賢人の郷
八雲橙は外の世界の博麗神社の鳥居の前に立って深呼吸を一つ、吸うも吐くも苦しくなる程に大きくした。外の世界の空気もこれが最後なのだ。
八雲橙は目の前の鳥居の縁の足元に確かに結界の綻びを捉えていた。当時の彼女は気が確かでなかったとはいえ、それを差し引いても尚そんなものは見えなかっただろう。それが意図的にか事故的にかは分からないにしても、認識出来るまでに力を付けていたのだ。
耳をピンと立て、二本の尾を垂らし、ゆっくりと歩き始める。綻びを逃さない様に目の端に捉え続けながら。
そして。鳥居を抜けると、幻想郷に居た。
「随分強そうな猫又が入って来たもんだねえ。何かしようってんなら調伏するけど?」
博麗霊夢の一代前の巫女、博麗神楽がそこには立っていた。齢は二十歳といったところだろうか。右手に持った庭箒を真直ぐに八雲橙に向け、戦う気満々といった様子だ。
「そんなつもりは無いんだって。用事が有るから今日はこれで」
八雲橙はそう言うとそそくさとその場から去ろうとした。博麗神楽に背を向けて。
八雲橙の視界に下駄を履いた足が一つ飛び込んで来た。殺気は無かった。もっと言えば、余計な物音すらも無かった。
それを八雲橙は寸での所で上体を後ろに反らして躱しつつ、その足を掴んで逆さ吊りに博麗神楽を捕らえた。
博麗神楽は引っ繰り返された勢いを利用してもう一方の足を振り下げ、八雲橙の顔面目掛けて踵から振り上げる。八雲橙はそれを、掴んでいた足を放しつつ一歩下がる事で擦れ擦れで避けた。空打った勢いを使って懲りずに、博麗神楽は両手を握り合わせて八雲橙の頭に殴り掛かった。八雲橙はその勢いを小さな霊撃で相殺し、博麗神楽の目の前に爪を突き付けた。
「強い。その上異変を起こす気が無い。なら、手合せ願えないかしら?」
八雲橙は手を引っ込めて愛想笑いを浮かべた。
「用事が済んだら来るから、またねって事でさ」
博麗神楽は残念そうに目を伏せながら渋々と鳥居の前を空けた。その道を八雲橙はばいばいと手を振りながら抜けていった。
「うひゃー。博麗の巫女ってのは相変わらず、皆なにかしら突き抜けてるんだなぁ」
じんじんと痛む左手の平に息を吹き掛けながら、八雲橙は八雲邸へと向かって歩いた。懐かしい空気に手を引かれながら、それでも寄り道をせずに。人里もその外郭の外を沿う様に回り道をして。懐かしい顔にも挨拶もせず。
そうして辿り着いた八雲邸は、しかし異様に静かだった。元々賑やかな場所ではなかったが、それとは異なる感覚。がらんどうとでも言うべき静けさが佇んでいた。
込み上げる不安に八雲橙はふっと屋内へと駆け込んだ。
誰も居ない。それどころか生き物の気配すら無い。
二本の尾をひくひくと震わせながら。部屋の中だけで消えてしまいそうな程小さな声で八雲紫と八雲藍の名前を呼びながら屋敷の中を歩いて回った。
外に出ているのだろう。白玉楼か香霖堂か……。きっとそうだろう。
八雲橙がそんな風にして屋内を一周してそろそろ出て行こうとした時、ふと屋の奥の方から足音がした。八雲紫の部屋からだろうか。
八雲橙は耳を凝らしながら、足音も立てずにその場所へと向かった。
誰か居る。蛻の殻だった筈の部屋に、紫様の部屋に。紫様以外の誰かが……。
八雲橙が部屋の前に辿り着くのと同時に襖が開いた。そこにいた人物に彼女は、茫然と立ち尽くした。
「随分と早かったのね。積もる話もあるでしょうけど、とりあえず付いて来なさい」
パチュリー・ノーレッジが、昔と変わらぬ姿で立って居た。そして彼女の後ろ、部屋の真ん中には光沢を帯びた白い両開きの扉が構えられていた。
