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イロニーアイス 2


 

 

 目が覚めた時、記憶にない桜色のシーツが胸板に触れていた。柔らかい感触に違和感を覚える。鼻をくすぐるバニラエッセンスのような甘い香りもまた、慣れないものだった。見知らぬ場所でぬくぬく寝ていたらしい三朗は、慌ててベッドから身体を起こした。スーツの上着だけ脱いだ格好のまま布団を被っていたために、シャツとスラックスにはひどい皺が入っていた。

 見れば雨戸は開いていた。窓から昼下がりの太陽に照らされる1Kの部屋全体を目に入れる。

 水玉模様のベッドシーツとカーテン。真ん中にあるのは太ったハート形のダイニングテーブル。その下に、さくらんぼ柄のホットカーペットがある。

 色とりどりのテディベアのぬいぐるみが、窓枠に敷き詰められている。ちょこんと首をかしげて並び、彼らはおとなしく主人の帰りを待っているかのようだ。窓からは駅のホームが覗くように見えた。

 室内にはテレビどころか見たところラジカセもない。台所と呼べないほど小さなガスコンロのスペース以外に、現実感を連想させるものはなにひとつなかった。

 少女がお人形遊びをするためのミニチュアハウスを、そのまま大きくしたような部屋だった。

「……曖栖?」

 三朗は虚空に向かって、その名を試しに呼んでみた。すると玄関口の向こうから鍵が下ろされ、扉が開く。新聞や郵便物を手に曖栖が帰宅した。

「ただいま。よく眠れた?」

 曖栖はなにげない言葉を当然のように言いながら、ガスコンロへと向かった。

「ここ……きみの家だよね。どうしてぼくがこんなところにいるの?」

「疲れていたみたいで、昨日の夜ここに着いたとたんに、すぐ寝ちゃったのよ。覚えてない?」

「いや、全然……悪かった」

「べつにいいわ。座って、お茶を入れるから」

 言われた通り三朗は席に縮こまるように正座をすると、疑わしげに曖栖の小さな背中を見上げた。エプロンを支えている白いリボンが上手に蝶々結びされている。三朗は落ち着きなく、視線を逸らした。

 ――なんだよこれ、まるで同居しているみたいじゃないか。

「ねえ。まさか、きみひとりで住んでるの?」

「同居人が失踪したのよね」

 コゲ色ひとつないクリーム色のヤカンに水を汲み、曖栖は手馴れた様子で湯を沸かし始める。

 昨夜は気が動転していて、曖栖は絵本の中から飛び出てきたのだと疑いもなく信じていた。しかし今、真っ昼間の日差しの中にいる曖栖は、ロリコン好みのコスチュームをあえて着ているコスプレ少女にしか見えない。

 よく考えてみれば、アイスというキャラクターは、おしゃべりで元気に駆けずり回る幼さいっぱいの少女なのだ。それに比べて目の前の曖栖は、幼さどころか、世の中の酸いも甘いも知った風に大人びている。

「同居人って?」

 三朗は笑みをこわばらせた。

「……ええと、家族じゃなくて?」

「ええ。世話してくれていた、ご主人様のことよ。わたしは彼に拾われて、ここに一緒に住んでいたの。いい人だったのよ。でも、突然いなくなっちゃった。好きな女ができたんだと思うけどね……無責任で困ったものだわ。その人はこのアパートを解約していかなかったから、家賃さえ振り込めば、しばらくはひとりでもここに住めるの。ここは駅も近いし環境がいい。でも収入がないのよね」

「その人……男の人なんだ?」

「そうよ。あの人は今までで、最高のおじさんだったわ。あなたと違って」

 この子は家出して、住まわせてくれる家を転々とする寄生生活を送ってきたというのか?

