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イロニーアイス 3




 白桃のような肌を目で追っていた。

 冬の暖衣に身を包み、マフラーを結び直しながら歩いている高校生たちのスカートから伸びた足は、長細くて白い。三朗の視線は、それとは真逆のものを猛烈に求め、さ迷った。もっと恥じらいが欲しい。そう願った時、三朗の眼孔が焦点を定めた。

 向かい側からひとりで歩いてくる、ブレザー姿の女子高生。ボタンを留めずに、やぼったい群青色のコートをはおり、陰鬱に目線を足もとに落としている。膝丈のスカートが、少女のふっくらとしたふくらはぎに当たってまどろっこしそうに揺れていた。

 その時、突然ひやっとするものに手首を掴まれた。気付くと、曖栖の小さな手が三朗を引っ張っていた。

「止まらないでくれる? 横断歩道の真ん中で」

「……悪いね。少し疲れただけだよ」

「冗談言わないで。駅に着いてから、まだ五分も歩いてないわ」

「許してくれ。人混みは苦手なんだ」

「可哀相に。本人の異常趣味による、対人恐怖症だものね」

 通行人の少女に見とれていたことを遠まわしに指摘されてしまい、その威圧感から逃れようと三朗は天を仰いだ。

 十二月上旬の寒空の下で、くすぶるように焼けきらない雲は、黒く深みを増していた。まだ夕刻なのに空は薄暗い。本格的な冬の到来だ。

 人通りの激しい交差点を、ふたりは川の流水に沿わない二匹のように、ゆったりと歩いている。

「それにしても、お嬢ちゃん」

「なに?」

 手を繋いでいるとデートみたいじゃないか。それとも親子に見えるのかな。どちらにしても良い気分がしない。きみのような女の子との関係を、道行く他人に勝手に想像されるなど――。

 頭にぽんぽんと言葉が湧き上がるが、三朗はそれのどれも口にしなかった。話しかけてしまった手前、なんとか会話を続ける。

「……冷たい手だね。寒くない?」

「平気。わたし、人形だから寒くない」

「うわあ、ものすごくつまらない冗談だ。思わず引いたよ」

 曖栖は横顔を向けたまま、表情を変えずに言った。

「引かせたのよ」

「……ええと、ところでお嬢ちゃんはどんな服がいいんだい?」

 三朗は少女の無敗を静かに認めた。

 横断歩道を渡り切ると、パルコのビルが見えてくる。入り口の前は円柱で支えられた大きな天井があり、その下には少年少女たちがわらわらと集っていた。若者のグループやカップルばかりがいるこういった場所は自分に不似合いだと思うが、仕方ない。三朗は早いところ、曖栖に普通の子供らしい服を着てもらいたいのだ。

「そうね……そう言われても、よくわからないのよ。今までずっと、相手のおじさんの好みに従ってきたから、自分で服を選んだことないし」

「そうか……」

 世間の女の子たちは、母親や友達と一緒にあれこれ悩みながら買い物をし、ファッションを楽しんでいる。その若さでこんなにも摩れてしまった曖栖に、普通の女の子が当たり前のように持っている楽しみを味わってもらいたい。

「じゃあ、ぼくも一緒に選ぶよ」

 歩調が遅いのに気付いて三朗が振り向くと、曖栖は少し青ざめ、立ち尽くしたまま額を抑えていた。

「お嬢ちゃん、大丈夫かい? 人混みに酔った?」

「そんなんじゃない」

 曖栖は即座に否定した。人混みに酔ったにしては顔色が悪い。

「休んだ方がいい。ベンチに横に――」

「大丈夫よ」

「でも」

 しかし曖栖は顔を背け、ふらふらとした足取りで三朗から離れようとした。三朗は後ろから曖栖の肩を掴んで支えたが、すぐに小さな手に振り払われる。曖栖の鋭い視線が斜めに光っていた。

