新世紀の試練 ― 鋼の結束(シンジケート)と老兵の遺言
1900年、1月1日。
ロンドン、シティにあるゴールドシュミット銀行本店。
新世紀の夜明けを告げる鐘の音が響く中、ヨシュア・ゴールドシュミットは執務室の窓辺に座っていた。
かつてアヘンの煙を算盤一つでねじ伏せた男の髪は、今や雪のように白く、その手には長年の激務を物語る震えが刻まれていた。
「ヨシュア様……。無理をなさらないでください。新世紀の祝賀は、私が代理で出席することも可能です」
サミュエルが憂慮の念を込めて声をかける。
ヨシュアは、膝の上に置かれた古びた銀の算盤を愛おしそうに撫で、微かに笑った。
「案ずるな、サミュエル。……まだだ。私の帳簿には、まだ解決せねばならぬ『歴史の繰り越し欠損』が残っている。……見てみろ、この新世紀の輝きを。人々は平和に酔いしれているが、その裏で、国家という名の怪物が、私が作り上げたインフラを戦争の毒に換えようとしている」
サミュエルが差し出した報告書には、衝撃的な数字が並んでいた。
欧州列強が「平和維持」を名目に軍事予算を倍増させ、その莫大な戦費をゴールドシュミット銀行の低利融資で賄おうとしている実態。
彼らは、ヨシュアが構築した鉄道、電信、金融網を、平和の道具ではなく「殺戮の効率化」のためのレバレッジとして悪用し始めていたのだ。
「平和に胡坐をかき、その利益を武器に換えるか。……彼らは、平和とは呼吸のように安く手に入るものだと勘違いしているらしい。サミュエル、教えを請いに来た。平和とは、絶え間ない監査と、規律ある投資によってのみ維持される、世界で最も高価な資産であることをッ!!」
ヨシュアは震える手で杖を突き、立ち上がった。
その瞳には、半世紀前に広東の海岸で見せた、あの烈火のごとき情熱が再燃していた。
ロンドンに駐在する欧州列強、アメリカ、清国の全権大使が集まる「新世紀決算会議」。シャンパングラスを傾ける大使たちに対し、ヨシュアは祝辞の代わりに一通の「二十世紀世界平和・格付け査定書」を叩きつけた。
「ゴールドシュミット殿。新世紀の幕開けに、また野暮な数字の話か? 我々の軍備増強は、貴殿が築いた安定を守るための保険に過ぎない」
英国の大使が余裕の笑みを浮かべた。
だが、ヨシュアは冷徹な数字を突きつけ、その慢心を粉砕した。
「保険だと? ……笑わせないでいただきたい。あなたがたが今行っているのは、平和という名の元本を食いつぶす『破滅への博打』だッ!!」
ヨシュアの声が、豪華な会議室を震撼させた。
「本日、私はゴールドシュミット・シンジケートの全機能をもって、**『軍事膨張ペナルティ金利』**の発動を宣言するッ!! 各国が戦艦を一隻造るごとに、国債金利を跳ね上げ、通貨価値を暴落させる。……武器を持つことが、国家の破産に直結するシステムを、たった今、全銀行網に組み込ませていただいたッ!!」
「な……ッ! 貴様、一銀行家が国家の主権を制限するなど、許されるはずがない!」
「許されないのは、あなたがたの『無責任な放漫経営』だッ!!」
ヨシュアは一歩、大使たちの前に詰め寄り、最期の力を振り絞るように叫んだ。
「やられたら、やり返す。……平和という資産を棄損し、世界を再び戦火の泥沼に引き戻そうとした罪。その報いを、あなたがた各国の『財政的去勢』という形で、一文残らず支払っていただくッ!!」
大使たちは顔面を土色に変えた。
一人の老人が構築した金融の鎖は、今や国家の主権すらも「平和の規律」の中に閉じ込める、真の神の鎖へと進化していたのである。
会議を終え、執務室に戻ったヨシュアは、力なく椅子に身を預けた。
「……サミュエル、次は宇宙と医療への投資だ。……人殺しの道具を造る余裕など、この地球上から一ペニーも残さず消し去ってやる」
ヨシュアはサミュエルを見つめ、静かに付け加えた。
「……サミュエル。……これからは、お前が私の『目』となり、この世界の帳簿を監査し続けろ。……私に残された時間は、もう長くはない」
1900年、1月。
ヨシュア・ゴールドシュミット。
一人の金貸しの執念は、自身の衰えを悟りながらも、新世紀の欲望を「規律」という名の檻に閉じ込め、人類をさらなる高みへと押し上げようとしていた。