 三朗は差し出された湯飲みに手を付けることなく、ベッドの脇に置いてある自分の鞄から革の財布を取り出し、中身を確認した。

 無駄な苦労をしたわ、と曖栖が愚痴を言った。

「雨野三朗っていうと有名な絵本作家だから、けっこう持ってるのかと思ったら、期待はずれだったわ。所持金が……」

「おおい、泥棒っ!」

 空の財布を放り投げ、三朗は立ち上がろうとするが、寝起きのせいで力が入らない。そのまま腰を床に沈める。

「一晩でも、夢を見させてあげたのよ。二万円じゃ安い方でしょ?」

「ちょっと待て」

 三朗はゆっくりと頭を解凍させていった。昨日ここについて寝始めたのが明け方だとしても、曖栖には充分すぎる時間があったわけだ。鞄を探ると予想通り、手帳と自宅の鍵がなかった。

 三朗は曖栖を睨みつける。

「……二万どころの話じゃないな?」

「自宅の住所や通帳の暗証番号を、手帳に書くのがいけないのよ」

 三朗は言葉もない。

 曖栖の表情、落ち着いた態度、言葉の抑揚などは昨晩のままなのに、出てくるセリフはまるで別人だ。

「ロリコンを惑わせるのは、オヤジ狩りよりはるかに簡単なのよね。やめられないわ」

「じゃあ、曖栖っていう名前も……?」

「うん。あなたの童話から取ってみたの。相手のおじさんによって、その都度わたしは名前を変えるのよ。その方が、都合がいいでしょ?」 

「じゃあ、当然…あの…」

「ああ、年取らないってやつ? そんなこと、あるわけないじゃない。ばかね」

 完敗だった。十二歳ほどの少女にまんまと騙されるなんて、いかに自分が阿呆なのかが身に染みた。

「で、どうするの、おじさん。わたしを警察に突き出す?」

「それはしないな……きみのほうが狡猾そうだ」

 この勢いなら、逆に三朗の方を少女誘拐犯に仕立て上げられてしまそうだった。未成年の曖栖より成人男性の三朗の方が、明らかに不利である。

「いい判断ね。それに、べつにわたし、おじさんのお金を盗んだわけじゃないわ。これからふたりのお金はわたしが管理するっていうだけ」

「ふたりのお金って……」

「一緒に住みましょう。ここで」

「冗談だろ?」

 三朗は口もとをゆがめて笑った。それでも曖栖は真顔を少しも崩さない。

「本気よ。あなたはロリコンだし、願ったり叶ったりでしょ?」

「あのなあ。ロリコンをなめてもらっちゃ困るんだよ。ぼくは、小さな子なら誰でもいいってわけじゃないんだ!」

「ああ、あなたは純情な子が好みだったのよね。なるべくウブっぽくふるまうように努力するわよ」

「そんな……イメクラじゃないんだぞ!」

「女の子を前に、そういうこと言う? あなた紳士じゃないわね」

「きみだって、ちっとも少女らしくない。好みじゃないね」

「べつにいいわよ、目的が果たせれば。で、どうするの。断るつもりなら、お金と通帳は返すわ。でもあなたがぺドフィリアの気のある異常なロリコンだってことを、あなたのお姉さんや姪っ子さんにばらすわよ。自宅電話番号も押さえたし、あなたが直筆で書いた『遺書』もわたしの手の中にある。なにも、一生面倒みろなんて言ってるわけじゃない。もっと条件のいい相手を探すから、三ヶ月でいいから養ってよ」

 かの子――

 三朗は急に目の色を失った。

 あまりに気持ちよく寝入っていたため、頭から追い出していたこと。彼は、かの子の首に手をかけたというあらぬ妄想にとりつかれて苦渋し、この身まで投げようとしていたのだ。それを思い出すだけで、視界は暗転した。

