第九話 仲介役の顔
鏡の前に立っている二階堂壮也を見て、真壁彰は、こいつはつくづく面倒な男だと思った。
狭い洗面台の上には、使い捨ての整髪料、小さな爪切り、安物の眼鏡ケース、口をつけていない缶コーヒーが並んでいた。どれも目立つものではない。変装道具と呼べるほどのものでもなかった。顔を大きく変えるわけではない。髪を分ける位置を少しずらし、眉尻の向きを整え、口角の置き方を変え、視線を真正面から少し外す。ただそれだけで、印象が別の方へ滑っていく。
鏡越しに二階堂が言った。
「そんなに見ると照れるんだけど」
真壁は壁に背を預けたまま答えた。
「それで通るのか」
「通るようにするのが仕事」
言い方は軽い。だが目元は笑っていなかった。二階堂は洗面台の黒い大理石調の縁に指先を置き、今度は笑い方だけを二種類試した。歯を見せない笑いと、見せるが温度のない笑い。その違いは小さいのに、受ける印象はまるで違った。
部屋は昨夜とは別の潜伏先だった。ラブホテルを夜明けと同時に出て、古い雑居ビルの一室に移ってきた。表向きは空きテナントだが、短時間なら身を潜められる程度には使える。窓にはブラインドが下り、床には古いカーペットが敷かれ、前の借り手が残した金属製の机とパイプ椅子が二つ、壁際に寄せられている。電気は生きているが、照明は一本切れていて、部屋全体がどこか薄暗かった。
九条は窓際の机に腰を掛け、腕を組んで二階堂の手元を見ていた。白衣ではなく、どこにでもいる男の服装だ。だがその顔つきの静けさは、服で消える種類のものではない。
「向こうは、お前の本音を見ようとする」
九条が言うと、二階堂は鏡から目を離さないまま頷いた。
「知ってる。だから半分だけ本音で行く」
「半分で足りるか」
「全部本音で行くと僕が困る」
真壁は鼻で笑いそうになったが、笑えなかった。二階堂の技術は、上手いで済ませていいものではない。本人が向こうに寝返っていても成立する種類の上手さだった。そこに一番神経を逆撫でされる。信じるしかない場面で、信じ切れない余地がある。
二階堂は眼鏡ケースから細い銀縁の眼鏡を取り出した。普段のものではない。度は入っていないらしく、かけても視線の定まり方が変わるだけだった。シャツの襟を少しだけ緩め、ネクタイを締める代わりに細い黒のニットタイをポケットから出し、結び目を甘く作る。広報官というより、管理部門の中堅に見える。責任は持たないが、口は出す。その類の男の輪郭だった。
「気味が悪いな」
真壁はようやく口にした。二階堂は鏡越しに目だけ寄越した。
「褒め言葉?」
「知らん」
「じゃあ都合よく受け取る」
九条が机の上のスマートフォンを指で軽く叩いた。
「相手は受け口なんだろ」
「うん。上じゃない。上に繋ぐ窓口」
「窓口は、上に見せる用の反応をする」
「だからいいんだよ。自分の判断を手柄にしたい人の方が食いつく」
二階堂はそう言ってから、急に口を閉じた。鏡の前で、今度は何もせずに自分の顔を見ている。目の焦点だけが微妙に変わる。さっきまでこちらを見ていた顔が、今はもう別の方向へ向いていた。真壁はその変化が嫌だった。人間の顔はそこまで簡単にずらせるものではないはずなのに、二階堂は必要とあれば、ごく小さな角度で別人になる。
「確認する」
二階堂が振り返った。
「俺は仲介役。立場は、抱えきれなくなった側から離れた人間。九条に情がないわけじゃない。でも義理を通す気もない。真壁とは切れかけてる。完全に裏切るわけじゃないから、こっちにも保証を求める。欲しいのは金じゃない。保護でもない。面倒ごとから降りる権利」
「曖昧だな」
「そこがいいんだよ。現実っぽいでしょ」
真壁は腕を組んだまま言った。
「向こうが本当に乗る保証は」
「ない」
「随分あっさり言うな」
「あるって言う方が嘘だから」
二階堂は机の上のスマートフォンを一台持ち上げた。接触用の端末だ。履歴はない。そこに、昨夜開いた窓口から返ってきた短いメッセージが残っている。
