七、楼中の雪、舞いて命を散らす
雪友は、思いがけぬ臙児の呼びかけに面食らった。
「どうしたの? 何の用?」
「店前にぼろぼろの男の子が倒れていて、しきりに周姉さんの名前を呼んでるんです。もしかしたら、弟さんじゃないかと思うんですけれど……」
「秀格が?」
雪友の驚きは尋常で無かった。姉妹達を捨て置き、急いで階下に向かう。と、表で客寄せをしていた下女の秋鈴が、痩せきった小柄な影を抱き抱えているのを見つけた。
確かに秀格だ。間違いない。が、雪友は自分の目にしたものが信じられなかった。
弟ときたら全身泥だらけ、ついさっきまで沼にでも沈んでいたかのようだ。秋鈴にぐったり身を預け、意識があるのかないのかもはっきりしない。
雪友は血の気がすっと引いて、影に飛びついた。
「秀格、秀格!」
弟は首をかくかく揺らし、虚ろな瞳をこちらへ向けた。それから、半開きになった口から微かな声を漏らした。
「姉さん……」
雪友は両手で弟の顔を持ち上げ、食い入るように見つめた。唇が切れ、目や頬には青あざが瘤が浮かんでいる。
「どうしたの、何でこんな……」
「うちからここまで歩けなくて、車に乗ったんだ……。でも、お金が無いって車夫の叔父さんに言ったら……途中で乱暴に引きずり出されて。何度も謝ったけど、許してくれなくて。沢山、殴られて、水たまりに放り出されて……」
雪友は途中で聞いていられなくなり、わっと泣いて弟を抱きしめた。この前会った時よりも肉が無くなり、硬い骨の感触がする。彼女は身を離して言った。
「母さんは? どうしてあんたの面倒を見てくれなかったの?」
秀格はぎこちなく視線をそらして、答えない。けれども、雪友にはそれで大体の見当がついた。
あの人は! またしても同じ過ちを犯したのだ。
とにかく今は弟の身が第一だ。雪友は彼に肩を貸し、自分の部屋へ連れて行った。李能だけが残り、他の姉妹達は引き取っている。雪友が手短に事情を話すと、姉はすぐに臙児を呼んで、秀格のために食べ物と着替えを持ってくるよう命じた。仕事の早い臙児は察しをつけ、既にお湯の入った桶と綺麗な布巾、下男用の服、それと傷に塗る膏薬を用意していた。続いて李能の命令を果たしに厨房へ向かう。
雪友は自ら弟の汚れた着物を脱がせ、布巾で体を拭いてやった。殴打の痕は全身にあった。ただでさえ病弱な弟に、こんな惨い仕打ちをするなんて……。雪友は歯ぎしりした。どこの車夫か知らないが、いつか探し出し落とし前をつけてやる。
そばで膏薬を塗る手伝いをしてくれた李能が、彼女の肩へ手を置いた。
「母さんには私から話しておくわ。大丈夫。良くなるまで、ここで養生させてくれるはずよ」
雪友は感謝の言葉もなく、ただ頷いた。
しばらくして、臙児が温かいお粥を持ってきてくれた。お腹が余程空いていたのだろう、秀格はあっという間にたいらげてしまった。雪友は自室にあったお菓子や果物を与え、それとなく尋ねた。
「ねえ、母さんはどうしたの?」
弟は菓子を頬張る手を止め、伏し目がちにもごもごと答えた。
「出てったよ」
「あんたを置いて? 何故?」
「……賭場で、大負けしたって」
やっぱり。雪友は苛立ち紛れに、大きく息を吐き出した。
「どこへ行くか、言ってなかった?」
秀格は首を振った。
恐らく、借金取りを恐れて雲隠れしたのだろう。雪友はうんざりした。こうなっては当分家に帰ってこないし、負債も自分が肩代わりするしかない。
しばらくして、楓娘が見舞いに来てくれた。
「これがねえやの弟さん? 沢山ぶたれて可哀想に」
優しく声をかけると、持ってきた飴菓子を渡してやる。美しく着飾った楓娘の姿を前にして、弟はちょっと頬を赤らめた。
「ねえや、困ったことがあったら何でも言ってね。あたし、力になるから」
「ありがとう」
楓娘は来客があるので、また出て行った。雪友は弟を寝かせ、朝まで看病した。
うとうとしかけていたところに、女将がやってきた。
「お前って子は、次から次へと厄介を抱え込んで、一体どうするつもりなの。弟だろうが妹だろうが、うちに長くは置いておけないからね」
「でも、おかあさん。弟は怪我してるんです。家に戻しても誰もいませんし、看病が出来ません。お願いです。お金なら何とかしますし、商売の邪魔にならないように気をつけますから……」
「ふん……。じゃ、お前が全て自分で責任を負うっていうのね? それが出来るって?」
相手の声に妥協を感じ取り、雪友は勢い込んで頷いた。
「はい、はい。そうします」
「弟の食い扶持は全部あなたの稼ぎから出し、商売はきちんとやる。そういうことね?」
「もちろんです」
「いいわ。姉妹達も、あんたの好きにさせたらいいとうるさいからね。ただし、約束を守れなかったら、すぐにあんなお荷物は追い出すわよ」
女将は鼻を鳴らして出て行った。
雪友はひとまず、胸をなで下ろした。もともと弟を瑞烟楼に連れてくるのは計画のうちだ。ここで育てる方が、母のところにいるよりずっといいに決まってる。幸い、こうして女将の許しも得た。
ここ最近、殆ど仕事に身が入らなかったが、新たな目標が生まれたおかげで彼女の気持ちも変わり始めた。うんと稼いで、弟が安心して暮らせるようにしよう。そして学問をやらせて、将来は立派なお役人になってもらおう……。