「怖ければ、逃げればいいわ」

 こちらの心を見透かしているように、曖栖が言った。

 三朗はゆっくりと目を開いた。柔らかな光の中、曖栖が微かに笑っている。どこを探してもいない、きれいな瞳と美しい佇まい。

 ――女神みたいだ。

 中身を知ってもなお、そう思った。

「おじさん、きっと疲れているのよ。ここでゆっくり休むといいわ。生活環境を変えたら、気分も変わって、悪い妄想も減るかも知れないしね」

「……そうだね」

 それもいいかも知れない、という気分になってきた。

 驚きすぎて疲れたので、それ以上は考えるのを放棄し、三朗は柔らかなベビーピンク色のソファーにずっしりと背中を預けた。

「ああ、現実を知ったら急に腹が減ったよ」

「お素麺ならあるけど、食べる?」

「冬だよ? 食べる気しないよ」

「お中元が余ってるのよ。あ、てんぷらの残りもあるから」

 曖栖はそう言うと、鍋に水を溜めて火にかけ、手際よくつくりはじめた。

 三朗は、誰かの手料理など長いあいだ口にしていない。母親は十年以上も前に死んでいるし、恋人を持った経験がまるでないのだ。

 曖栖お手製の素麺は舌触りもよく、ほんのりと梅の香りがして、かなりの美味だった。癪なので褒めはしないが、曖栖と住むメリットを考えるに、料理が美味しいのは今のところ唯一の利点だ。

 遅めの昼食を終え、食器を片付ける曖栖を見ながら、三朗は声をかけた。

「……なあ。その格好は目立つよ。着替えたら? もうぼくの前でブリッコする必要もないわけだろ」

「それもそうね」

 曖栖には恥ずかしさがないのか、今初めて気付いたように衣装ケースを開けにいった。

 しかし、押入れの中には仮装のような服しか入っていなかった。チャイナ服からウェディングドレス風のものまで、そのすべてが高級絹素材のようで、つやつやと輝いていた。中にはピンクのレオタードまである。それらの衣装を目にし、三朗は固まっていた。

「なんなんだ、この偏った衣装の数々は……」

 曖栖は平然と説明した。

「失踪した人は手芸が趣味だったの。彼の好みの服を着ることが、ここに居ていい条件だったから、ここに普通の服ないのよね。買いたいけどお金もないし……」

「これ全部、手作りなの? すごい」

「すごい人だったわ」

 君もそうとうすごいけどね、と胸中でつぶやきながら三朗は鞄を取って黒のロングコートをはおった。

「どこに行くの?」

「家から荷物を取ってくるよ」

「逃げる気?」

「……じゃあ、一緒に来る?」  

「ううん。寒いからやめておくわ。気をつけてね」

 曖栖は余裕の笑みで、エプロンのポケットから鍵を取り出してこちらに放った。



      *



 電車で片道四十分かけて自宅に帰っても、三朗の部屋の中身は代わり映えしていなかった。曖栖が鍵を開けて入り中を探ったようだが、その痕跡は見たところ、なにも残っていない。あの子は、泥棒のプロだとでもいうのか。三朗は感嘆しながら室内を見渡した。

 男の独り暮らしというのは肌寒いものだ。灰色で統一されたカーテンやカーペットは、三朗の気を滅入らせる要因だった。とりあえずスーツケースを引っ張り出し、冬服を詰めていく。これからあの子と一緒に住むなんて、どうも実感が沸かなかった。

 その折、インターホンが鳴ったのを耳にして、三朗は玄関の鍵穴を覗きに行った。

「……ルミ太?」

 三朗は閃くようにつぶやく。

 すぐにチェーンを外してドアを開けた。

 端正な顔を持つ青年がいた。頬にかけて少し余分に伸びた黒髪が、小豆色のニット帽からはみ出ている。光を反射していない黒い目で、その男の子はこちらを見つめてきた。なにかを期待する眼差しだ。

 三朗は心配そうに眉を下げ、尋ねた。

「ルミ太、一体なにがあったんだ? お前が外に出るなんて。よっぽど嫌なことでもあったのか」

 真顔のまま、ルミ太が大きく首を横に振った。

「え、違うの?」 

 彼はごく当然のような顔をして、手提げバックからA5サイズのミニパソコンを取り出した。白い機体の、彼の愛機まりーんだ。パソコンの電源を入れ、簡易ワープロソフトの『ワードパット』を起動させる。ルミ太は左腕で機体を支えたまま、右手だけで器用に文字をタイプしていった。

