表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

イロニーアイス 1

 

 

 絵本の住人に出逢った。

 三朗が飛び降りの決意を固めた、月曜日のことだ。

 日曜の翌日になると決まって自殺願望に突き動かされ、いつも同じ屋上に来ては、ため息を吐くだけで帰っていく――そんな不毛な日々を半年以上も続けてきた三朗は、今夜が最期だと覚悟を決めていた。

 雑居ビルの階段を全力で上り、屋上へと通じるドアを開けると、冷蔵庫を開けたような冷気が額に吹きつけた。エアコンの室外機からは、生ぬるく澱んだ排気ガスが立ちのぼっている。この世界は、絵の具をかき混ぜすぎた濁りの色で出来ている。

 三朗は胸の高さまである屋上の柵から、顔だけを出して眼下に目をやった。砂利の路面には線路と踏み切りがある。間もなく踏み切り信号は発狂する。

 カンカンカンカン

 胸を締め付ける音が鳴り、赤いランプが闇の中で点滅を始める。三朗は柵の上まで一気によじ登り、腰を浮かせた。下り電車が車線にのってこちらへやってくる。時間が凍てるざわめき。

 彼を止めるものは、この世になにもない。飛び降りるなら今だ。

 しかしその時、声が降ってきた。

「なにしてんの?」

 幼い少女の声だった。

 本当に彼を止めるものは、なにもない? ――いや、あの子がいる。

 三朗はその人物を脳裏によぎらせ、心を震わせた。

 まさか、今の声は……バカな。会いに来るわけがない。だってあの子は――

「落ちたら死ぬわよ、おじさん」

 声の主がいる後ろへと、三朗は振り向いた。

 その少女は近づいてくる。あの子のトレードマークだった、真っ赤なロングスカートを揺らしながら。

 白いフリルがちりばめられたエプロン、白と黒のシマシマ模様の靴下。黒い革靴、腰まで包む長い髪。ふっくらとした桃色の頬、サファイア色の瞳。すべてが幻のような輝きに満ちている。

 三朗は硬直していた。

「アイス……?」

「あれ? なんでわたしの名前を知っているの? そうよ、アイス。へんな名前でしょ? 愛の栖と書いて、曖栖っていうの」

 目の前にいる少女は、そう名乗る。

 三朗が書いた絵本の登場人物、それがアイスだ。その子はアイスが大好きだから、作中で『アイスちゃん』と呼ばれている。

 三朗の描くアイスは顔が決まっていない。筆先で輪郭の主線を描くだけで、目や鼻は水性インクで塗りつぶし、ぼやけさせている。読む人によってアイスはその姿を変える。少女なら読み手自身、もっと年が上なら自分の娘、男の子が読めば片想いの相手になるかも知れない。この女の子が誰にでもなりえるようにしたかったから、あえてキャラクターの顔のイメージを固めないようにしていた。

 でも今、彼ははっきりとわかった。アイスはまさにこんな顔をしていたのだと――

 本人に自覚はないようだが、ついに今日、アイスが三朗の絵本の中から出てきたのだ。


 黙り込む三朗を、曖栖はまじまじと見返してきた。

 人間が絶望して飛び降りるなんて想像もつかないような、まだ明るい世界に身を置く少女だ。   

 この子を失望させるわけにはいかない。

 場をごまかし切ろうと、三朗は柵の上から言葉をつむいだ。

「そう、これは……天体観測を少し。夜の星はきれいだなと思って」

「へえー。おじさんってもしかして、現代まれにみる乙女チックな人?」

「そんな、ばか、ちがうよ! 星を愛でるのは生物としての本能っていうかなんていうか……ぼくが少女趣味だなんて、あるわけないだろう!」

 三朗は上擦った声で必死に否定したが、曖栖はちらりと脇に目を逸らした。視線の先には、揃えて置いてある三朗の皮靴があり、そのあいだには茶封筒が差し込まれている。

「あ、ところで、きみはなぜここに来たんだい?」

「近くを歩いていたら、なんか飛び降りっぽいことしようとしてる人がいたから、ほんとにやっちゃうのかなと思って。おもしろいから来てみた」

「来てみたって……。おもしろくもなんともないだろ。人が死ぬところなんて! だめじゃないか、こんな夜遅くにひとりで外にいたら。おうちの人が心配するよ!」

「家族なんていないわ」

 少女は平坦な調子で流し、革靴のあいだに挟んである茶封筒を手にとって、中身を取り出した。カサッという紙の擦れる音が聞こえる。

「ああ! なにやってるんだよ!」

 三朗は慌てて柵から降りようとしたが、動揺で足がほつれ、内側に転落していた。

「おじさん、なあにこれ」

「だから遺書のわけがないだろう。絶対に違うってば!」

「ふうん」

 三枚の便箋を速読した曖栖は、慌てて床から身を起こす三朗を半眼で見ていた。

 三朗はその遺書を一晩かけて書き上げて、一度も目を通さずに封を閉じた。自分が重度のロリコンであることを赤裸々に告白した上で、その苦しみを切々と語った文章で構成されている。泥酔した脳で書いた悪文である。