「いいから。着いて来ないで。お手洗いに行って来る」

「……あ、うん」

 強い口調で言われ、三朗が足を止める。曖栖は足早にパルコの建物に入って、姿を消した。

 ここは追いかけない方がいいだろうと判断し、三朗は混み合っている入り口付近にいた。しかし、やがて彼はビルに背を向け、動き出していた。無視できない会話がすぐ近くから聞こえて来たのだ。



       *

 

 

 表通りを脇に逸れた狭い坂道に、喫茶店やファッション雑貨店が軒を連ねるなだらかな通りがある。そこで、幼い少女が怪しいキャッチに掴まっていた。

「ねえ、これからおねえさんと、どっか遊びに行かないかな? 友達、いっぱい紹介してあげるよ」

 そう言って少女の行く手を阻んでいるのは、三朗にとってみれば年端もいかない女子高校生だ。

 染色していない黒々とした髪を小さくまとめ、前髪を両サイドの頬に流している。茶色のピーコートは地味で、スカート丈も目をあてられないような短さではなかった。スレンダーな足は、黒のハイソックスでさらにゴボウ足が強調されている。化粧っけのない顔を見ると、遊び呆けていそうな印象は受けない。

 それでも一方的に喋りかけられて、小学生の少女は恐縮していた。ランドセルを背負った肩を縮込ませ、半歩ずつ後ろに下がっている。

「みんなでゲームしたりするんだよ。すっごい楽しいよ。ねえ、どうかな? それに一緒に遊ぶだけで、お小遣いあげる――」

 ぐ、と喉を詰まらせて、女子高生が言葉を途中で飲み込んだ。少女が驚いて目を見張り、後ろから女子高生のブレザーの襟首をつまんでいる三朗を見ていた。三朗が手を離すと、女子高生は襟を直しながら振り向いてくる。

「え。なんですか?」

「小さい子供相手に、なにをやってるんだよ」

「えー、なにと言われても……。バイト、ですけど」

「小学生を誘拐するバイトかい?」

「誘拐ってわけじゃ……」

 女子高生は笑いを浮かべながらも、眉をしかめていた。通学鞄に付いている星型キーホルダーを鳴らしながら、手を持ちかえる。そのあいだに拘束を逃れた少女は、そそくさと駅の方向へと向かっていった。その後ろ姿が消えるのを確認してから、三朗は女子高生の真正面に身体を向けた。

「ねえ、きみ。遊ぶだけで小遣いがもらえるなんて、そんなバカな話があるのか?」

「えー。あたしは、店のマニュアルに沿ってやってるだけだしなあ……仕事中なんで、ごめんなさい。じゃあ」

 小声で断ると迷惑そうに三朗から離れ、女子高生はぶらぶらと歩き始めた。三朗は彼女のあとに付いて、彼女の視線をなぞるように追った。彼女は道行く人を注意深く観察していた。年齢が幼くなればなるほど、より慎重に見つめている。

 しばらく追い続けていると、やがて女子高生は諦めたように三朗に振り返って、心配そうにこう訊いた。

「あのー、もしかして、少年係かなにかの方ですか?」

「え?」

「つまり、パトロール中の、私服警官?」

「いや――ちがうちがう。とんでもない」

「なんだあ。びっくりしたぁ」

 少女は子犬を撫でているような優しげな笑みを浮かべた。遠くで見ると皆同じような顔に見えて、なにを考えているのかわからない制服姿の少女は、近くで見ても実はよくわからないのだが――笑顔を見る限りでは、悪い子ではなさそうだった。

「ぼくはそんな立派な者じゃない。でも、きみがなにをしているのか気になって……」

「大したことはしてないです。ただの雑用ですよ。次世代の人材発掘っていうか……まあ、ぶっちゃけて言うと、デートクラブで働いてくれる女の子の、勧誘です」

「どうしてそんなことを?」

「暇だからです」

 女子高生は包み隠さずに実情を喋り出した。

「あたし、デートクラブの会員なんですけど、最近は、誰からも指名されないんです。それは、あたしに限ったことじゃなくて、女子高生の子は、全体的に人気が低迷してて……それで、こうやって、べつにやりたくもない仕事をやってるんです」