〈引きこもりネット漬け男の逆襲。〉

 三朗はなにか言うより早く、ルミ太の頭をはたいていた。彼は慌てて、ずれたニット帽を整える。

〈要約すると――三朗さん、今からちょっと付き合え。この近くで、〉

「あー、だめだめ、誠実さが足りないなあ。口で言えよ口で」

 三朗の言葉に、ルミ太のタイピングの指が停止した。彼の耳たぶが一瞬で赤くなる。ルミ太いわく、声を出そうとすると熱が出てくるそうだ。

 ルミ太はこうやってキーボードを使えばいくらでも自己表現のための文章が打てる。しかし、口で喋るのはカラッキシ駄目だった。

〈この俺が、ここまでひとりで来てやったんだぞ。それだけですごいと思え、バカ。そして褒めろ。はっきり言って、一年ぶりくらいに家を出たぞ。〉

 ふてくされた頬でルミ太が三朗を睨んだ。ふだん人付き合いというものをしていない、擦れた青年の目付きは鋭い。獲物でも捕らえたかのようだ。

 三朗は意地の悪い笑みを浮かべた。

「褒めるようなことかよ? まったく、しょうがねえやつだな。やめろ、その目は」

 三朗はルミ太の帽子に挨拶代わりに触れた。彼はくすぐったそうに三朗の手を跳ね除ける。

〈くそっ、ガキ扱いすんな。〉

「ガキじゃないつもりなのかよ。このパラサイトシングルが」

 ルミ太はぐっと息を飲み込んだ。

 彼は中二の秋から引きこもり始めた。それ以来、高校にも大学にも行かずに、就職もアルバイトもせずに、ひたすら部屋にこもってネット三昧の生活を送っている。その上、超が付くほどのアイドルおたくだ。コンピュータ技術に優れたアイドルファンサイトを運営していることくらいが、唯一の特技と言えるだろう。《ルミ太》というのは、そこで使用している彼のハンドルネームだ。

 インターネット上で知り合ったルミ太は、三朗の数少ない友人のひとりだ。自分が相当なロリコンだということを打ち明けられる、貴重な存在である。

「それにお前、あれだろ。人の群れが怖くて、目当てのアイドルのコンサートにも、一度も行ったことないじゃないか」

〈怖いからじゃない。〉

 ルミ太は速攻で反論のタイプを始めた。

〈俺がルミーのコンサートに行かないのは、あんなにファンがたくさんいるところに行っても、俺が彼女の特別になんかなれないからだ。『自分は大勢いるファンの中のひとりです』って、わざわざルミーに証明しに行くようなもんだ。俺がルミーと初めて会う時は、ふたりが恋に落ちる時なんだ。わかったか。〉

 三朗は、ただ浅く息を吐き出した。

「で……結局お前、なんの用だったの?」

 三朗の問いにルミ太は、ぱたぱたとしっぽを振るように興奮した。並びの悪い白い歯を見せ、不敵に微笑む。

〈逢いに行く。ルミーに。〉


 荷物をまとめるのもそこそこに出てきた三朗に、ルミ太は嬉しそうに擦り寄ってきた。そして三朗にティンカーベルが微笑んでいるイラスト入りのメモ帳を見せた。

 そのメモ帳は『ルミー研究帳』だった。彼の独自の情報網と思考を駆使して計算した結果、永島瑠美絵の出没スポットと時間帯を、九十五%の自信で見つけ出したというのだから、ものすごい努力家である。

 ルミ太が大好きな『ルミー』こと永島瑠美絵は、三年前に十四歳でデビューした、いわゆる少女アイドルだ。

 歌う時もトーク番組に出る時も、いつでもカメラ目線で、視聴者にくりっとした大きな瞳で微笑みかけている。そしてどこか困ったような、照れたような、はにかみ笑いを浮かべている。業界にまみれていない、垢抜けない幼さがいつまでも残っているので、思わず守ってあげたくなるのだと、ルミ太はよく力説してくる。