『本物なら、先生だけ連れてこい』
文面を見た瞬間の不快感を、真壁はまだ体から追い出せていなかった。欲しいのは九条だけ。その言葉を、こちらの都合で薄めることはできない。
「念のため言っとくけど」
二階堂が真壁を見た。
「俺が戻らなくても、予定を変えないで」
「冗談でもやめろ」
「冗談じゃない。窓口に触るってそういうこと」
「戻れ」
「戻るつもりだよ」
軽く言うが、その軽さがかえって腹立たしい。真壁は何も返さず、二階堂の顔を見た。九条が静かに言う。
「お前が乗ったように見えるのは、向こうの条件だ」
「うん」
「やりすぎるな」
「それ、お前が言う?」
「言う。こういう仲介役は、本当にそっちへ流れるときも似た顔をする」
二階堂は一瞬だけ笑みを消した。九条の言葉を軽く流さない程度には、意味をわかっていた。
「知ってる。だから半分だけにする」
それから二階堂は腕時計を見て、端末を内ポケットにしまった。
「そろそろ行く」
真壁が壁から離れる。
「場所は」
「地方駅前のファミレス駐車場。深夜営業の名残で、人はまばら。カメラもあるし、車も置ける。監視するにはちょうどいい」
「向こうが変えてきたら」
「それは断る。最初の一回で主導権を全部渡すと、次がきつい」
二階堂はドアの前で足を止め、振り返った。
「俺が遅れたら移動して。九条を置いて待つのが一番駄目」
「わかってる」
「真壁」
「何だ」
「その顔のまま見送ると、本当に切れてるみたいで助かる」
真壁は何も答えず、ドアを開けた。二階堂は肩をすくめ、一人で廊下へ出ていった。足音はすぐに遠ざかる。安っぽい鉄扉が閉まる音がして、部屋には二人だけが残った。
沈黙が、目に見えるようだった。
二階堂がいるときは、どうでもいい言葉が一枚噛む。そこに潤滑がある。いなくなると、その一枚が消える。真壁と九条のあいだに残るのは、昨夜から続く摩擦の熱と、まだ言い切れていないものばかりだった。
真壁は窓際へ行き、ブラインドの隙間から下を見た。通りには古い軽トラックが一台止まっているだけで、人通りはほとんどない。二階堂の姿はもう見えなかった。
「お前」
振り向かないまま言う。
「何だ」
「二階堂が本当に売ると思うか」
九条はすぐには答えなかった。その一拍が妙に長く感じられた。真壁はそこでようやく振り返った。
「……思わない、とは言わないんだな」
「そう見せるのは上手い」
九条は机から降り、金属椅子に座り直した。背もたれに浅くもたれ、指先で肘掛けの傷をなぞっている。
「上手いから、やばい」
「信用してないのか」
「信用している」
九条はそこで言葉を切った。
「でも、ああいう人間を見たことがある」
「仲介役をか」
「似た種類のを」
真壁は黙った。九条が自分から過去の話をすることは少ない。しかもこういう言い方をするときは、詳細を説明する気がないこともわかる。
「人を通す人間だよ」
九条は目を伏せたまま言った。
「誰かを直接触らなくても、声と条件だけで移動させる。本人の意思があるように見せたり、ないように見せたり、途中だけ切り取って話を通したりする」
「医者の話か」
「医者もいる。研究者もいる。事務屋もいる。肩書は何でもいい」
それだけ言って、九条は口を閉ざした。
真壁は、それ以上は聞かなかった。聞けば話すかもしれないが、今聞いていい種類のものではない気がした。九条の声は淡々としていたが、その淡々さ自体が、触れるなという線になっている。
「……二階堂は、ああなると思うか」
真壁の問いに、九条は首を横に振った。
「思わない」
「即答しないんだな」
「即答できるほど、人は単純じゃない」
真壁は椅子を引き、九条の向かいに座った。机の上には二階堂が置いていった紙片がある。接触相手の想定、緊急時の移動先、通信の優先順位。整理はされているが、整いすぎていて、人間の温度が消えている。