 彼女が正直に、言い難そうなことまであっさりと口に出してくるので、三朗はくちばしで鼻の頭を突付かれたように面食らっていた。賑やかな街中で、話し相手がいないよりはマシなのだろうか。

「じゃあ、なんで小学生を?」

「もちろん、今このへんで、小中学生がいちばん儲かるからですけど……。今の時代、おしゃれのためにお金が欲しい小学生は、いっぱいいます。小学生ブランドの高い洋服も、たくさんあるし……要するに、ませてる子が多いんですよ。妙に色気づいてるっていうか。あたしはそういうの、あんまりいいとは思いませんけど……だって、あたしなんて髪黒いし、派手なお化粧とかも、好きじゃないから」

 じゃあ、なんでデートクラブなんか――と三朗は言おうとしたが、それは偏見なのかも知れないと気付いた。援助交際をする女の子が全員、三朗が目を覆いたくなるほどの不衛生な暮らしをしているとは限らない。三朗は、マスコミがつくりあげた女子高生の漠然とした悪いイメージを念頭に置いて考えているだけで、現場は知らないのだ。

「でもそのおかげで、あたし、あんまり小さい子に警戒されないんです。だから、ロリータをスカウトすることに関しては最適な人材だって、店長が言ってました」

 肩をすくめて、その女子高生は困ったように薄く笑った。

 彼女によればデートクラブの紹介料の相場として、高校生が二万、中学生が六万、そして小学生ともなれば十万は軽く取れるそうだ。小学生が自らの意思でデートクラブに来るとは考えにくいが、こうして女子高生をあいだに入れて油断させ、裏町のアイドルに仕立て上げてしまうという。

「ここらへんに、『りんご姫』ってあだ名の女の子がいるんです。十四歳で、その手の趣味の男性たちに、大人気なんですけど、噂だと、紹介料が十五万らしいです。確かに、可愛い子なんですけど……ちょっと異常だな。ロリータが人気あるせいで、あたしみたいな女子高生の株は、下がりっぱなしなんです。これは週刊誌で読んだだけですが、男性たちの中で、女子高生が清純っていうイメージが死滅しちゃって、清純さを求めて、幼い子に乗り移ってるらしいです。なんだかなあって話ですけど」

「あのさ……」

「はい?」

 三朗はなにかを言おうとしたが、言葉が出てこない。少女は不思議そうにこちらを見ている。どこにでもいそうな、平面顔の小柄な少女だ。幼さが残る一重の瞳に見つめられ、思わず三朗は頭をかいて目を逸らした。

 一日だけでも彼女の悪事を止める方法が、あった。


 十七歳のその女の子は、ナツと名乗った。

「ナツっていうのは、源氏名なんですけど、けっこう気に入ってます。本名より好きかも」

 ナツは街に慣れていない三朗を案内するために、ゆっくりと遊びスポットを歩いた。

 地下に潜ったところにあるゲームセンターに行き、彼女はUFOキャッチャーを一回だけやり、かすりもせずにパンダ捕りに失敗した。三朗も勧められて挑戦したが、惜しいところでクレーンから落してしまった。

「ゲーセンは、一日百円が相場です。はまると、最後なんで」

「そうなんだ? 知らなかった」

 ナツに従って、あとは眺めて回るだけで店を出た。

 次は、お気に入りだというファッションブランドPOWER PLANTに入った。新入荷のセーターの配色をチェックしたあと、ナツは手帳を取り出して、次の給料日を確認して残念そうにつぶやく。

「あと十日か。はぁ」

「倹約家だね、なっちゃんは」

「そうですか? でも、いくらお金があっても、欲しいもの全部買っちゃうのって、なんだか怖いっていうか、味気ないじゃないですか。だから、欲しいものを我慢して貯金するのが、趣味なんです」

