焦燥
十四になって、ソフィアはエドモントとともに学院に入学した。同じ学び舎で、毎日彼の顔が見られるのは幸せなことだった。しかし一方で、それはソフィアに現実を突きつけた。彼我の貴族としての資質には、あまりの違いがあった。
以前から要領よく対人関係を築いてきたエドモントは、学院に入学してからも順調に人脈を広げていた。それもそのはず、とソフィアは彼の人懐っこい瞳を思い出す。彼は器用だ。きっと誰とでもうまくやって、出世していくのだろう。中でも、同学年の第二皇子に気に入られていることで、周囲からの彼の評価は高かった。第二皇子は皇太子にほぼ確定していると言われており、将来の皇帝の側近として目されるようになったのだ。そんな彼に、自分のような要領の悪い女はふさわしくないのではないか。自分では、彼の出世の足かせとなってしまうのではないか。そんな疑念がソフィアの心には広がっていた。
しかも、エドモントが属する、第二皇子を中心とするグループには不穏なうわさがあった。天に愛された容姿と魔力を持つ町娘、リリアナ。彼女が、貴族の中でも最高位にある第二皇子殿下とその周辺に近づき、彼らの寵を得ようと動いているらしい。そんなうわさが流れても、エドモントの態度が以前と変わることはなかった。それでも、ソフィアの胸の内は少しずつ、不安で蝕まれていった。リリアナがどんな手段を使ってか上位クラスに入りこみ、間近で彼女の姿を見るようになって、ソフィアの不安は加速した。リリアナは器用な人間だった。相手に応じて言葉を巧みに使い分け、華やかな笑顔で魅了する。多くの女子学徒からは毛嫌いされていたが、それは彼女の容姿と才を妬んでのこととしか見えなかった。ソフィアの眼にも、リリアナはたしかに魅力的な少女に見えた。
エドモントとリリアナたちと談笑する光景は、ソフィアの劣等感をいたく刺激した。リリアナのように華やかで、社交的な女性が彼の傍には似合うのかもしれない。要領の良い人間でないと、皇帝の側近の妻など務まらないだろう。どう考えても、自分はその器ではない。そんな思いが、ソフィアの心を苛んだ。
もしリリアナを憎むことができたら、楽だったのかもしれない。だが、なぜかそれはできなかった。身分と、容姿と、魔力。生まれた瞬間に決定する格差が人生を決めるこの社会で、身分という武器を持たないながらにのし上がろうとする姿が、どこかまぶしかったのだ。
自分の持たないものを持つ彼女が、確かに羨ましかった。たやすく人に近づき、その間合いに入りこみ、その笑顔を引き出す彼女を、妬ましく思わずにはいられなかった。だがその一方で、嫌うことはできなかった。リリアナは自分の見せ方を知っていた。自分の持つ武器を最大限に利用することを知っていた。リリアナは器用に立ち回ることで学院の中の地位を築いていった。それは一種の努力だと、ソフィアには思えた。貴族の少女たちの多くは、リリアナを批判した。しかしソフィアにとって、自らの場所を作ろうと努力するリリアナの行動は、生まれ持ったものを当然のものとして甘んじる周りの少女より、むしろ好ましいものと思えた。
新しい年に備えて邪気を打ち払う新年前夜の儀式。有力な貴族とその子女が一堂に会するその日、精霊殿は緊張と熱気に包まれる。その独特な空気を、ソフィアはどこか遠くから感じていた。貴族の娘として、ここでソフィアが果たすべき役割は、ただ列席して儀式を見守るというだけのものである。祭壇の傍に立ち、衆目を集めるようなことではない。それでも、異常なほどの人が参集する儀式の場は、決して好きではなかった。昨年までは気が重いだけの儀式だった。同じ場に親しい人がいるという事実だけが、心のよりどころだった。今年も気が重いことは変わりがない。だが今年は、少しばかり違う気持ちがあった。ソフィアの心を占めていたのは、もしかしたら自分が貴族としてここに来るのは最後かもしれないというそこはかとない予感だった。
エドモントの婚約者という立場を除いて、自分は貴族社会に居場所を持たない。もちろん身分としては侯爵家の娘である。しかし、自分がその役目を果たせないことは、周囲も、自分自身も、よくわかっていた。両親はソフィアに無理な期待をせず、皇都以外での居場所を探そうとしてくれていた。早い段階で地方なり軍部なりで居場所を見つけられれば、不当に見下されることもなく人生を終えることができるだろう。皇都と比べて容姿や家柄で判断されにくい地方でなら、剣術という一芸で身を立てることもできるだろう。両親はそのように考えたのだ。両親の判断は間違っていない、とソフィアは感じていた。感謝してもいた。だが、ソフィアはエドモントと出会ってしまった。家と家をつなぐという役割を負い、皇都の貴族の中に組み込まれてしまった。エドモントがいなければ、どこかの地方の学院に入学して、別の道を切り開くことになっただろう。だが、エドモントとの婚約が調って、皇都の貴族の一員として認められてしまった。
だからと言って、彼と出会わなければよかったなどとは思えない。彼がいない人生など考えられなかった。今の事態になって、当然のようにそばにいてくれた彼の存在の大きさと、何も持たない自分に気づいて、ただ呆然とするばかりだった。
もし、エドモントがリリアナを選んだなら、どうなるだろうか。ソフィアはぼんやりと考えた。そこには身分という壁がある。しかしリリアナならばそれを乗り越えることができるかもしれない。彼女の容姿と器用さは貴族社会にふさわしい、と、周囲に認めさせることができるかもしれない。自分は確かに高い身分の家に生まれた。だが、それだけだ。それだけでは、生きていけないのが皇都の貴族社会だ。エドモントの支えなしで、自分一人で、生きていくことはできるのだろうか。皇都の貴族としてはあまりに地味な容姿。話が上手いわけでもなく、誰かを言葉で喜ばせることもできない。特別賢いというわけでも、魔力が強いというわけでもない。ただ、自分を支えるものと言えば、ひたすらに打ち込んできた剣術だけだ。それだけで、自分は立てるのだろうか。今から地方へ行って生きる道を探そうとしても、皇都で居場所を見つけられなかった負け犬と見下されるのではないだろうか。
悲観的な思考は、止めようとしても次から次へと浮かんできた。いつのまにか、手袋をはめた指先が強張っていた。誰に見られているかわからないのだから何事もないようにとりつくろわなければ、と思いながら、不安にこり固まった身体は思うように動かなかった。こういうところが駄目なのだ、と、思考は劣等感のスパイラルに入りこんでいく。
ふと、隣からの視線を感じた。顔を上げることは、できなかった。