「敵は、お前だけじゃなく、俺との関係まで見てるらしい」
「そうだろうな」
「腹立たしいな」
「そういう見方をされるのは慣れている」
真壁は目を上げた。
「何にだ」
「関係ごと値踏みされること」
九条はさらりと言った。真壁は返す言葉を失った。慣れている、という言い方が、また癪に障った。こいつはそういうところがある。普通なら嫌悪で止まるものを、先に構造として受け取ってしまう。
「慣れるな」
「無茶を言うな」
「無茶でもだ」
九条が少しだけ口元を動かした。笑ったというより、呆れたに近い。
「お前、そういう時だけ雑だな」
「そういう時以外は丁寧みたいに言うな」
「少なくとも自覚はある」
そこで会話が切れた。
真壁は机の上の端末を見た。二階堂からの連絡はまだない。時計の針はゆっくり進んでいるはずなのに、感覚はその逆だった。五分ごとに十分分の重さがあった。
ファミレスの駐車場は駅から少し離れた幹線道路沿いにある。人は途切れないが、誰も他人に興味を持たない。監視する側には都合がいい。逃がす側にも、都合がいい。
二階堂は店内には入らず、駐車場の端に寄せた車の中で待っていた。借り物の軽ワゴン。色は地味で、年式も古い。こういう時に目立たないのは、高級車でもボロ車でもなく、中途半端な生活臭のある車種だと二階堂は知っている。
運転席でルームミラーを調整するふりをして、入口側のガラスを見た。まだ相手は来ていない。来ていたとしても、こちらを先に見ているだけかもしれない。
右手で端末を持ち、左手はハンドルに置く。呼吸は浅くしない。焦ると喉が締まる。喉が締まると語尾が立つ。語尾が立つと、警戒していることが相手に伝わる。
約束の時刻から三分遅れて、一人の男が店の脇から現れた。四十代半ば。スーツではなく、濃紺のブルゾンに灰色のスラックス。現場を上がったばかりの事務屋に見える。肩幅はあるが、歩き方に体力仕事の癖が残っていない。人を殴るより、人に命じる方へ移った男だ。
男は軽ワゴンの助手席側へ回り、窓を二度叩いた。
二階堂は少し間を置いてロックを開けた。男が乗り込む。香水ではない、整髪料と煙草の残り香が薄く漂った。
「顔、変えないんだな」
男が言った。低いが、妙に響きのない声だった。
「変えるほどの価値がないと思ったので」
「自信家か」
「逆です。価値があるなら、あなたも一人じゃ来ない」
男は鼻で笑った。完全には笑っていない。二階堂は横目で相手を見た。名乗らない。こちらにも名乗らせない。最初の接触としては自然だ。
「で」
男が言う。
「何がある」
二階堂は最初から本題に入らなかった。ダッシュボードの上の未開封のガムを指先でずらし、窓の外に視線を投げる。
「抱えてると、こっちが沈む」
「何をだ」
「人を」
男は返事をしない。
「真壁はもう持たない」
二階堂は続けた。
「先生を抱えて逃げるには、向いてない。向いてないのに抱えるから、周りまで沈む」
男の目がわずかに細くなる。
「真壁が切った?」
「切りかけてる」
「切ったのか、切ってないのか、どっちだ」
「だからこうして話してる」
二階堂は相手に正解を与えない。半端さを残す。完全な裏切りではなく、裏切りに傾いた人間の顔を作る。
「先生本人は」
男が聞く。
「分かってる。自分が切られる位置にいることは」
「素直に来るか」
「そこは保証しない」
「しない?」
「自分から差し出されるのと、切られて残った先で動くのは別でしょう」
男の口元がわずかに動いた。相手はこの答えを嫌うが、完全には否定できない。そこが重要だった。九条は、従順に引き渡される人間ではない。そこを無理に柔らかくすると嘘くさくなる。
「直接渡しに来たわけじゃない、と」
「ええ。直接渡すには、こっちも保証が要る」
「何の保証だ」
「終わったあと、こちらに面倒が残らないこと」
男はそこで初めて、少しはっきり笑った。
「金じゃないのか」