「貯金が趣味?」

 こくりとナツは頷いた。

「ヘンですか?」

 外に出ると、花屋の並びにクレープ屋があった。ナツがプリンアラモードを頼んだついでに、三朗はイチゴとチョコがはさんであるクレープを食べることにした。

 クレープの食べ歩きなど、まるで高校生に戻ったようで気恥ずかしかった。でもよく考えると自分は高校時代、学校帰りにクレープを食べたことなど一度もない。子供と接するとこういう不思議な体験ができる。

 ナツは上品に小口でクレープの薄皮をかじりながら、お客である三朗に尋ねてきた。

「そうだ。名前。あなたの名前、なんていうんですか?」

「ぼくは……雨野。雨野三朗」

「三朗さんか。じゃあ『さぶちゃん』とか、呼ばれてるんですか?」

「呼ばれてないよ」

 真顔で尋ねられ、三朗は苦笑した。

 れっきとした女子高生と長い前髪がむさくるしい中年男の組み合わせは、当然のように人目を引いた。流れが早い人の波についていけず、思うようにすいすいと歩けない三朗を導くように、ナツは彼の右側に陣取っている。

「どこか行きたいところ、ありますか?」

 ナツは、まさか援助交際をしているとは思えない品のある微笑みを送ってくる。その笑顔の裏にあるものがどうしても読み取れない。

 そんな折、声がかけられた。

「また男の人を、ぼったくってんの?」

 驚くほどに顔の小さな少女が、三朗たちふたりを冷ややかな目で見ていた。体型に合わない重そうな鞄を持っている、セーラー服姿の中学生だった。

 ナツの表情から、柔らかさが一瞬にして失われる。

「あんたには関係ない」

「いい加減にしたら?」

「ほっといて。今日も塾でしょ? 早く自習室に行かないと、席が埋まるよ」

「あのね、お姉ちゃん。ほんとにそんなんで、大学に行けるの? お父さんがそのための費用を貯めてるの、知ってるでしょ。いいかげん、真面目に勉強しなよ」

「いいの。あたし、あんたとは違うの」

「いくら違うって言ってもさ、好きでもない男の人と遊んでお金をもらうのが、そんなに楽しいの? 普通の恋愛できなくなっちゃうかもよ。彼氏はお金なんかくれないよ」

「知ってる。言われなくてもそんなこと、わかってる。七美は自分が正しいと思うことしてなよ。でもあたしは、これでいいの」

「あと何年持つかな」

 独り言のような小さな言葉に、ナツの気迫が大きく膨れていた。堂々たる態度の少女に、ナツは鋭く視線をぶつける。

「……なにが言いたいの?」 

「べつに」

 ナツの妹らしい七美という少女は、素っ気なく視線を逸らした。三朗はなけなしの金をはたいて女子高生を買い、その妹を呆れさせている。彼は急に自分が情けなくなってきた。

「――違うんだ。ぼくはこんなことしたいんじゃない」

 三朗は姉妹のあいだに立ち、ふたりに向かって力説していた。

「この子を買ったのは、拘束するためだ。もうこの子が、罪のない少女を誘拐しないように!」

 三朗が白状すると、ナツはなにを言われたかわからないというようにぼうぜんと目を見開いていた。三朗はナツに詰め寄り、なで肩の小さな肩をがっしりと掴む。

「こんなバイトはやめるんだ。きみを説教するつもりはない。デートクラブで男とデートすることなら、まあ高校生なら自覚はあるだろうから止めはしない。でも、誘拐だけは」

 三朗は恥を棄てて懇願した。もとより彼にプライドなどない。少女たちを守るためならなんだってできる。女子高生に頭を下げることだってできるのだ。

 ナツは困ったように視線を泳がせ、妹の七美に向けたが、妹はもう見る価値もないと判断したのか、横を素通りしていった。あるいは単純に時間が来て、学習塾に向かっただけかも知れないが。

