじゃなくてだな…………説明はめんどうだ。自分で考えろ」
「ほっぽりだすなーっ!」
思わず叫ぶ。最後に突っ込んでしまった。
が、落ち着いて考えてみれば、それ以上の説明は蛇足なのかもしれなかった。
他人に言われて知るよりも、自分で考えて知るほうがよほど意味は大きい。
青木が何かを言おうと口を開いたその直後。
「教授ーッ!」
やたら元気の良い声が響いた。
広い部屋の入り口、向こうのほうから、二十歳を迎えたばかりといった感じの青年が機材の間を縫って駆けて来た。
青木教授の前に辿り着いて膝に手を突いて息を切らす。
「……お、お、おわっちゃいましたか?」
「ついさっき終わったよ」
「んなあー!」
雄叫びのような声をあげて、膝を着いて、頭を抱えた。
「やっちゃっちゃーッ!」
状況からすれば青年は大学生のようだった。
研究員=教授と何か約束でもあったのだろうか。
「……帰るか」
「うん」
立ち上がる。
「あ」
と、今気付いたかのように、青年は彩と雅樹を見た。
というか、見据えた。
「あなた達、何ですか! ここは一般人は立ち入り禁止です!」
本気で怒っているらしい。
神聖な場所を汚されたとでも思っているようだった。
分からないでもない。
彩だって、雅樹と二人きりの事務所に人が入るのは気に食わない。
(……あれ? ……ちょっと違う、かなぁ?)
「ああ、宇都木」
「なんですか?」
青木の視線が彩に向けられた。
すまない、と言っているようだった。
「彼女だ」
「へっ?」
宇都木というらしいその青年は、彩をまじまじと見た。
そして再び、
「へ? っへっ?」
「お前らしいぞ」
雅樹が言う。
「なにが? いや、なんとなく分かるけど」
「じゃ、じゃあ、あなたがNIR!? NIR=13!?」
「う……ま、まぁ、そうなんだけど……できれば彩って――」
「うわー! うわー! うわー!」
騒がしい青年だった。
さっきまでの態度はぶっ飛んで、眼を輝かせて彩を隅々まで見る。
「……………………」
正直、イヤだった。
「可愛いし!」
ずっこけた。
まずそこか。
男の性とでも言うべきか。
雅樹は剣呑な目付きでその青年を見て、青木は軽く頭を抱えている。
「なんか想像と違うし! 全然違うし! うわー!」
舐めるように見られる。
昨日同様、ジーンズにTシャツ姿。裸ではないはずだが、しかし裸を見られているような感覚。
「……………………」
青木が口を開いた。
「……彼が君と会いたがっていたんだ……だから検査に立ちあわせてやろうと思ったのだが……」
「……帰っていいかな……? ねぇ、雅樹」
「……帰るか」
「ええー! もっと見せてくださいよぅ」
宇都木は口を尖らせて、雅樹に言った。
「ね、いいでしょう!?」
雅樹は宇都木を無表情で見ていた。
「私は帰りたいんだけど……」
「ダメです」
「宇都木!」
青木が怒鳴る。
きょとんと、宇都木は青木研究員を見た。
「……彩は帰りたいと言っているんだよ。宇都木」
価値という概念は、統一された意味を持ちながら人それぞれによってばらばらである。
とある物がとある人物にとっては重要な意味を持っていたとしても、一方では軽視されることもある。
例えば化石など、その道の学者にとっては価値のあるものであっても、興味が無く、知識もない人々にとって見れば、どれ程すごい物であってもただの石である。
ところが、学者にとっては大した価値もない化石であったとしても、興味はあるが、しかし知識の無い者にとっては、大いに価値のあるものとなっていたりもする。
経験、知識、その物に対する感情、またそれらを育む環境によって、価値観はそれぞれ違ってくる。
こう考えてみると、等価交換と言う言葉が果たして正しいものであるのか。
本当に等価なものを、果たして交換する必要があるのか。
等価なのだから、交換前と交換後では、なんら変わりは無い。
モノとモノを交換するということは、なんらかのモノを代償に、それよりも価値があるモノを手に入れると言うことである。
しかし、人それぞれにとっての、そのモノの価値の意味合いと、そのモノの持つ質が違ってしまうと、そこには行き違いが発生してしまうものなのである。
「まぁ……そこが価値と言う概念の価値、なんだろーけどさ……」
もしくは醍醐味か。
仕方が無いことと言えばそうではある。
研究所からの帰り、雅樹が運転するセダンの後部座席二列を占領して、彩は寝転がっていた。
「うみゅ……」
宇都木という学生は、何のためらいも無く無断で彩をあからさまに観察し、彩をもっと見たいと雅樹に言い、青木研究員の言葉で、彩が帰ることを了承した。
率直な気持ち、
「私……あの人好きじゃない」
「まぁ、そうだろうな。俺もだが」
運転席の雅樹が言う。
宇都木が彩に見ている価値。
宇都木にとっての彩は、人ではなく、あくまでも研究対象であり、物だった。
「ああいう扱いは初めてだったんじゃないか?」
自身の意思をまったく無視されたのは、初めてだった。
しかし考えてみれば、いままで意思を尊重され続けてきたということのほうが奇跡のようなことかもしれなかったが。
「まぁねぇ」
開発者達は、研究対象として彩を見てはいたが、人として作ったという自負と、人であるという考えを持って、彩の開発者であるからこそ、彩に人として接してくれていた。
「……雅樹は私のことどう思ってる?」
「どう?」
「うん」
「どうって、ああ、人だろ」
考えたこともないらしかった。
それはそうかもしれない。人として接するときにわざわざ相手が人であるなどと意識することもない。
「……やっぱ人なんだろうけどねぇ」
「違うのか?」
「違わない、とはおもうよ」
しかし言い切れる自信はない。
人工的に作られたという時点で、普通とは大きく異なっている。
その上、研究対象として、居場所だけではあるが常に監視されている。
起動後の脱走、そして帰ったあと、しばらくなにやら検査された後は、もう放任だった。開発者、生みの親としてはある程度補助するが、あとは意志に任せる。自分で自由にしろ、生きることを自分でしろ、ということである。だから彩は、偶然知り合った、何でも屋の雅樹の下にいる。
少なくとも、自分の意思はある。
「意思なんて、まぁ自分しか分かんないもんねぇ」
大して深く考えるようなことでもない。
眠いので、寝た。
人の想像力は、凄まじいものがある。
ともかく感嘆するだけである。
「なかなか面白いのよねぇ。魔法バトルアニメって」
「リアル魔法少女が何言ってるんだよ」
「魔法じゃないもん」
「大してかわらんだろ。それとうるさい」
ふぁいやーッぼーる!
