20:軽蔑していた過信
何を思ったのか台風が通過する二日程前に東風が吹く気圧配置になっているのを見て、俺は久々に海へ出かけようと思った。
岬の突端に近い堤防と岩場の間にある、僅か30m程の小さな砂浜が、東風が吹くときの俺の好んで使う出艇場所だった。
「うわ、ウサギが跳んでる」
ウサギというのは、波のトップが風に煽られて白く見える状態のことだ。
このウサギの数が多ければ、当然風が強いと言う事になる。
真琴さんから譲り受けたウィンドサーフィンの道具を満載したワンボックスカーを海岸の土手に乗り入れて、道具を降ろす前に海の様子を確認してみた。
ここまでは、いつも通りの手順だ。
東の風は湾の奥になる右手方向から吹いていて、左手方向が湾の出口になる。
湾の奥から外洋に向かって吹く東風が丁度サイドショアになる位置というのが、俺の居る岬の手前にある小さなビーチだった。
ここに来ると、 かつてウィンドサーフィンを始めたばかりの頃に、ここで救助された事を思い出す。
ワンボックスカーから降りて風を右半身に受けると、感じる風圧で今日は特に吹いている事が再認識される。
風はそれなりに吹いているが、ここ2年ほどは数えるほどしか海に出ていなかったので風の具合に自分の感覚が着いてこない。
と言うか、その判断に少しばかり自信が持てないでいた。
当然のように、今日使用するセイルのエリア(面積)をどうしようかという重要な判断に迷いが出る事になる。
湾の入り口(左)から湾の奥(右)に向かって入ってくる波が、湾の奥(陸地)から入り口(沖)に向かって吹くオフショアの風に潰されて大きくなれずにいるため、一見すると波がそれ程荒いようには見えない。
尤も、沖で飛んでいる白波の数を見れば風が強いのであろう事は素人目にも判るの。
兎に角、久々に滑走したいという俺の想いが判断を誤らせた。
ウィンドをやっていない人が強いねと言い始める程度の風の強さでは、実はボードを滑走させるには少しばかり足りない。
久々の海でその感覚の差を意識し過ぎた事も、俺に判断を誤らせた要因の一つだった。
プレーニングに飢えていた俺は、確実にプレーニングするであろう大きめのセイルを選択する。
セイルサイズは6.5平方メートル、ウィンドをやっている人の感覚で少し吹き始めたかなという程度で使うセイルでもある。
当然やっていない人にとっては、かなり吹いていると感じる風速でもある。
さすがにあと二日後には台風が日本列島に最接近すると言うだけあって、その日の風はそれなりに強いと感じるものだった。
しかし、何を勘違いしたのか俺はその風を大幅に過小評価してしまったのだ。
オーバーセイルと呼ぶ、セイルサイズに対して風が強すぎる事を評する言葉があるが、それくらいの間違いは腕で吸収出来るという長いキャリアに裏付けられたと俺が思い込んでいた『過信』があった事は否めない。
なんとしてもプレーニングをして、色んなモヤモヤとかストレスを発散したかった俺は、あろう事か欲を掻いてセイルのセッティングも普段よりもパワー重視のものにしてしまう。
そして、それも俺の間違いに拍車を掛けていた。
すべてが、悪い方へと転がって行く典型だったのかもしれない。
悪魔に魅入られたというのは、こういう事を言うのかもしれない。
冷静に考えればするはずのない事を自分が連続して選択している事にすら、自分で気付いていないという状態に、俺はなっていた。
何かに駆り立てられるように海に出ようと急いでセッティングをパワー重視に変えたのだが、パワーを得るために翼形を深めにしたセイルの風圧中心は通常よりマスト側に移る。
当然、いつもの位置にセットしてあるハーネスラインの位置もそれに合わせて前に移動させるべきなのだが、毎回チキンと神経質に合わせているその調整を逸る気持ちが怠らせた。
結果論として考えれば、セイルサイズは5平方メートル前後で充分だった。
風を読み間違えたのが最初の致命的なミス。
そこから全てが悪い方へと転がって行く。
もしも風が強いと踏んでいたのなら、セイルのサイズを落としてドラフトは浅めにして、上部先端部分の風下側輪郭部分はテンションを緩めにして、過度な風はセイルが開いて逃がすようにセットアップしていたはずなのだ。
いや、適切なセイルのエリアを選択していれば、それすらも必要が無い初歩的な事なのだ。
海に出た場所は小さな岬になっていて、数10m外れれば岸には戻れないが、戻る自信は経験上充分に有った。
いや、もっと強い風でも楽しく乗れていたという経験もあった。
そして俺は油断した…… いや、過信をしたのだった。
出る場所は幅が10mくらいしかない、当然帰る場所もピンポイントだ。
それだって、経験上まったく問題は無い(はずだった)。
風が強い方が速度も出て風上には上り易い(はずだった)。
白波の立つ海だって慣れていた。
風が見た目程強くないと判断したので、当然ボードは245cmのフラットボトムでデッキに厚みがあって幅もあり、浮力のある物をチョイスしてしまう。
これは平水面では爆発的な加速と最高速度を誇るボードだが、現実的には波の荒い強風下では暴れて少々使い難いボードになってしまうのだ。