 ナツに視線を戻すと、彼女はどこか哀れみの念を含めて三朗に笑った。

「だからあの……誘拐じゃなくて、スカウト……」

「やっていることは、同じようなものだろう。きみ、罪悪感ってものはないの?」

「罪悪感……」

 ナツはつぶやくと、三朗の傍からうまくすり抜け、通りをひとりでに歩き出した。後れ毛が左右に動くナツの後ろ姿を、三朗は慌てて追いかける。

「待ってよ、なっちゃん」

「三朗さん。あたしはそんなに立派な感情、持ち合わせてないんです。ごめんなさい。悪いことだとは思うけど、でも、そんなものに引っかかる子供たちのほうが、悪いっていうか……。ああ、この子たちバカだなあ、とか、突き放したような気持ちで思うし。小さい頃から男の人にチヤホヤされて、お金を貢がれてたら、泥沼にはまる……そんな生活してて、いつか売れなくなって儲からなくなったとき、そのギャップについていけなくなって、たぶん、あたしみたいになるんだろうな、みたいな……そんなふうに思って、ああ、バカだなあ、って。でもきっとこうなるまで、この子たちは気付かないんだろうなって……あたしみたいに」

 ナツは進行方向をぼんやりと眺めている。妹が消えていった方角だ。彼女は絶句している三朗に続けて言った。

「妹のことを考えるんです。よく。あの子だったら、とても可愛いから、この街ではきっとすぐに人気者になるんだろうな、とか。でも、この世界には来て欲しくない。あたしみたいにならないで欲しいから。だからあたしが、あの子を守らないと。あたしを遠くから見てることで、あの子はこの世界を毛嫌いしてますからね。でも、あたしって、矛盾してる。妹を守りたいと思うけど……それと同じくらい、この虚しさを思い知らせてやりたいとも、思う」

 ナツは寂しげに、薄く笑った。自嘲とも違う、自分でどう判断していいかわからない感情を抱えている。

「妹に援交をとがめられると……すごい、ムカつく。だって、もうあたしは、求められることでしか、生きられない。でももう、誰も、あたしを必要となんてしてないんです。とはいっても、もともと、あたしを本当に求めてる人なんて誰もいなくて、あたしは、なにかの代用品のようなものだったんですけど……」

 喉の痞えを一時的にでも消し去るための名案だったのに、胸のしこりはまた肥大していた。

 

  

 食後のブラック珈琲をゆっくりと啜るナツは、食べる時間が人の二倍はかかる三朗に言った。

「おもしろい食べ方ですね」

「そうかな?」

 箸先でつまんでいたマカロニを何度もこぼれ落としている三朗の箸使いを、ナツはじっと観察していた。

「菜食主義なんですか?」

「野菜が一番うまいじゃないか」

 魚も肉も好きではない三朗の好物は、卵料理と緑黄色野菜と豆類だった。焼肉もしゃぶしゃぶも寿司も好きではないと告げると、ナツは感心していた。

「三朗さん、お坊さんみたいですね」

 前髪に触れたあとナツはなにげない仕草で腕まくりをした。暖房が効いていて暑いようだ。おとなしい印象のナツだが、この店に入ってからは妙にそわそわと落ち着きがない。

「あ」

 小さくつぶやくと、彼女は鞄から携帯電話を取り出した。しばらく携帯の液晶画面を見つめる。そして彼女は決意を下すそぶりもないまま、八割も水で埋まったコップの中にそれを落下させた。

 どぷん、と水中に機体をうずめる。

 気持ちいいくらいにあっけなく沈む携帯電話機を見て、三朗は唖然とする。

「……いいの? 壊れちゃわない?」

「いいんです。どうでもいいメールは、うるさいから」

 ナツは水の中から電話機を取り出した。液晶画面は暗く沈んでいる。電源をぐっと押してもなんの反応もしないのを確認すると、ナツは沈黙した電話をテーブルの上に放置した。

「それに、あの人から連絡が来ない携帯電話なんて、あっても無意味ですから」

「あの人?」

「連絡は、来るはずがないんです。あたしの連絡先なんて、あの人は、知らないから。トラブルが起きないように、うちは、お店を通してしか、連絡は取れないんです。そういうシステムになってるから」

