第20話 朝のパンと春の備蓄簿
王都から補填の小麦が届いたのは、雪が解け始めた朝だった。
港には新しい配給札の列が整い、再計量用の秤はもう珍しいものではなくなっている。グレタは相変わらず大声で倉番たちを叱り、ロルフは新しい帳簿棚を自慢し、マルタは補填麦で焼いた丸パンを山ほど持ってきた。
私は領主館の執務室で、春の備蓄簿の一頁目を開く。
“受入 王都補填分二百八十袋”
ようやく、消された数字が戻った。
机の上には、いつもの紙袋が置かれている。今日は蜂蜜を少し入れた白パンだった。
「補填記録は終わったか」
振り向くと、カイルが戸口に立っている。
「ええ。春の備蓄簿も始まりました」
「なら、一つだけ追加で記録してほしい」
彼はそう言って、机の上に小さな箱を置いた。中には銀の鍵飾りが入っている。実用品ではなく、古い穀倉印を模した小さな飾りだ。
「北辺備蓄監査官就任の印」
「正式すぎませんか」
「もう一つ意味がある」
カイルは少しだけ視線を落とし、それから静かに続けた。
「これから先も、朝の食卓にいてくれるなら嬉しい」
遠回しで、でも彼らしい言い方だった。
私は笑ってしまう。
「侯爵、それは求婚ですか」
「……そう受け取ってもらえると助かる」
私は新しい備蓄簿の余白へ、今日の日付を書いた。
「では記録しておきます。春初日、北辺侯爵カイル・ノルデンより、継続的な朝食同席の申請あり」
「承認は」
「もちろん承認です」
答えた瞬間、胸の奥にようやく穏やかなものが広がった。
奪われた席の代わりではない。
ここは、自分で帳簿を開き、自分で守った場所だ。
窓の外では、港に春の光が落ちている。備蓄蔵の屋根は白さを失い、代わりに新しい麦を迎える色へ変わり始めていた。
私は蜂蜜の香るパンを一口かじり、春の備蓄簿を閉じる。
もう誰にも譲らない。
鍵も、仕事も、幸せも。
全部、ここで私のものにしていく。




