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十九 荻

時代設定が1990年と古いです。平成2年のお話です。

えっ、と思われる設定には温かい心でお願いします。

 サイモンは受話器を取った。

 軽く息を整える。整えてから、何やってるんだと考え直した。今のは無し、と心の中で一人呟く。しかし、自分自身に公言をしたからと言って、今の事実がなくなる訳でもない。

 これから、荻に電話をするのである。

 渦間と長谷川と別れたのは、今から一時間ほど前になる。長谷川の言う喫茶店で、二時間ほど話をした。

 北巻しぐれのこと。河原千鶴のこと。そして、加賀美のこと。真実が関わっているのかは、無視する結果となった。話し合ったが、今回の事に関係しているような結論にはならなかったのだ。

 二人とも、午前一時頃に津田沼駅に来ると言った。

「好奇心、好奇心。」

 渦間がわざわざそう断った。長谷川が言った。

「お前、何、照れてんの?『手助けに行く』でいいじゃん。」

「人の気持ち勝手に読むなよな。」

 渦間が心外そうに言う。長谷川が答える。

「お前のこと知らない人間が聞いたら、誤解するぜ。」

「別にそれならそれでいいですっ。分かる人間には分かるんだから。」

「そっちの方がいいかもな。お前はお人好しだし。」

「って言うかさぁ。やじゃん。手助けに行くつもりが、迷惑だったり、結果として迷惑になったりしたり、そんなことになったらさぁ。」

 長谷川は笑った。

「言い訳とか自分の行動の説明なんてのは、求められたとき以外要らないと思うんだけどな。カッコ悪いし。」

 渦間と長谷川は、親友であったとサイモンは思い出していた。

 深呼吸をする。

 電話の番号をプッシュした。

 八回、ベルが鳴った。広い家なのだろうか。

「はいっ、荻ですけれども。」

 明るく、優しい声が流れてきた。明らかに造っている。しかし、紛れもない。

「あっ、恭神ですけれども。」

「やっぱりサイモン君だった?」

「そう。」

 妙な間があった。何となくこそばゆい間だ。

「えーと、今日のことだよね。聞きたいのは。」

 サイモンは気を利かせたつもりで言った。一瞬、ためらったのが電話の此方にも分かった。

「うん。何か、ごめんね。電話させちゃって。」

「いやいや、いいよ。そんなことは。……何から話せばいいのかな。」

「最初からがいいけど、長い?」

「そんなことはないけど。簡潔に話すからね、俺。そっちのほうが得意だし。分からないことがあったら、質問してくれたほうが助かるから。」

「うん。」

「加賀美と山本竜樹が交わした約束は話したよね。」

「迎えに行くって奴でしょ。加賀美君が。」

「そう。でも、すぐにそういう風になったわけじゃないんだ。最初、出会ったとき、山本竜樹は女と一緒でね。その女も北巻しぐれの事を知っていたもんだから、揉めたんだよ。……口振りからすると、やりあったらしい。何かまでは分からないけどね。」

「大丈夫だったの?」

「まあ、それはね。山本竜樹が何とかしてたよ。今日は山本竜樹の誕生日みたいなことも言ってたな。」

「ふーん。」

「それから女とは別れて、喫茶店で北巻しぐれのことを話した。新聞にも出てたから、知ってるはずだと思ってたんだけどね。」

「……知らなかったの?」

「よく分からなかった。分かったのは、北巻しぐれは山本竜樹にとって、かなり大きな部分を占めていたような雰囲気かな。」

「ふーん。二人はどういう風につき合ってたの?」

「いや、分からないよ。なんで。」

 電話の向こうで荻が慌てたように言う。

「ううん。なんでもない、ちょっと興味があっただけ。」

 サイモンは考える。それから言った。

「山本竜樹の態度を考えると、あんまり良い付き合いじゃなかったんじゃないかな。女同士で争った事が、僕たちでさえ想像がついたし。北巻しぐれの事に触れると、何だか異常に緊張がはしってたしね。個人的なことに触れると普通の人は何かしらの表情が出るはずでしょ、怒るとか、失笑とか、不機嫌になるとか。でも、山本竜樹は無表情を装ってるんだ。なんだろな。互いのとっても純粋な部分でつき合っちゃってたんじゃないかな。………これで答えになってる?」

「うーん、とね。山本竜樹ってどんな人だった?」

 荻の答えは新たな問だった。サイモンは荻の考えてることは分からなかったが、思い出しながら言ってみる。

「俺の主観で話していいの?」

 荻の笑いが聞こえた。サイモンは驚く。

「えっ……何か、俺。面白い事言った?」

「なんでも無い。サイモン君ておかしいね。」

 サイモンはなにが何だかさっぱり分からない。

「主観でいいよ。」

 荻が言う。サイモンは納得いかない気がしたがそのまま話し始める。

「一番印象に残ってるのは、加賀美が『津田沼駅に来て下さい』って頼んだときかな。それまでは静かだったくせにいきなり激しい拒絶を見せてね。気にくわなかったな。表面上だけ合わせておいて、自分の責任をうまく躱そうとしているようで。与えられた責任は果たすけど、与えられてないことに関しては全く関与しない。それでいて、全てを知っているように振る舞う人がいるけど、そんな人っぽかった。熱くなるのを嫌がっているって言うか、周りから無理やり自分の価値を引き出そうとしている人と似た行動をとる人だった。」