茫然としている八雲橙を尻目に、パチュリー・ノーレッジは踵を返した。そして少し歩き、両手で扉をぐっと押した。
その向こうには紅魔の大図書館が広がっていた。
奥行からして物理的に存在し得ないその空間にパチュリー・ノーレッジは何の抵抗も無く踏み込んで行く。
「ほら、早く来ないと閉めるわよ?」
少し戸惑って。八雲橙はぎっと口を結んで、そして静かに二つの戸を抜けた。板間から畳、そして絨毯へ。襖戸の閉まる音と蝶番の軋む音に八雲橙はぴくんと耳を震わせた。
「お茶の用意をさせているから、好きなとこに座りなさい」
そう言いながらパチュリー・ノーレッジは扉から一番近いテーブルに着いた。それを見て八雲橙は彼女の正面の椅子に腰掛けた。
見渡せば、やはりこの場所は図書館だった。先の扉の周りにも、八雲邸の影すら見えなくなっていた。
そんな風にしている八雲橙の視界の端に、向こうの本棚の陰に二つの人影が姿を見せた。
小悪魔と○○。彼らによく似た誰かがティーカートを押して二人の方へと歩いて来た。正確に見れば、○○が押している横で小悪魔が唯々話し掛けている様だった。
テーブルまで来ると○○がティーカップ二客に紅茶を注ぎ、それぞれ八雲橙とパチュリー・ノーレッジの前に置いた。そしていたずらに文句を垂れる小悪魔を「執務室に戻ってからです」と宥めながら元来た方へと歩き去って行った。
「オートマトンよ。アリスの魔法に一手間加えた、媒介以外は人間と何ら変わらない自ら学び成長する精巧な人形。当人の血液と私の記憶を元にした性格と気質を混ぜ込んであるから、八割方本人よ」
目を丸くして○○と小悪魔の背を見送り続ける八雲橙に、聞かれてもいないのにパチュリー・ノーレッジは続けた。
「ついでで言うけど、この空間も作りものよ。咲夜の能力を真似た魔法で創った、どの空間からも浮きながらどこへでも干渉可能な高次の……。完全独立自治区域といったところかしらね」
パチュリー・ノーレッジは目の前に座る頼り無さそうな妖怪から目を逸らしつつ溜息を吐いた。そしてそのままティーカップを手に取り、紅茶を一口飲んでほうっと息を吐いた。
「何から話したら良いのかしらね。先にアナタの質問に答えても良いのだけれど」
「紫様は……今どこに……?」
八雲橙は自分の目の前に置かれたティーカップに視線を落とした。
「何とも言い難いわね。所謂、心の中で生きている、状態。それも期限付きで」
八雲橙の表情が晴れる事はなかった。彼女の言っている事は詰まりの所、八雲紫は故人である、という事なのだから当然だ。
「ただ、取り戻す、という事が絶対に出来ないという事でもないわ。件の異変を解決若しくは防止した上で八雲紫の術式が発動した瞬間まで待ち、役目を終えると同時に八雲紫の魂を引っ張り上げて適当な媒介に定着させる。一瞬でも早ければ術式がどう暴走するか分からないし、一瞬でも遅ければ最悪辻褄合わせの為に彼女の魂は消滅する。それでもそれが一番現実的な方法なんじゃないかっていうのが私の結論」
当然、彼女の頭がそんな説明で納得する筈も無く。閉口したまま、視線を落したまま。