七日も過ぎると、秀格の具合は大分よくなった。昼間は雪友の部屋で過ごしたが、夜は客が来るのでそういうわけにもいかない。雪友はへそくりから十両ばかり出して、厨房の奥に簡素な寝床を作り、そこで夜を過ごすよう弟に言いつけた。
姉妹達はみんな、弟の境遇に同情し、よくしてくれた。お菓子をあげたり、遊び相手になったり、面白い話で気を紛らわせたり。下女達も、厨房で料理や果物の余りものがあったら与えてやり、少しずつ小銭を出し合って、玩具を買ったりしてくれる。
しかし、あまり甘やかされるのも困る。弟が回復すると、雪友は早速勉強の環境をととのえることにした。
彼女の客には、科挙の受験者が何人もいる。どんな風に勉強してきたか、何をやればいいか教えてもらうと、四書五経の本を用意し、日中はひたすら読書と書写をやらせた。
秀格も最初の四、五日は真面目に励んだ。しかし、徐々に嫌気がさしてきたのか、読書の進みが遅くなり、字も書かず長々墨を刷り続けるだけになった。雪友は夜中働き通しなので、朝に寝て昼間に起きる日々だ。じっくり弟の勉強を見てやれる時間は、店が開く前の夕方くらいしかない。本当なら家塾教師を雇うのべきなのだろうが、生憎それだけの金は無い。
その日、午後過ぎに目が覚めた雪友は、秀格が『中庸』の本を卓上へ放り出し、竹製の馬の玩具を玩んでいるのを見つけ、思わずかっとなった。
「あんた、本も読まずに遊んでたの?」
弟は起きてきた彼女を見てぎょっとなり、玩具を背中に隠した。
「ごめんなさい」
「ここには、ただで置いてあげてるわけじゃないんだからね。ご飯も食べるし、休める場所もあるんだから、勉強はちゃんとやるのよ」
「うん……」
「あんたのためなんだから」
「わかってるよ」弟はうなだれたまま言った。「ねえ、家にはいつ帰れるの? 母さん、戻ってきてるんじゃないかな」
雪友は頭を殴られたような衝撃を受けた。
「家ですって? あんた……まさかあそこへ帰りたいって?」
顔を背けた秀格は、もごもごと何か言った。寝起きなこともあって、雪友はいよいよ苛立ちが増した。
「何よ。何が言いたいの?」
「母さんなら、勉強なんかしなくていいって言うよ」
「馬鹿ね! あなたは男でしょ。勉強もしないで、どうやって身を立てるつもりなの? ただでさえ父親もいなくて、おまけに妓女の子供じゃ、世間はまともな仕事なんか与えてくれないわ。だから、学問をやらなくちゃ駄目でしょ? それとも、まさか一生、この私の稼ぎで食べてくつもり? そんなの許さないわよ!」
「母さんは一生、僕の面倒を見てくれるって……」
「あの人のことはもう言わないで! 間違ってるのよ、何もかも! 口ではあんたを大事にしてるなんて言うけれど、病気になっても放っておいたじゃない! 面倒を見るなんてデタラメよ。賭博なんかで稼いでたくせに!」
語気を荒げて言い返すと、弟は目の縁を赤らめて、ぼそぼそと答えた。
「姉さんは……ご飯も休むところもくれるけど……ちっとも僕に優しくしてくれないよ。そっちの方が辛いよ」
雪友がどきりとした矢先、楓娘が神妙な面持ちで部屋に入ってきた。
「周ねえや、どうかしたの?」
「ああ、うん」雪友は咄嗟に顔色を繕い、動揺を隠した。「ちょっと叱ってただけ。この子、勉強したくないって言うものだから」
「あはは、ねえや。弟さんはまだ十四歳でしょ。勉強なんて焦ることないよ」
「駄目。ちゃんとした家の教育じゃ、四、五歳から四書五経を読み始めて、十歳には対句だって作れるのに。受験じゃ、そういう人達と競うことになるのよ」
「ねえや、弟さんはついこの前まで大怪我してたんだよ。病み上がりで勉強させて、また具合でも悪くなったらよくないよ」
楓娘はにこにこしながらなだめてきた。雪友は口出しされたのに腹が立った。この妹分には、状況の深刻さがわかっていないのだ。
「あなたに関わってもらうようなことじゃない。これは私の家の問題なんだから」
「あらまあ、ここは弟さんの家じゃないわ。だから無茶を言っちゃだめよ」
「屁理屈はよして! 私の言いたいことはわかってるでしょ!」
「はい、はい。怒鳴らないで。ねえやの気持ちはちゃんとわかってるよ。だけどいらいらしたって始まらないじゃない? 私達も、一人前の妓女になるには何年もかかったんだから」
「ふん。かあさんは、私達を毎日散々しごいてたわ。同じことをやってるだけよ」
「だけどねえやは、かあさんのやり方、好きじゃなかったでしょ。自分がやられて嫌なことを、弟さんにやったら、可哀想よ」
やりこめられて、雪友は憮然と腕を組んだ。苛立たしげに指をとんとん鳴らして、反撃の言葉を考える。自分の方が正しいはずなのに、何だか妹分の言葉に道理があるような気がしてならなかった。
雪友を尻目に、楓娘が弟へ優しく声をかけた。
「ね、お姉ちゃんと囲碁で遊ばない?」
「僕……やったことない」
「教えてあげる。すぐ出来るよ。あなた賢いんだから!」
「うん!」
――駄目! 勝手な真似しないで!
怒鳴りそうになった雪友だったが、弟の瞳が喜びに輝くのを見た途端、声が喉元で止まった。自分と一緒にいる時は、ついぞこんな嬉しそうな顔をした試しがない。