「じゃあ、その男の人って……」

「お客さん、です」

 ナツは遠い目で、窓の外の坂道に視線を向ける。飲みかけの珈琲カップを両手で包み込むようにして持ち、中身の液体をゆっくりと揺らした。

「あたしには、常連のお客さんがいたんです。毎週土曜日になると必ず、あたしを指名して、デートしました。ふたりで、色んなところに行きました。水上バスに乗ってお台場に行ったり、シネコンに行って翌日公開の先行レイトショーを観たり、激辛カレーをどっちが食べ切るか勝負したり……その人はまるで、サザエさんみたいでした」

「サザエさん?」

 三朗はオウム返しに聞き返す。

 べつに魚を銜えた猫を追いかけてるわけじゃないですよ、と言ってナツは少し笑った。

「アニメの、サザエさん。欠かさずに週一で放送されるサザエさんみたいに、必ずあの人は、あたしに会いに来ました。でも、三朗さん、サザエさんが終わるなんて想像できますか? あたしは無理です。想像できない。だから、その人が土曜日に会いに来なくなることなんて、考えてもいなかった。あたしを買わなくなることなんて、絶対にないって思ってた。でも、あの人はある日突然、来なくなって、あたしは、お払い箱。他に誰もお得意さんなんて、いないんです。指名もされないし、もうあたしなんか、必要とされてないみたい」

「でも、いい機会だと思うけど。風俗の世界では誰からも必要とされなくたって……」

「風俗とか普通とか、そんなことはどうでもいい。ただあたしは単純に、会ってくれなくなった理由を知りたい。ただ飽きたとか、そんなオチもひねりもないような理由でもいいから、知りたい」

 ナツは萎んだ百合の花のように、次第に肩を落としていった。

「……あたしは、現実を、ちゃんと知らないとダメ。自分に都合のいいふうに捏造して、期待を持ってしまいそうだから」

 鼻からすうっと息を吐き出すと、ナツは天井に目をやった。ランプが薄暗さの中で映えていて、外では夜がもう更けたことを告げている。

 今、ナツの焦点ははっきりと過去に当てられていた。毎週欠くことなく自分が求められていた過去へと、彼女の心は傾いている。

「ここの店、いつも来てたんです。あの人と一緒に。ごめんなさい、さっきから暗い話ばかりして。……こんなに愚痴ってたら、あたしがあの人のこと好きみたいに聞こえると思うけど、そういうことじゃないんです。わかりますよね。そうじゃないんです」

「なっちゃん――」

 三朗が言葉を言い終わらぬ内に、ナツの短い睫毛が跳ね上がった。数回のまばたきをしてから、彼女は機械人形のようにぎこちなく立ち上がる。

 背後から、ナツ、と呼ぶ声がする。

 ――聞こえましたか?

 ナツが視線だけで尋ねてくる。

 三朗が首を縦に振る。

 目の前にいるデートクラブの客にはかまわずに、鞄を引っつかみ、軽い腰を上げ、ナツは夜の街をすり抜けるように素早く店を退出した。



 イルミネーションで色づく夜の街を闊歩しながら、ナツはずっと頬の筋肉を緩ませていた。もうこちらに歩調を合わせることはせずに、足の遅い三朗を導くように先行している。

 ナツの客の男性はナツに会いに来た。客としてではなく、ひとりの男として会いにやってきたのだ。思いがけないその出来事が、彼女をふわふわと浮き足立たせていた。

 三朗はナツの背中に尋ねる。

「あの人、なんて言ってた?」

「お客としてじゃなく、会って欲しいって」

「よかったね」

 ふたりのデートはここでお開きということになった。聞けば、ナツは家に帰るのにここから電車で一時間ほどかかるらしい。都会を練り歩いている子とは、案外そんなものなのかも知れない。都会とは言いがたい場所に住んでいて、時間とお金を費やしてここまで来ているのだ。