風が強いと踏んでいたら別の223cmの小さく細くて薄い、浮力の小さなボードをチョイスしていたはずだった。
しかし、平水面を風上に登るという条件に拘る余りに、俺は条件反射的にそのボードを選択していた。
沖に出て、すぐに俺は後悔した。
しかし、キャリアの長さと経験で対処出来ると無理矢理に自分を納得させて、そのまま暴れるボードを湾の対岸へ向けて走り続けた。
右手方向から海面がざわつくように黒く変色して近付いてくるのが、沈をして水面から顔を出している俺にもハッキリと見える。
突風が来たのだ。
水中に首まで浸かった状態から風がセイルに発生させる揚力を利用してボードに乗る「ウォータースタート」の体勢を作るが、ドラフトを深くしたセイルは自らの揚力で浮き上がろうとして持ち上がり、風に対する角度が変わると風に押しつぶされて海面に叩きつけられる。
セイルがコントロールできず、上下にバタバタと暴れ出していた。
想像以上に風が強い……
おまけにセッティングも最悪だ。
出てきた岸はかなり遠くに小さく見える。
かなり風上に登らなければ帰れそうもないように見えるが、普段なら難なく帰れる角度でもある。
しかし、今日はそれがとても遠くに見える。
風の強弱を読んでブローとブローの合間を狙って走り出そうと水中に首まで浸かったままでブームを握って待つ。
そうしている間にも、見る見る沖に自分が流れて行くのが判る。
見ている間に、出てきた岸が左(風上側)へと動いて行くのだ。
しかし、ここで焦ってはいけないと自分に言い聞かせるが、焦った俺はウォータースタートを二回失敗してしまう。
風に煽られて水中から一気に引っこ抜かれたまま、反対側の海面へとセイルごと叩きつけられる。
必死でブームを離さないように握り締めて、なんとかセイルを手放さずに済んだ。
以前、この状況でブームに胸をぶつけて肋骨にヒビが入ったこともあるが、命綱でもあるブームを離すことはできない。
この状況でボードが体から離れたら、あっという間に風に吹き飛ばされて沖に消えていってしまうからである。
それだけの風が吹いているのだ。
俺は素直に自分の過信と、その事実を認める事にした。
もしもボードを手放してしまえば、俺は荒れている海の中で自分の体ひとつになってしまうのだ。
ライフジャケットを身に着けているとは言え、この天候の中で流石に生きて帰る自信はない……
俺の脳裏に遥香の笑顔と心配そうな顔が交互に浮かんでは消える。
なんとしても帰らなければ、そう心を新たにして深呼吸を繰り返した。
焦ってはいないつもりだったが、これは焦っているなと自問自答する。
出てきた岸は、どんどん遠くなるが静かに時を待つ事にした。
絶えず吹き飛ばされそうな突風が襲ってくる訳では無いから、冷静に風上側の海面を見て風の強弱を読み、水中からセイルを操作して僅かに風を入れる。
セイルの下にも風が入り、ふわりと水面から空中に軽く浮かび上がる。
ボードの上に立ったときに吹き飛ばされないよう、初めからボードのフットストラップには両足を入れている。
セイルの操作とストラップに入れた足の力加減だけでボードの向きをコントロールできるからこその、応用テクニックでもある。
バン!とセイルが風をはらんだ瞬間に、俺の姿は海中から引き抜かれてボードの上に移動していた。
セイルを引き込んでもいないのに、たちまち自分の意志に反して爆走を始めるボード。
まだハーネスも引っかけていないから充分に踏ん張れないと言うのに、それでも完全にプレーニングさせるだけの風が吹いている事になるのだ。
振り落とされないように一旦セイルを開いて風を受けないようにしてからハーネスをフックに引っかけて体勢を作り直し、セイルを初めて引き込む。
何とか少しでも風上に上がろうと試みるが、調整し直したハーネスを使ってすら、握力を浪費して既に力が入らない腕ではコントロールのためにブームを握り込めずに添えるだけしか出来ない。
無理に元来た場所に行くのは諦めて、岸に着く事を優先する事にした。
兎に角、岸に帰ることを最優先にしよう、そう気持ちを切り替えたのだ。
そうは言っても、海中に居る間に確実に沖に流されていて、今目の前に見える岬の突端を過ぎればその先に岸はもう無い……
セイルを少し開き、揚力を減らして腕の負担が少ないようにする。
しかし、それでもボードはプレーニングを続けて爆走を続けていた。
気持ちを更に切り替えて、スピードを利用して風を抜いたままボードの慣性力だけで風上に切れ上がる。
弧の大きな風上旋回の応用だ。
目標は岬の先端の岩場に切り替えた。
実のところ、そこしか現実的にたどり着ける場所は無かったのだ。
通常なら岩場なんて波があれば叩きつけられて簡単にミンチになるのが関の山だが、風向きが台風のうねりを潰す方向に吹いているので、大きな波も無くなんとかなりそうだと判断した。
ボードは最悪諦める必要があるが、覚悟は決めた。
道具は大切だが、お金を出して買える物に拘って命を落としては本末転倒である。
何よりも、遥香の元に帰る事が最優先なのだ。