どっかん。
事務所に響く大音量。
立ち寄ったレンタルビデオ店で、彩が適当に選んできたアニメだった。
子供のアニメだろうと思っていたが、しかしそれでいて、なかなか面白い。
エンディングが終わるまでソファの上ではしゃぎまくっていた。
スプリングがぎしぎし鳴っている。
「小学生かお前は」
デスクで仕事をする雅樹は、呆れたように言った。
「年齢的には幼稚園だってまだだよ」
彩。起動から一年と約半年。
「……そういえばそうだったな」
なにやら感慨深げに、雅樹は呟いた。
「そーかぁ。そいえば私ってまだ一歳なんだねぇ」
自身でも、今更ながらに認識する。
「随分老けた赤んぼだな」
「せめて成長と言って欲しい……」
起動後一ヶ月くらいは、見るものすべてが新鮮だったという記憶がある。
知識としては大体のことが既に頭に入ってはいたが、知識と、実際に見るのとでは感覚が違うものである。
「私って成長してんのかな?」
「見た目は成長してるっぽいぞ」
「あ、そうなんだ。どこが?」
「いろいろとだな。顔とか背とか体型とか」
「女っぽくなった?」
「見た目はそうかもしれない。だが内面的な女っぽさは変わらない気がするな」
「なにそれ」
「しらんよ。まだまだ無邪気なんだろ。お前、なかなか無邪気だよ」
「無邪気だと女っぽくないの?」
「さぁな」
つまりは、世の中の酸いも甘いも経験している大人の女ではない、と言うことなのだろう。
(……やっぱりアレかな。小悪魔的な要素が無いってことかなぁ。よく分かんないけど)
「やっぱり人生経験は全然なんだねぇ……」
世間知らずの仔猫、みたいな。
「うにゃ〜」
「やめろ。似合いすぎだ」
「似合――って」
滅茶苦茶複雑な気持ちだった。
(小悪魔……的な?)
試してみたくなった。
「にゃあ〜ん」
「よせって」
「ごろにゃあ〜ん」
「……………………」
冷めた眼で見られた。
恥ずかしくなった。
「……私って馬鹿なのかなぁ」
「……気が付くだけマシだ。お前にはまだ早いってことさ」
身の程は十分に分かっている。
身の程知らずに大人ぶるのはまだ早いらしい。
子供が大人ぶるほど子供っぽく見える。
(と、言うことは我が肉体と精神は発展途上にありってこと?)
「にひひひひひ」
「一つ言っておくが」
「うにゃ?」
これは素で。
「一人でブツクサ言ったり、一人で笑ったりニヤニヤしたりはやめておいたほうがいいぞ」
「――――」
一人で。
笑ったりぶつぶつ言ったり。
「は、はううぅうう……」
顔面が火照っているのがわかる。
頭を掻き毟った。
思考がごちゃごちゃ。
頭もごちゃごちゃ。
「もぉごっちゃごちゃ!」
ごちゃごちゃ祭り。
出店とか全部混ざってそうだ。
金魚くじ。宝すくい。
(わけわかんないよぅ!)
「九十七万六千百五十九かける六千三百二十五の二進数はいくらだ?」
「101110000000000101110011011101011ッ!」
突然の脈略の無い計算問題だったが、即答。
脳内電卓。
「さすがだな」
「私は電卓!? やっぱり人じゃないとか言いたいわけ!?」
「怒るな。そうは言ってない。便利だな」
「わけわかんない!」
「俺もだ」
「何が?」
「さぁ」
「…………………………」
「…………………………」
「殴っていい?」
「痛くないならいくらでも」
「殴る意味無いじゃん」
「まぁ、そうだな」
かなり不毛な応酬だった。
雅樹は、考え込んでうわの空のときでも言葉の応酬だけは成立させてしまうという何の役にも立たない特技を持っている。
「で、何? その数字」
「暗証番号らしいぞ」
「暗証番号?」
「そうだ。暗号。三桁の数字になるらしいが。……どん詰まりだよ。これ以上どうすればいいかわからん」
雅樹は椅子の背に体重を預けて、伸びをした。
「それで二進数?」
「あー。だめもとで」
雅樹は暗号が書かれているらしい紙を再び睨む。
……だめもととは言え、
「……この二進数さ」
「どうかしたのか?」
「三十三桁だよ?」
これは数えれば誰でもわかる。
「それが?」
「三十三って、三で割れるよ?」
三十三だし。
これは別に彩だから気づけた、と言うわけでもないだろう。ある程度考えれば誰にでも分かる。
「…………、……。……………………」
十一桁ごとに区切って、区間ごとに1を合計。
よって三桁の暗号は448。
「お前って天才か?」
「雅樹が鈍感なんでしょ」
数字に弱い雅樹だった。