「金で済むなら、もっと早く別の窓口に行ってます」
「保護でもない」
「そんな大げさなものはいらない。ただ、降りる権利が欲しい」
「曖昧だな」
「現実的ですよ。深く関わった人間が欲しがるのは、大抵その辺だ」
男は助手席で指を組んだ。節が太い。現場経験はあるのだろう。だが今は前に出る役ではない。
「お前は何者だ」
「それをここで言ったら、今後の話が雑になる」
「真壁の何だ」
「そばにいる人間」
「先生の何だ」
「通す人間」
男は数秒、黙ったまま二階堂の横顔を見た。値踏みしている。その視線を二階堂は受け流す。真正面から受け止めすぎると、演技が強くなる。少し逃がすくらいがいい。
「お前、先生を売りに来たわけじゃないな」
男の言葉に、二階堂は肩をすくめた。
「その言い方は嫌いでして」
「じゃあ何だ」
「沈まない側に寄っただけです」
「きれいに言う」
「きれいに聞こえるなら、あなたの耳が上等なんだ」
男は小さく息を吐き、窓の外を見た。店の入口から、学生らしい二人組が出てくる。笑いながら自転車に乗って去っていく。この場所の無関係さが、かえって会話を生々しくしていた。
「確認の場を作れ」
二階堂は言った。
「先にそれだけでいい。真壁が切れた証明が必要なら、そっちが欲しがる形に寄せる」
「口約束で?」
「口約束で来るほど、そちらも甘くないでしょう」
男は再びこちらを見た。
「真壁を切った証明を見せろ」
「……」
「言ったな。真壁はもう持たないと。なら、持たないだけじゃ足りない。切ったと分かるものを見せろ」
「例えば」
「それを考えるのがお前の仕事だろう」
そこではじめて、二階堂は相手がただの使い走りではないと判断した。上手い。決定権はないが、条件の作り方を知っている。こちらの温度を見て、その場で一段深い要求に切り替えてきた。
「あなた方は、関係まで見てるんですね」
「見てるから、先生がまだお前らの手元にいる」
「真壁だけじゃなく?」
「真壁と先生の間もだ」
その言い方に、二階堂はほんの少しだけ本音で嫌な気分になった。だが表に出さない。
「先生は自分で来るか」
男が続けた。
「押されて来るのか、自分で来るのか。そこは上が気にする」
二階堂は視線を落とし、言葉を選ぶふりをした。ここは嘘だけでは駄目だ。
「自分で歩くでしょう」
「従う?」
「従うとは違う。自分で選んだように見える形にはなる」
「ずいぶん曖昧だ」
「先生はそういう人間です」
男は。それ以上は追及しなかった。代わりにポケットから紙片を一枚出し、折ったままダッシュボードに置く。
「次はここに連絡しろ。証明が出るまでは、それ以上は繋がない」
「上には」
「上は知る。だが、お前が本物かどうかはまだ別」
男はドアに手をかけた。降りる直前、少しだけ顔を寄せて言った。
「真壁を怒らせた程度じゃ駄目だ。切れたと見えるものを持ってこい」
「注文が多い」
「先生を欲しがる側が多いんでね。雑に拾えない」
それだけ残し、男は車を降りた。振り返らずにファミレスの脇へ消えていく。追う必要はない。追えば終わる。
二階堂はしばらく動かなかった。ハンドルに置いた左手だけが、じわりと汗ばんでいるのに気づく。深く息を吸って、五つ数えて吐く。胸の奥が少しだけ重かった。
上手くいった、とは言えない。窓は開いた。しかし条件は増えた。しかも厄介な方向に。敵は九条だけではなく、真壁と九条のあいだの温度まで見ている。感情を人質に取るようなやり方だ。
「最悪だな」
誰に聞かせるでもなく呟く。自分の仕事が嫌いだと思う瞬間は、こういう時だった。人が信じやすい半端な裏切りを作るには、自分の中にもその半端さを通さなければならない。技術だけでは足りない。少しだけ本音を混ぜる必要がある。その少しが、毎回あとに残る。
だが浸る暇はない。二階堂はすぐに端末を起動し、短い暗号化メッセージを送った。
『接触成立。条件追加。戻る』