 ナツが小さく手を振ってくる。三朗も笑って手を振った。ナツは真っ直ぐに駅の方向へと歩き、すぐに人混みに紛れて判別がつかなくなる。三朗は浅く息を吐き出した。白い息は夜気の中でよく映えていた。

 ふと見渡せば、ここは曖栖と別れたパルコの入り口だった。

 この場から勝手に離れ、三朗はデートクラブの女子高生とこんな夜まで遊んでいたのだ。

「……どうしよう」

 独り言を言ったとたん、首輪でもひっかけられたように、三朗の喉もとが絞まった。

「うっ」

 よろけながら振り向く。そこには仏頂面の曖栖がいて、三朗が巻いているマフラーを強く引っ張ったところだった。

 怒っていても曖栖の顔の造作は少女のそれに変わりなく、かわいらしい。その目がじっと見つめてくる。

「なにが『どうしよう』なの? なんで突然いなくなったのか、説明して」

 まるで殺す前の脅しだ。曖栖は結び目をつくってあるところから二本に伸びたマフラーを両手に持って、離さない。

「なんでと言われても……ほら、きみ、携帯持ってないし」

 三朗は答えになっていないことを言った。曖栖の不機嫌な相貌は変わらない。

「ええと、だから――あ」

 三朗はその時、曖栖を無意識に押しのけていた。反動で曖栖はマフラーから手を離し、不審そうに三朗の視線を追う。彼が見つめている先には、一組のカップルがいた。

 カップルというより、年の離れた兄妹に見える男女だった。二十代半ばのトレンチコートの襟を立てた長身の男と、彼の半分の肩幅しかないような十三歳ほどの少女だ。ふたりは肩を寄り合わせて、寒い冬の夜を謳歌している最中だった。少女は背伸びをし、なにごとか男の耳にささやきかけた。するとくすぐったそうに男は、少女の白い頬に唇を触れさせる。

 その男は先ほど見たばかりなので記憶にあった。三朗は硬直したまま、他人のプライバシーを直視していた。

 曖栖が背後からトンと、三朗の肩を小突いてくる。

「あのね、おじさん。ごまかそうったってそうは……」

 三朗はその手を振り払った。心にあるのはひとつの事実だけだった。

 彼の傍には、新しい少女が――

「三郎さん」

 名を呼ばれ、彼は顔を上げた。帰ったと思っていたナツが少し離れた場所にいた。立ち尽くしてその光景を見ている。真っ直ぐな眼差しで、まばたきをすることなく、瞳を逸らすことなく一心に。