 三朗は身を縮こませて窮していた。幼い少女にこんな不健全なものを読まれるなんて。

「信じてくれ。それは遺書でもなんでもない。物語の、ほんの走り書きのメモなんだ。童話を書くのが、ぼくの仕事だから」

「童話って、これが?」

 言ってから、しまったと思った。

「この中に、ロリータ趣味がどうのって書いてあるけど」

 真顔で指摘してくる曖栖に、三朗は火照る顔をあおいだ。

「いや、その、文学とは得てしてそういう要素が」

「童話じゃなかったの?」

「ああ、つまり、文学も少しやるんだ」

「じゃあその物語の中で、主人公が書く遺書が、これだってことね?」

「うん。そう」

「じゃあ、もしかして今飛び降りようとしていたのって、その話を書くための取材なの?」

 曖栖はこちらが思いつかなかった見事なひねり技まで提示してきてくれた。三朗は頭の中でポンと手を打つ。

「そう、そうなんだよ」

「じゃあおじさん、童話作家なんだ。名前は?」

「ああ……雨野三朗(あめのさぶろう)だよ」

「三朗っていうと、三男?」

「いや、よく間違われるんだけど、長男なの。これはペンネームだから」

 童話作家としての名で彼が呼ばれることは、もう長いあいだなかった。童話作家は五年も前に、とうに廃業したのだ。結果的に幼い少女に少し嘘を付いていることに、三朗は多少の負い目を感じた。それでも真実を知られるよりはマシだ。

 曖栖は膝頭の上に肘をのせ、その場に座り込んだ。ふたりの距離はぐっと近くなる。曖栖のきれいな碧眼が目の前にある。三朗はわずかに腰を浮かせて後退した。

「ねえ、聞かせて。どんなお話?」

「どんなって……」

 曖栖から身を引いて、三朗は柵に背中を貼り付けた。少女特有の単純な好奇心を向けられた三朗は、既視感による背中の疼きを味わっていた。

 ――おじさん、お話して!

 そうせがんでくるあの子は、もういない。

 あとかたもなく、死んでしまった。

「どうして泣いてるの?」

 そう問われて、とっさに頬を拭うが、涙など一滴もこぼれていなかった。

 三朗の心臓は面白いほど激しく鳴っている。

「まさか。泣いてないだろ」

「でも、泣きそうな顔してるわ」

「少し懐かしくなったんだよ……」

 三朗は微笑んで話し始めた。

「ぼくにはね、大好きな女の子がいたんだ」


 過去にたった一度だけ、ひとりの少女を愛したことがあった。

 それまでは特定の想い人が存在せず、少女ならば誰でもよかった。そんな不透明な日々の中、やっと見つけた運命の女の子――それは自身の姪だった。 

 かの子。それが姪の名前だ。

 本当は彼女には、嘉野子という立派な漢字があるのだが、三朗の中では、嘉野子ではなく『かの子』だった。それは『嘉野』という漢字が難しいあまり、かの子が小さな頃に自分の名前をひらがなで書いていたことに由来する。

 母子家庭で育ち、父親を知らないかの子は、叔父である三朗にそれはよく懐いていた。小学校に上がるか上がらないかの頃は、三朗はかの子によく物語をきかせてやった。昼下がりの公園でひなたぼっこをしながら、ふたりは何時間でも過ごすことができた。

 それは今から十年も前の話だ。三朗は三十歳、かの子は七歳だった。

 かの子はいつも、はにかむような笑みだけで心情を表し、言葉を多く喋ることがなかった。でも言葉など交わさなくても、三朗とかの子の心はいつでも通じ合っていた。かの子が望む限り、三朗が作り出した『アイス』が主人公の物語はいつまでも続いた。