 三朗はほとんどテレビを見ないし邦楽も聴かないので、正直よくわからない。ただ、ひとりの少女に入れ込んでいるその気持ちに共感するのだ。

 ルミ太は言葉すら喋らないものの、いつもより格段に機嫌がよく、陽気にはしゃいでいた。時おりスキップしたり、くるりと回転したりして、小躍りしながら裏路地を歩く。

 彼が無邪気な子供でいられるのは自分の前だけだということを、三朗はよく知っていた。ルミ太は家からほとんど出ないためにふたりが会うことは滅多にないが、たまに三朗は気晴らしとして、昼間にルミ太の家まで遊びに行く。ルミ太のように、不器用にエネルギーを持て余している若者に会うのは楽しい。似たもの同士の傷の舐め合いと言われようと、とても安堵する。

 ふたりは電車の通らない橋の下のトンネルを潜り抜ける。

 口に出すのを憚られるような、下品な落書きだらけの壁伝いを歩いた。しんとした空気の中、湿った夕刻の風が暖かく染みていく。それは、親の目を盗んで仲間と落ち合った子供時代に戻ったような時間だった。

 いや、と三朗は胸中でかぶりを振っていた。

 彼が子供の頃、友達とそんなふうに遊んだことは皆無だった。懐かしいのではない。ただ純粋に、これは新鮮な光景だ。三朗は酒もたばこも夜遊びも、二十歳を越えるまでしたことがない。だから、夜中に家を抜け出すような不埒者ではなかったのだ。三朗は幼心にそんな連中が不潔だと思っていたが、なるほど、子供時代には子供だけの遊びがあるんだと、四十代になった今になって気付いた。

 自分は一体、いくつの楽しい遊びを知らないうちに、身体だけは大きくなってしまったのだろうか。こうして狭い家を抜け出して夜の街を練り歩く、このふわふわとした浮遊感はなんだろう。 

〈今日、行くって予告しておいたでしょ。掲示板にも書き込みしたし。〉

「いつ書いたんだよ」

〈昨晩。〉

 歩きながらのパソコンのタイプと言葉での会話という、面倒くさいコミュニケーションを三朗とルミ太は行使していた。

「昨日? ここ二日、パソコンなんて開いてなかったよ」

〈珍しいね、暇人が。なんかあったの?〉

「いや……べつにないけど、バイトの面接とかあってさ」

〈受かった?〉

「ううん。そもそも、面接会場に向かえなかったんだ。その、色々と途中でアクシデントが発生して」

〈相変わらずの、だめ人間ぶりだね。〉

 見れば、ルミ太はにやりと笑っていた。三朗は無視を決め込む。さっきの仕返しのつもりらしいが、キーボードがないと人と意見交換もできないルミ太に言われる筋合いはない。

〈だってさ、俺はまだ若者だから、いくらでも社会復帰が望めるけど、三朗さんは取り返しがつかない場所にまできてるから。〉

「あのなあ、お前だって――」

〈お前だって油断してたらすぐにおっさんだよ、でしょ?〉

 ルミ太は先手を打った。

〈その頃には、三朗さんはジジイだよね。〉

 三朗はふざけ半分にルミ太の足のかかとを軽く蹴る。彼は嬉しそうに声を出さずに笑んだ。減らず指先のガキだ。

 

 日が沈んですっかり暗くなった公園が、人工的なライトに照らされていた。

 スタジャン姿のスタッフが十数名、噴水付近にいる少女に注目している。永島瑠美絵はセーラー服姿で、髪の毛をポニーテールに括っている。三朗はルミ太が掲示板で騒いでいたことを思い出した。お目当ての彼女が来期のドラマで準主役を張る、そのロケ現場らしい。

「よくわかったな」

 撮影中のために近づくことはせずに、遠目に永島瑠美絵の姿を観察しながら、三朗がささやく。しかし、ルミ太はもうこちらなど見てもいない。その瞳は、七色にライトアップされた噴水の前で演技をしている女の子にしか向けられていない。ルミ太の心は今、頑丈な鉄の殻に閉じこもっている。三朗は黙って永島瑠美絵に目をやった。こいつの気持ちはわかると思う。デビュー当時から猛烈に追い続けてきたのだ。