送信し、銀縁の眼鏡を外して助手席に放る。鏡に映る顔が少しだけ元に戻る。完全には戻らない。そういう仕事だと知っている。
「面倒ごとから降りる権利、ね」
自分で口にした言葉を反芻し、二階堂は乾いた笑いを一つ漏らした。
「欲しいのは、そんな綺麗なもんじゃないだろ」
それでも、そのくらいの曖昧さでないと通らなかった。人は巨大な欲望より、くたびれた保身の方を信じる。二階堂はエンジンをかけ、車を静かに発進させた。
雑居ビルに戻るまでの二十分が、妙に長かった。
真壁は端末の短い通知を見たあと、何も言わなかった。九条も同じだった。二階堂が戻ってくるまで、部屋の空気はさらに乾いていた。待っている時間は、何もしていないくせに人を消耗させる。
廊下で足音が止まり、扉が二度、短く叩かれた。合図だ。真壁が開けると、二階堂は何事もなかったような顔で入ってきた。だが顔色は少し白い。真壁はそれを見逃さなかった。
「無事だな」
「今のところは」
二階堂はドアを閉め、内側の錠をかけた。ジャケットを脱いで椅子に掛ける。その動きにだけ、わずかな疲れが出ていた。
「どうだった」
真壁が訊く。
「成立はした。けど条件が増えた」
二階堂は机に紙片を置いた。折り目のついたメモ用紙には番号が一つ、手書きで残されている。
「次の窓口」
「上に繋がるのか」
「証明が出れば」
真壁の眉が寄る。
「何の証明だ」
「真壁が本当に九条を切った、って証明」
言葉が落ちる。真壁はすぐには反応しなかった。反応できなかったのではない。内容が、あまりにも嫌なところを突いていたからだ。
「……口で言えば済む話じゃないのか」
「向こうもそう思ってない。お前の性格をある程度知ってる」
「知った顔をするなって話だ」
「してくるんだよ。だから厄介なんだろ」
二階堂は壁際に寄り、短く状況を説明した。受け口の男。現場上がりの事務屋。こちらの半端さには乗ったが、最初から深い話はしない。欲しがっていたのは、引き渡しそのものより、真壁と九条のあいだの切断が本物かどうかだった。
「ただの演技じゃ通らない」
二階堂が言う。
「真壁が本気で突き放したように見えること。九条がそこから自分で動かず、でも従順に差し出されるわけでもないこと。俺がそれを仲介の材料にすること。その三つが要る」
「趣味が悪いな」
「同意」
真壁は机に手をついた。木目調のシートが貼られた安い机が、ぎしりと鳴る。
「俺と九条の温度まで測ってるのか」
「測ってる」
「気持ち悪い」
「だから通るとも言える」
「言えるか」
真壁は吐き捨てた。腹の底に、別種の苛立ちが湧いていた。九条を欲しがっているだけでも十分に不快だ。だがその手段として、自分と九条のあいだの感情の置き方まで覗かれるのは、もっと性質が悪い。感情を人質に取られたような気がした。怒れば、それが証拠になる。庇えば、それもまた材料になる。
「九条」
二階堂が九条を見る。
「確認された。お前は自分で来るか、って」
「何て答えた」
「自分で歩く、って」
「間違ってない」
九条は静かだった。二階堂はその顔を見て、少しだけ声を落とした。
「でも、従うとは言ってない」
「それも間違ってない」
真壁は九条を見た。その無風の返しが、また神経に触る。こいつはいつもそうだ。自分に関わる最悪の条件でも、まず精度を確認する。
「お前」
真壁が呼ぶと、九条は顔を上げた。
「何だ」
「そこで平然としてるな」
「平然としているように見えるだけだ」
「見えるなら同じだ」
「違う」
珍しく、九条が少しだけ強く言った。
「違う。見えるのと、そうであるのは別だ」
「向こうは見える方を取る」
「だから芝居になる」
「そういう話じゃない」
九条は言い返さなかった。代わりに視線だけが真壁に残る。二階堂がその間に入るように言った。
「次はもっときつい」
「わかってる」
「真壁、怒るだけじゃ足りない。切れた理由が要る」
「理由?」