 しかしそんな宝石の日々は間もなく、あっけない終わりを遂げる。


「どうして?」

 曖栖は目を大きく開いて尋ねた。

「かの子は、いなくなってしまったのさ」

「死んじゃったの?」

「まあね……」

「そうなの」

 少女はそれきり黙った。場をわきまえた大人のように安易な言葉ではげましたり、なぐさめたりしない。そういう配慮のなさが三朗にはひどく心地よい。

 絵本から飛び出たアイス――曖栖が、こうして傍にいる。

 三朗は曖栖の頭を撫でようと、そっと手を伸ばした。しかし触れる寸前に指先をぴくりと痙攣させる。

「……なに?」

「いや」

 三朗は手を引っ込めた。不自然にその手で後ろ頭をかく。

 ふたりのあいだには生暖かい奇妙な風が吹いている。これは妄想の風だ、と三朗は思った。もしも曖栖の身体に触れたら、淡い水色のシャボン玉が弾けるように、幻は消えてしまう。

 今日が本当の潮時に違いない。曖栖と出逢えたのは、人生の最期に神様が与えてくれた慈悲だ。この子はもうすぐ消えるだろう。消えたら落ちよう。間違いなく、飛び降りよう。三朗はそう決意した。

 ――だからまだ触れないように。もう少しでいいから、この夢の世界に浸っていたい。

「ねえ、ぼくは思うんだ。子供はもっと夢を見るべきだよ。たとえ、空を飛びたいとか、そんな非現実的なものだとしても。滑稽という言葉を勇敢と置き換えられる才能を持っているのは、きみくらいの年頃だけだ。恥ずかしいことじゃない。夢はすばらしいことだ。押さえつけようとする大人の言うことなんか、きかなければいい。きみは、きみの思うように生きればいいんだよ」

 曖栖はなにも言わない。ただ不審そうな細目で、突飛な話をする三朗を見ていた。

「ぼくはもう、年を取ってしまったからね。現実を見て生きなけりゃならない……大人はね、世の中の不和を知ってしまうと、夢を見られなくなるんだ」

 三朗の中で憂いの種は、むやみに芽を伸ばした。この気持ちを長いあいだ、誰かにぶつけたかった。この少女にぶつけるべきではないのはわかっていた。でも止まらない。

「時代は変わったね。今は幼い子供ですら、魔法の存在を信じられない。子供たちが夢を見られなくなる世界なんて、ぼくはもう生きていたくないよ」

 机に向かって一日中、ひたすらに茶色の絵の具を重ねて、アイスの長い髪の毛を一本一本塗っていた。三朗はかの子の喜ぶ顔を見るためだけに、一心に絵本づくりをした。あの頃の気持ちが懐かしい。

 三朗が命を吹き込んだアイスは、今でも彼の心の中で小さく息をしている。たまにひょっこりとその顔を出して、赤いスカートを風にはためかせている。

 ただの絵本の登場人物に過ぎないアイスに、こんなにも心を縛られ続けている理由は、ただひとつだ。

 アイスが、かの子だから。

 三朗は、かの子への想いすべてをアイスに詰め込んだ。すると、架空の人物のはずなのに、アイスは彼の中で自由に動き始めた。笑い、転び、泣き、跳ね、また笑い……それは三朗の、無邪気な少女への慈しみだ。

 しかし、絵本の中のアイスは十二歳のままなのに、かの子はすくすくと成長していく。日に日に色気を増し、鮮麗されていくかの子を想像するだけで胸が焼けた。三朗は、時の流れの残酷さを呪わずにはいられない。いつまでも、そういつまでも、小さなかの子と公園で一緒に過ごしたかった。終わらない夢物語を聞かせて、喜ばせたかったのに。