 さらさらと流れる水をバックに、永島瑠美絵はベンチに腰掛けて携帯電話を見つめ、憂いに眉をひそめていた。恋人を待ち続ける独り演技だ。しばらくして演出家とおぼしき男の「カット!」という声が響き、撮影は終了した。公園内には和やかな雰囲気が広がる。一気に緊張感がほぐれた矢先、ルミ太の様子がおかしくなった。

「どうした?」

 血走り、食い入るような目で、彼は永島瑠美絵が早々とタクシーに乗り込むのを観察していた。ルミ太は周りがなにも見えてない盲目の少年となり、通りに駆け込んで永島瑠美絵の乗った車を追いかけた。そして彼はまさしく運命的な幸運で、調度よく通りかかった空のタクシーを拾った。ルミ太に続き、三朗も慌てて追いかけ、同じ車内に乗り込む。

 ルミ太は暴走している。自宅まで突き止める気かも知れない。三朗は右隣の席から、前方のタクシーに目を光らせているルミ太の肩を突付いた。

 正気か、と目で問う。

 するとルミ太は三朗の目を射抜くように見つめた。腕をぐっと掴まれる。伸びた爪が当たって痛い。彼は《まりーん》に打った文字をこちらに向けて見せた。

〈あの子は雲の上のひと?〉

 三朗はその一文を見て、なにも言い返すことができなかった。彼は続けてこう入力した。

〈もうすぐ、ふたりは運命の出逢いを果たす。〉

 ルミ太の目は正気だった。正気で違う世界を夢見ていた。

 ただ彼はロケ地を調べて、現場から離れた女優のあとを尾行しているだけだ。そんなものは運命でもなんでもない。そうと知りながらも指摘することなく、三朗はまだ幼い心を持つ青年の肩に、ぽんと手を置いた。

「可能性はゼロじゃないよ。がんばれ」

 それは、どんな気休めの言葉よりも白々しい励ましだった。

 三朗は知っている。自分の愛する少女が、自分など愛していないことを。それどころか、自分が愛している少女は、自分が思っているような少女ではないことを。

 自分たちは妄想に恋焦がれている。

 だから苦い現実が影を増してじりじりと襲ってくると、目をつぶりたくて仕方がない。無人の屋上から、あの終電列車に間に合うように身投げしたくなるんだ。



 レンタルショップのロゴが入った袋を手に店から出てきた永島瑠美絵は、時おり吹く強い風に目を細める。タクシーはもう拾わずに、しっかりとした足取りで歩行者通路を歩いていく。やがて彼女は大通りから遠ざかり、路地の入り組んだ住宅街に向かった。外灯の少ない暗い方へ吸い込まれるように入っていく。彼女くらい国に税金を貢献している人物ならば、もっと高級な場所に住んでいても良さそうなものだ。自宅へ向かうわけではないのかも知れない。

 ではどこへ?

 角を曲がったところで三朗は足を止めた。

 ただ右に道を折れただけで、そこには現実が浮かんでいた。

 平たい緑色屋根の、プレハブ小屋のような二階建てのアパートメント。その二階の扉の前で、永島瑠美絵が誰かに抱かれていた。くたくたのジャージを着た男は、遠目で見てもそう若くは見えない。一方、永島瑠美絵は花柄のポイントが編みこまれた茶色いブーツだった。男は彼女の細くくびれた腰にしっかりと腕を回して、抱擁を続けている。彼女は心地よさそうに身を任せていた。

 一瞬の光が三朗の目前で弾けた。

 ふと横を見ると、闇に紛れる黒ずくめの格好をした男ふたりが道路の端で身をかがめていた。内ひとりは、ストロボをたいてカメラを構えている。熱心に盗撮していた。一眼レフのカメラフレームが象鼻のように長く伸び、被写体は何倍にもズームされているようだ。あの女性が永島瑠美絵だという証拠を、しっかりとフレーム内に収めたいからだろう。