「九条を抱えて沈むのが嫌になった。あるいは九条の側が、自分を軽く扱いすぎて愛想が尽きた。そういう線」
真壁は顔をしかめた。
「どっちも気分が悪いな」
「気分よく済む話じゃない」
二階堂はそこで一度、言葉を切った。疲れが顔に出かけていた。だが次の瞬間には、もういつもの調子に近い薄い笑みが戻っている。
「まあでも、方向は見えた。窓は繋がったし、相手も欲を隠し切れてない。九条を欲しい側が複数いる」
「一枚岩じゃない」
「うん。そこは使える」
真壁は椅子を引き、腰を下ろした。頭の中で整理しようとしても、感情が邪魔をする。敵は九条を欲している。そのために二階堂が仲介役の顔を作る。自分は九条を切った側を演じる。演じるだけでは足りず、本気でそう見えなければならない。
「本当に切れたように見せる、か」
真壁が呟くと、二階堂が頷いた。
「お前ら、素材は十分だからね」
「嬉しくない評価だ」
「知ってる」
九条が窓の方を見たまま言う。
「やるしかないなら、やる」
「軽く言うな」
「軽く言ってない」
「軽く聞こえる」
「それはお前の問題だ」
真壁は反射的に言い返しかけて、やめた。二階堂がその様子を見て、目だけ細める。
「ほら、やっぱり使える」
「黙れ」
二階堂は両手を上げた。
「はいはい。でも、次は本当に順番を決める。誰がいつ怒るか、誰が何を言わないか、そこまで組まないと駄目だ」
部屋の空気がまた重くなる。
窓の外では、昼に近づく光がビルの隙間を白くしていた。まだ朝のはずなのに、ひどく遠い時間のように思える。真壁は自分の手元を見た。拳が無意識に握られている。力を抜こうとしても、すぐには抜けない。
その時、二階堂の端末が短く震えた。
三人の視線が集まる。画面に出たのは、さっきの受け口とは別の番号からの短い通知だった。本文はなく、位置情報だけが添付されている。見覚えのない地点。河川敷近くの古い倉庫街。
「何だこれ」
真壁が言う。
「……知らない番号」
二階堂は眉を寄せた。数秒だけ考え、すぐに画面を伏せる。
「さっきの相手じゃない」
「追われてる?」
「可能性はある。でも直後すぎる」
九条が低く言った。
「堀島か」
「断定はしない方がいい」
そう言いながらも、二階堂の顔つきは固くなっていた。受け口に触った。その情報が、別系統へ漏れたか、最初から漏れていたか。どちらにせよ、盤面はさらに嫌な方向へ開いている。
その頃、堀島は車の中で煙草に火をつけようとして、やめた。
火をつけたところでうまくならない。窓を少しだけ開け、指先で煙草を転がす。昼前の灰色の光が、ダッシュボードの上に平たく落ちていた。
「二階堂が動いたか」
助手席の男が小さく頷いた。直接見たわけではない。だが窓口に触れた痕跡がある。いつ、どこで、何分いたかまでは追えていない。それでも十分だった。
「先生が渡される形を作ってる」
「らしいです」
「らしい、ね」
堀島は煙草を折った。乾いた音が車内に落ちる。
怒っているわけではなかった。怒りだけなら簡単だ。真壁たちが九条を守りきれなくなった。その結果、誰かが仲介に回る。それ自体は理解できる。理解できるからこそ、なおさら気に入らなかった。
先生が自分で来るのなら、まだいい。
自分で歩いて、自分で選んで、こちらへ来るなら、止める理由は薄い。だが渡される形は駄目だ。誰かの都合で、誰かの保身で、きれいに包まれて移されるのは気に入らない。そういう線を通されるくらいなら、途中で壊した方がましだと堀島は思っていた。
「止めますか」
助手席の男が訊く。
堀島は少しだけ笑った。笑みは冷たくも温かくもなかった。ただ、どこかずれていた。
「先生が自分で来るなら、止めない」
「じゃあ」
「渡される形なら、壊す」
それだけ言って、堀島は折れた煙草を窓の外へ放った。風にさらわれ、白い紙片みたいに遠ざかっていく。
真壁たちの知らないところで、もう一つ別の温度が動き始めていた。