「あの子はもう、物語なんて要らないのさ……」

 三朗のつぶやきに、曖栖が顔を上げた。

 青い瞳は英国人形に似ていた。映画の主人公がそのまま出現したような逸脱感に満ちていた。

 だから思った。この子はずっと、この姿のままでいられるかも知れないと。

「ねえ、お嬢ちゃん」

 三朗は曖栖に微笑みかけた。

「きみは、ずっと大人にならないで。ずっとそのままでいて……なんにも知らない子供のままでさ……」

 口に出すのも憚られる。

 それは、なんて後ろ暗い願い。

 とたんに彼の胸はしくしくと痛み出した。

 そして耳鳴りが遠くからやってくる。

 パトカーの音が鳴り響き、脳と共鳴を始めた。



 鼓膜に直接叩き込まれているような警報に頭を抱え、三朗はその場に膝を付く。彼は両耳をふさぎ、頭を小刻みに振った。

「どうしたの?」

「追いかけてくる……」

「え、なにが」

 三朗は柵へと走った。

 手のひらは憶えている。あの子の首筋の感触を。苦しそうに叫び助けを請っている、よく知る少女の姿がまぶたの奥にまざまざと浮かぶ。もう逃げられない。

「ぼくが……たんだ」

「え?」

「ぼくが、殺したんだ。かの子を」

 三朗が自白すると、曖栖は言葉もなくこちらを見ていた。

 だめだ。この子にだって嫌われる。敬遠されるし、蔑まれる。でも、これが自分なのだから仕方ない――

 三朗は曖栖から目を逸らすことなく、告げた。

「愛のためにあの子を殺した」

 それは彼にとって正当な衝動だった。しかしそんな常識から外れた話を、一体誰が理解できるのか。

 三朗は柵を乗り越えようと、腕に力を込めて足を持ち上げた。地上には四方にパトカーの赤い光が瞬いている。彼は眩しそうにまばたきを繰り返した。

「おじさん――」

「来るんじゃない!」

 叫んで振り向くと、曖栖はつま先で立ってこちらを見上げていた。幻の割にしつこい。そしてやけになまめかしい。

「愛ってなに。殺したって、なに?」

「きみには関係ないよ。きみは、ぼくに関わっちゃいけない」

「話したのは、あなたでしょ」

 確かにそうだった。なぜ話したのだろう。受け入れて欲しかったのかも知れない。拒絶されるとわかっていたのに言ってしまうとは、なんてバカなことを。

「今日のことは忘れるんだ。早くね」

「そうはいかないわ。だってあれ、やっぱり遺書でしょ?」

 そう言われ、三朗は遺書に書いた文を思い出していた。

 このままだと自分が、罪のない少女を次々と殺戮していってしまうかも知れないから――それが自殺の理由だ。

 彼は『少女』というものに対し、愛と憎しみが交錯する感情に苛まれている。さらには、毎晩のように少女という少女の細い首に手をかける悪夢にうなされている。

 自分を見失う前に取り得る最善の解決方法は、これだった。少女がこれ以上犠牲になる前に、自分を消せばいい。台形の方程式よりずっと簡単な理論だ。

「やめて。おじさん」

 曖栖は手を伸ばし、三朗の左手の甲に触れてきた。雪のように冷たいが、血の通った手だった。ただ冷え性というだけの、普通の女の子の手だ。

 三朗は瞳孔を開く。曖栖は消えない。

 幻などではない。ここにいる。

「なんで……」

 急に全身から力が抜け落ちる。三朗は柵から降りると、屋上にがっくりと腰を落としていた。曖栖も足を真っ直ぐに投げ出して、並んで隣に座る。

「大丈夫? ね、落ち着いて。おじさん」

 曖栖は真摯に三朗を諭した。

「ねえ、おじさん。よく考えてみて。本当にあなたが、その子を殺したっていうの? どんなふうに殺したの? 説明して」

「え……?」

 深呼吸をしてから、三朗はゆっくりと回顧した。


 彼は今日偶然に、友人と連れ立って下校するかの子の姿を見つけた。かの子にはもう何年も会っていなかった。高校二年生になったかの子は、すっかり大人びていて、少女というより一人前の女性に見えた。

 胸に無数の棘が突き刺さったような衝撃が、容赦なく彼を襲った。

 友達同士の楽しげな会話は、内容が全くわからない。時おり弾ける笑い声をこっそり遠くから聞いていると、殺意は序々に喉まで押しあがってくる。

 途中で友達と別れると、かの子はひとりで駅ビルの小さなショッピングモールをぶらつき始めた。雑貨店に置いてある鏡で髪の毛を整える。妙にそわそわと携帯電話の画面を何度も見ている。彼女がこれから誰と会うのか、簡単に予想が付いた。くらくらする。もうダメだ。三朗の中の殺意が爆発しそうにくすぶった――


 そこまで話してから、三朗は言葉を止めた。

「そのあと、どうしたんだっけ? ……おかしいな。よく覚えていない」

「殺してないじゃない、それ」

 曖栖は呆れた様子で肩をすくめる。

「……え? で、でも、聞こえるだろ? さっきからパトカーの音が…」

「そんなの、聞こえないわよ」

 そう言われて三朗が再び耳を澄ますと、頭の中に鳴り響いていた警報が、嘘のようにぴたりと止んでいた。耳鳴りと頭痛も同時に治まり、曖栖がすぐ傍で微笑んだ。

「ほらね」

 悪い魔法が解けたみたいだった。



      *


 

 横一列に並んだ無人の公衆電話のひとつから、怪訝そうな姉の声が聞こえてきた。滅多に連絡を寄こさない半ば引きこもり状態の陰気な弟が、「姪は今日帰ってきたか」などという突飛な用件で電話をかけてきたのだから、訝るのも当然だった。