 その時、黒い影が動いた。黒い塊のカメラがその人影によってカメラマンから引き剥がされ、硬い地面に思い切り叩きつけられていた。はめ込んで拡張していたズームフレームと本体が切り離されて、カラカラと地面に転がる。

「だ、誰だ、おまえ」

 腰を抜かすカメラマンの前に、小柄な人影が立ちはだかる。

 ルミ太だ。

「なにする――」

 足蹴にしてカメラマンを黙らせたルミ太は、そのまま彼に馬乗りし、顔を両手で挟み込むように殴った。殴って、殴って、殴る。もうひとりの方が、目を剥いて驚愕している。

「おいっ! ふざけんな、てめえ!」

 しかし、いわれのない暴行を受けているカメラマンは、息絶え絶えに相棒に叫んだ。

「いいから撮れ!」

 命令された相棒は触発されたように、鞄からもうひとつのカメラを取り出して構えた。 

 フラッシュが焚かれ、再び逢引きが写される。しかし相棒がシャッターを連続で押し始めて十秒も経たないうちに、問題のふたりはこちらの騒ぎに気付くことなく、愛の巣へと引っ込んだ。その扉は硬く閉ざされる。

 三朗が視線を戻すと、すでにカメラマンの頬は腫れて、血が滲んでいた。それでもルミ太は、震える手の暴走を止めない。

 ルミ太は言葉にならない叫び声を上げながら、さらに殴る。ルミ太の声は少女のように高く、またふだん声帯を使っていないせいか、ひどく弱々しく掠れていた。相手にしてみれば迷惑もいいところだ。カメラマンの顔は益々、見るに耐えなくなっている。街の片隅、闇夜の中に起こっているこれは、なんと夢のない光景か。少女たちに見せたくない。永島瑠美絵に見せたくない。

 しかし三朗は、その中に入り込んで制止することもできずに、ただ立ち尽くすだけだった。加勢もできない。止めにもいけない。

 なぜこの世は、最期まで夢を見させてくれないのだろう。

 哀れなぼくたちには、偽りの希みが必要だったのに。



 彼女が見事な仮面で健気な少女を演じていたあの公園は、ロケで賑わっていた面影はなく、しんと静まり返っていた。噴水のライトアップの時間が過ぎた今は、水しぶきも上がらないため、ただの人工池になっている。

 永島瑠美絵が座っていたベンチを見下ろし、ルミ太は黙りこくっていた。黙っているのはいつものことだが、それでも心が沈黙していた。三朗は彼の顔を盗み見る。正当防衛として反撃されていたようで、少し頬が腫れていた。

 ルミ太が唾を吐き棄てた。拳を噴水の水に突っ込む。水がでたらめに辺りにはじけ飛ぶ。三朗の腕にもかかる。冷たい。寒い。凍えてきた。そういえば曖栖の手も冷たかったな。

 予想通り、なんの奇跡も起こらなかった。

 ルミ太がどうわめこうと暴力を振るおうと、永島瑠美絵と中年男性の熱愛は過剰報道される。そうなれば、長年かけて構築された彼女の純なイメージは丸つぶれだ。

 現実に向かい始めた永島瑠美絵を見て、ロリコン男たちはもう好き勝手な幻想を抱けない。彼女は純粋無垢で、男を知らなくて、永遠に誰のものにもならないという甘い幻想は消える。大人っぽくなって、くびれてくる永島瑠美絵の腰に現実が見え隠れする。そうなればロリータアイドルは用済みだ。新しいロリータアイドルに目を向けさせるために、落ち目の古株はみるみる処分されていく。いくらでもロリータアイドルは出てくる。あとからあとから、この世に子孫が繁栄する限り、ロリータアイドルは誕生する。そして大人たちの都合によって、用済みになると殺されていく。