「あの子が、りんご姫です」

 ナツは冷静に言い、歩いて遠ざかっていくふたりから目を逸らさない。

 青年は、あの少女ひとりにデートを申し込むだけでも命削りだ。そのためナツにつぎ込む経済的余裕は消える。だからああいう手段に出た。そんなからくりだった。

「妹の言う通りですよね?」

 つらつらと、ナツは語った。

「あたしはもう十七歳だから、きっとあと数年しか売れません。ほんと、子供っぽくて、バカみたいだって思うけど、でも、あたし、大人になりたくない」

 たった十七歳の女の子が、自分より二歳か三歳しか違わない年下の女の子に対し、戻れない過去への羨望と痛みと、どうしようもない屈辱感を味わっている。

 三朗はその痛みに苦しいほど共感し、また驚愕していた。

「そんな……なっちゃん」

 ――大人になりたくない、なんて。

 そんなこと思っちゃダメだよ。

 ダメなんだ。

「若ければいいってものじゃないよ。ほら……考えてもみてよ。だったらぼくはどうなる? きみより、もう何年長く生きてしまったか」

 言いながら、慰めが自壊していくのがわかった。

 戻れない。子供にはもう戻れない。かの子はもう、三朗の物語をにこにこと聞いているだけの無邪気な子供には戻らない。その事実が狂おしいほど胸に痛い。

「わかってます」

 ナツはただ静かに、感情の見えない後ろ姿を三朗に見せていた。

「あたしとりんご姫は、公平です」

 翼は生えていないものの、それは今にもどこかへ飛立ちそうな背中だった。ナツは靴もとをふわりと浮かせるように歩いた。

「あの子も、時が経てば、あの人に棄てられる。大人になってしまえば、使い捨てのストローみたいに、用済みになる。だから、あたしたちは公平なんです」

 ナツはゆっくりと駅に向かって一歩一歩、かかとを履きつぶしていない奇麗なローファーを進ませた。持て余したように両手を広げたり閉じたりと、意味のない動作をしながら。やがて少女は、その手のひらで顔の表面を覆った。

 指のあいだから涙声が漏れる。

「なのに、どうして、年下の子がこんなに憎いんでしょう……」

 いつの間にか冷え込みがひどくなっていた。強い風が吹きつけてきて、ひとつに括っているナツの髪の毛は崩れてくる。水色のマフラーが、風にはためいている。

 こんなふうに少女は大人になっていく。

 ――なっちゃん。

 三朗は心から思った。

 どうか、素敵な大人になって。

 少女しか愛せない不器用な男は、心の中で祈ることしかできなかった。その言葉を口には出せない。きっと自分は、ナツを棄てたあの青年と同じだから。

 幼さばかりに惹かれることの愚かしさを、三朗は今になって身に染みて実感した。そんなものはきっと愛じゃない。

 本当にかの子のことが好きなら、彼女が大人になったとしても気持ちは変わらないはずだ。例え歳を重ねても、かの子はかの子なのだから。年齢にとらわれるなんて馬鹿げている。

 自分はきっと、少女の『少女性』を見ているに過ぎない。つたない顔の造作、はにかんだ微笑み、小さな手、小さな足、汚れのない真っ直ぐな瞳――少女に共通するそれらの特徴を求めているに過ぎない。

 その子が大人になれば冷めてしまうような儚い想いを、愛などと呼べるものか。愛などと。



       *



「おじさん」

 後ろから声がかかる。

 曖栖は一部始終を見ていたはずだが、相変わらず、なにも表情を変えていなかった。

「寒いから、早く帰りましょう」

 三朗はすっかり沈んだ表情で、曖栖の斜め後ろを歩いた。

 彼はぼんやりと頭上を見上げた。夜空の星はライトアップする街の装飾にまぎれて、うっすらとしか見えない。空は光を帯びて深い蒼。夜すら無視している街の灯り。この場所全体がプラネタリウムのホールのようだ。さっぱりとしていて色気のない人工的な匂いが、そこかしこに漂っている。それはどこか、スカートから太ももを大胆に出して歩く女子高生に似ていた。若さを必要以上に表に押し出す姿には慎ましさがなく、どんなに奇麗な足でも見とれることができない。

 三朗はただひたすらに本物を探している。

 彼は曖栖に視線を移した。

 赤いロングスカートが上品に揺れていた。曖栖にはこれが一番似合う。これはきっと、曖栖にしか着こなせない完璧な洋服だ。

「ごめん、お嬢ちゃん」

「え?」

「買い物、結局できなかったから。実は、小さな子が悪いキャッチセールスにひっかかっていてね……見過ごせなかったんだよ」

「べつにいいわ」

 曖栖は前方を向きながら、にべもなく言った。彼女はすっかり元の顔色を取り戻して、また隙のない女の子になっていた。三朗はこの子の後ろ姿ばかり見ている気がする。

 曖栖はどうってこともないように、いつものように、軽い冗談をまるで本気みたいに重たく言った。

「でも、わたしのことは心配じゃなかったの? わたしだって小さな女の子よ、おじさん」




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