 無味な通話を終え、テレホンカードを定期入れにしまうと、三朗はボックスの外で待っていた曖栖のもとへ戻る。

「かの子、今家でテレビ観てるって」

「やっぱりね。ねえおじさん、妄想と現実の区別はつく?」

 三朗は押し黙った。彼は最近、毎日のように、曖栖くらいの年の女の子を絞首して殺す夢を見る。寝汗をかいて起き上がり、夢でよかったと安堵のため息を付く。そんな苦悶の日々が続いていた。

「妄想……ね。あれは……妄想だったのか」

「あなたは、ただ自殺の口実にするために、自分を殺人犯に仕立て上げたかっただけだと思う」

 そう言われると、自分がかの子を殺したという確信は三朗の中で一気に揺らいだ。すべてが妄想の範囲内だったのだ。警察も自分を追ってなどいない。現実など、その不透明さは妄想と大差ない。

「でも、ぼくは自信がないんだ。いつ自分を見失ってしまうか、わからない」

 三朗は腰をかがめて曖栖に身長を合わせ、諭すように言った。

「ねえ、これでわかっただろう? ぼくには殺意がある。無邪気な目で笑う、少女という少女すべてを殺したいんだ。ほら、怖くなったろう? 早く逃げなさい。ぼくと一緒にいたら、きみの首にだって、手を伸ばすかも知れないよ」

 真剣な忠告に対して、曖栖は口もとをそっと綻ばせた。

「どうして……笑っていられる?」

「かわいいひとね、おじさん。あなたは少女を愛するがゆえの、ペシミストなのね」

 曖栖は三朗の両手首を掴むと、自分の首もとへと引き寄せた。三朗の指が曖栖の細い首筋にぴったりと触れる。白くて柔らかい肌に、三朗は頬を熱くさせた。

 曖栖が静かに尋ねてくる。

「殺したい?」

 三朗は即座に首を横に振った。ツンと鼻が水分で染みる。きみはやっぱりあのアイスだ、と強く思った。

 ――痛みも汚物もすべて包み込んで、護ってくれる。ぼくの絶対唯一のヒーロー。ぼくのアイスだ。

「やっぱりね。だってわたしは、他の女の子とは違うもの……大人にならないの。わたしは、成長しないのよ」

「いったいなにを言ってるんだ? そんなことあるわけ……」

「嘘じゃないわ。わたし、魔法をかけられているの。永遠に年を取らない魔法を。この世界には、魔法ってないの? おかしいなあ。わたし、少し前からおかしいのよ。まるで世界が変わってしまったみたいで」

 少女の背後にきらめく閃光を見たように、三朗は目を細めた。



 アイスはどこにでもいるような、小学校六年生の女の子だった。でもある日、魔法使いのおばあさんに見初められ、魔女になる修行を積むことになる。アイスは困っている人を助けるため、ひとつひとつ魔法を覚え、優しい心を覚えて成長していく。

 作品の中に時間枠は存在しない。既刊五巻中で、アイスは一歳の年も取っていない。

 季節は移り変わっていくけれど、アイスは何度も十二歳の自分を繰り返して過ごしている。魔法使いとしても人間としても成長しているはずなのに、年を取らない奇妙な女の子。それでも読者はきっと、誰も疑問に思わない。

 だって物語には魔法がかかっているから。

 アイスは、魔法使いだから。



 こぼれそうだった涙は、もう乾いていた。現実感のない曖栖の奇麗な瞳に、三朗の心は躍った。

「不思議ね。あなたといると落ち着くわ。あなたはわたしを受け入れてくれる気がするの。ねえ、わたし嘘付いてると思う?」

「ううん。ぼくも魔法を信じるよ」

「よかった。もっとあなたと話がしたいわ。いい?」

 三朗は、もちろんと答えた。

 きみはアイスの生まれ変わりなんだ。絵本の中に住むぼくのアイスが、ぼくに出逢うために、孤独なぼくを暖めるために、この世に転生してきてくれた。神様の思し召しだよ、曖栖。この世は絶望なんかないよ。ぼくは間違っていなかった。今までの苦しみもぜんぶ、きみと出逢うための序曲だったんだ。きみが傍にいればもうなにも怖いことなんてないよ。ぼくだけの、曖栖。

 そう言おうとしたが、胸があつくなるあまり言葉が出ない。代わりに三朗は曖栖の小さな手をぐっと掴んだ。やっと出逢えた運命の少女を、この手でつかまえておきたかった。

 曖栖の手はとても小さい。小さくて――ただの綿ぬいぐるみのように柔らかく、冷たかった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