 本物などいない。

「ルミ太」

 三朗は沈黙をもてあまして呼びかけた。すると、ルミ太は参ったように笑う。瞳の光が崩れて泣きそうだった。殴り疲れた拳をさすっている。

「ルミ太――」

「名前、変える」

 ルミ太はふいに口を開いて、そう告げた。彼の言葉を初めて聞いた気がした。三朗は、所在なさそうに自分を責めている彼を、ただ慰めたくなった。

「そんなの、全然たいしたことじゃないよ。ぼくに比べたらずっとマシさ。だってぼくは……」

 ルミ太が眠たげな半眼で顔を上げる。もう彼の唇は開かなかった。

「……ぼくは、自分の姪を殺したくて仕方ないんだから」

 ルミ太が目を大きく開いて、三朗を見ていた。

「愛しているのにね……なぜだろうね……」

 胸が痛い。

 あの子の笑顔がよく思い出せない。 

 いつまでも三朗は、かの子への未練たらしい想いを断ち切ることができない。かの子がもう物語など必要としていなくても。お話をしてくれたおじさんのことなど、新しい記憶に塗りつぶされていって、三朗からはどんどん遠さがっていくのだとしても。

 かの子を取り戻したい。

 無邪気に話を聞いてくれていた。目を輝かせるかの子を、幼いままずっと傍に置いておきたい。どうかどうか大人にならないで、おいていかないで。



      *



 旅行するわけでもないのにスーツケースをからからと引っ張りながら歩く夜の町は、妙に新鮮だった。

 最寄りの駅から出ると、閉店間際の駅ビルの中はクリスマス用の飾り付けが施されている。ショーウインドーには、トナカイのぬいぐるみを抱きしめているサンタクロースの格好をした少女のマネキンがあった。それを見た三朗は足を止め、ふと、アイスを連想していた。

 かつてクリスマスを題材にしたアイスの絵本を書こうとして、企画だけあって実現しなかったことがあった。

 絵本のことは、無理やり記憶の奥に沈めていた。かの子を思い出してしまうからだ。かつて絵本作家だったことも、大勢の少女たちが自分の次回作を楽しみに待っていてくれたことも、心の奥に封鎖していた。小さな頃は夢中で読んでも、すぐに絵本を卒業してしまう読者たちに、三朗は耐えられなかったのだ。

 それでも彼は自然と、クリスマスのストーリーを頭に思い浮かべていた。彼の中でまだアイスは生きていた。すぐにひょっこりと顔を出し、さあ、どんなお話にする? と三朗に微笑みかけてくる。思わず三朗は口もとをほころばせ、白い息を吐き出した。

 ――そうだなあ。どんなお話にしようかな。

 もし絵本が完成したら、かの子は、読んでくれるかな? もう十七歳だから、読むわけないか……

「おじさん」

 声をかけられ、三朗は我に返った。

 曖栖が向かい側から横断歩道を渡ってきた。上から深い紺色のダッフルコートを着ているので、中身の奇抜な衣装は無難に隠されている。

「ああ、ごめん、お嬢ちゃん。こんなに遅くなって……」

「べつに。それより、今から夕食の買い物をするんだけど、なにがいい?」

「あ、そうか。ぼくの好きなものでいいの?」

 曖栖は頷く。

「メニューを考えるのが面倒なの。おじさんが決めて」

 ただ茹でるだけの素麺でも美味かったのだ。曖栖のつくるディナーはどんな芳香が漂っているのだろうか。想像するだけで頬が緩んだ。食べたいものはいくらでもある。

 三朗は黙考した。それから、曖栖の方に向き直って笑った。

「オムライスがいいな。卵を二個割って、中が半熟で、ケチャップごはんと溶け合う、あれだよ」

 自分で何度もつくっているのだが、どうしても幼い頃に食べた味にはならなかった。今はいない三朗の母親がつくってくれたオムライスは、最も思い出に残っている手調理だ。

 たんぽぽで鼻をくすぐられたように、ふふっと曖栖は笑った。

「子供みたい」

 少女は手袋をした手を口もとに当てる。三朗はうまい切り替えしの言葉はないかと考えた。しかし思い浮かばない。

 三朗は癪な気分のまま曖栖の隣を歩き、赤い看板が見えるスーパーマーケットに向かった。





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