「オツムは相変わらず。私にだって未解析な部分が多いけど、知る限りを教えて上げる。八雲紫は博麗大結界の中に居て、予め仕込んだ術式では追い切れないノイズの修正に追われているのでしょうね。あ、後半は仮説ね。何せ、私がこの部屋に来てから一度も襖戸が開いていないもの。つまり彼女は死んではいないけれど歴史から存在を除外した。もしかしたらどこかに死体が有ったのかもしれないけれど、今更風化し切っているでしょうね。で、ノイズなんか気にしなければって思うでしょ? 例えばそのノイズが蓄積した結果、霊夢の力が私達が知るモノより弱体化してしまったら? 春雪異変が解決に至らなかったら? 地霊の噴出を抑え切れなかったら? これも仮説だけど、博麗大結界が機能しなくなる可能性も有るでしょうね。そうして八雲紫が今度こそ消えれば、幻と実体の境界も無くなって幻想郷も外の世界もさようならね。逆説的に、だから八雲紫は生きていると言えなくはないわね。つまり私達は件の異変を未然に解決しながら歴史的矛盾を起こさない様に生活しなければならない。寧ろそうする事でしか正常に八雲紫を取り出せない。これで質問の答えになったでしょ?」
パチュリー・ノーレッジはふぅと息を吐いて紅茶を一口飲んだ。
「けど、私は黒幕の情報を一切持ってないわ。異変の全容も。アイツはただ、自分がしようとしている事を言ってこの部屋に幻想破壊の結界を張って引き籠る様に命令しただけ。スキマでここに放り込まれたっけ。そう言う訳だから、私に過度な期待はしないでちょうだいね。……ま、今回だけは手を貸して上げても良いけど」
それから少しして、八雲橙は徐に事の知り得る限りを話した。
異変の始まり、地霊殿までの道中での出来事、黒幕の能力、そして主人からの手紙の事。事実も主観も知る限り。
まるで災害で全てを失った人の様に彼女の表情は沈んだままだった。話せば話す程に嘆く気力も薄れるばかり。
パチュリー・ノーレッジは時々紅茶を口にしながら相槌を打つだけだった。時々には八雲橙の後方の本棚に視線をやったり、小さく欠伸をしたり。しかしそうして彼女の話が終わると、途端にパチュリー・ノーレッジは口を開いた。
「つまり、この時代に異変の禍根となる何かが有ったって事ね。ぴったり二百年で戻って来たから猶予は殆ど無いでしょうけど、精々頑張る事ね」
パチュリー・ノーレッジは空になったティーカップを見て、ふうと溜息を吐きながら手を二度叩いた。すると向こうの方から、からからと車輪の回る音が鳴り歩いて来た。
「それと話を聞く限り、特異点は最低三人はいる様ね」
「特異点……ですか……?」
「術式の影響を受けずに時間に取り残された人物の事よ。貴女と私と、八雲紫。この三人はこの時代の有るべき姿では確認できないでしょうね。と言うより、八雲藍が譫言の様に貴女や主人の名前を呼ぶのにリアクション一つ無かったから、きっとそうなのでしょうね。今は人里に買い物に行っているけれど、戻って来た時はたして貴女はどのように認識されるでしょうね。ま、接してみるだけ損じゃないんじゃないかしら?」
○○がまた小悪魔の相手をしながらティーカートを押して現れた。○○は慣れた手付きで主人と客人の前に置かれているカップをカートに乗せ、新しいカップを用意して同じ種類の葉で以て紅茶を注いだ。そして一礼し、小悪魔と共に去って行った。
「ま、そのオツムじゃ整理が追い付かないでしょうから、今はこれくらいにしましょうか。あの扉はいつでも構えて置いてあげるから、困ったらいつでもいらっしゃい」
結局表情は曇ったまま、のっそりと八雲橙は椅子から立ち上がった。そして礼を一言だけ言って背を向けた。
「パチュリーさんは……。ここにいる理由を聞いても大丈夫ですか?」
「レミィを取り戻すまでよ。それ以降は、もしかしたら紅魔館ごと外の世界に戻るかもしれないわね」
自嘲気味な乾いた笑いを耳にしながら、八雲橙は白い扉を開いて出て行った。