 会話の途切れを待っていたように荻が慌てて言った。

「ちょ…っとサイモン君、いい?」

「えっ。」

 冷汗が一瞬だけ背中を湿らせた。サイモンは自分が調子に乗っていたと思った。荻の声は明かに今の自分の語りに関しているものだったからだ。しかし、刹那に考えたその心配は杞憂に過ぎなかった。

「言ってることが、難しくてわかんない。」

 サイモンを慮っている台詞が続いた。

「結局、山本竜樹さんってどんな人なの?」

 サイモンは自分の言葉で喋っていたことに気がついた。頭の中で言葉を入れ替える。

「え………えーと……ね。」

 自分の言い方を咎めない荻の心の広さに、口に出さず感謝をする。

「調子のいい人かな?」

「そんなに簡単になるの?」

 荻の口調は呆れていることを表していた。

「ごめん。でも、程度の問題なんだよ。自分を肯定するために、自分自身で自分の価値を決める雰囲気ってあるじゃない?」

「どんなの、それ。」

 サイモンは少し言葉に詰まった。荻とは感性が合わないのだろうか。

「……言うならば責任転嫁かな。」

 サイモンは自分の言ってることが要領を得てないことに苛々しながら言葉を繋ぐ。どうしても言葉が浮かんでこない。しかし、その答えは予期していないところからやってきた。

「分かった。サイモン君。山本竜樹がとんな人なのか。」

 荻が言った。

「感情的で、愚痴っぽそうな人だ。」

 サイモンは呆気にとられた。荻の言葉を吟味してみる。しかし、それはすぐに終わった。

「………そう、そんな感じ。」

「でも、愚痴を見せないようにしてる人でしょ。愚痴なんかないよぉって顔してる人。当たり?」

 サイモンはどうしても負けたような感覚が拭えない。

「顔はすごく良いけどね。」

「ハンサムなんだ。」

「何を基準にそう言うのかは分からないけど、そうだと思う。」

「ふーん。」

 そうか、あの顔は愚痴っぽそうな顔って言うのか。サイモンは今日会ったばかりの竜樹の顔を思い出していた。怒りが垣間見えたり、脅えが見えたりする不安定な雰囲気の持ち主。

「そっか、山本竜樹ってそんな人か。」

「何か関係あるの。荻さん。」

「サイモン君、今さっき、二人が純粋なところでつき合ってるって言ったでしょ。」

 間があった。「うん。」と相槌を声に出すと荻の言葉が続いた。

「結構私たちの歳って、愚痴と悩みを間違えて袋小路にはまっちゃうときがあるんだ。私、恋愛相談なんかを受けたことがあるんだけど、変なこと悩んでる人とか多いの。『何で俺、あいつ怒らしちゃうんだろ』とか、『私の気持ちを彼、何も分かってくれない』とか。」

 一瞬また間がある。慌ててサイモンは相槌を言った。サイモンは荻は相槌を聞きながら話すのだと納得した。

「それをよくよく聞いてみるとね。どうしようもないことだったりするの。」

「うん。」

「どうしようも出来ないこと、自分でどうにかしようと思ってない事を、さもどうにかなるように喋ってることは、悩みじゃなくて、愚痴なのよね。自分か、他人がその人に話したことで変われるんなら、その問題は悩みなんだけど。そんなに簡単に変わるわけないでしょ。自分も他人も。」

「うん、解る。それはよく解る。」

 サイモンは、荻の考えにおいて『自分が渦間に愚痴を言ってなかった』とほっとしていた。その後に、何でほっとするんだ?と自問した。

「だから、いつまでも、悩んでしまう人が出てくる。」

「うん。」

「荻さんは、山本竜樹がそうだって言うの。」

「そうかもしれないって思って。」

「じゃあ………北巻しぐれも、かな。」

 荻は答えない。

 どうしようもないこと。

 答えが変わらないこと。

 それは、いつでも自分の目の前に立ちふさがる。

「サイモン君の名字ってなんだっけって。」

 荻か、突然言った。サイモンは、戸惑った。何が何だか分からない。

「恭神だけど。」

「神に恭じるか。」

「そっ。」

 サイモンは何となく、山本竜樹のことが浮かんだ。変な名字で悪かったな……。呟く。

「何でみんなサイモンって呼ぶの。」

「呼びやすいからじゃないかな。」

「フーン。」

 妙な間。電話をかけたときの沈黙そこにまた、あった。

「私、恭神君って、呼ぼうかな。これから。」

「何で。」

 と無邪気に言ってから、なぜだかサイモンはしくじったと思った。荻がもっと重大なことを言おうとしていた気がした。

「私はそっちのほうが呼びやすいもの。」

 うまくかわしたな。サイモンはそう思う。ところが自分が何でそう思うのかが解らない。サイモンは自分自身の心の動きに戸惑いながら肯定の答えを出した。

「えっ、別にいいけど。呼びやすいなら。」

「じゃ、そうするね。恭神君。」

 恭神が強調された。可愛い声がサイモンの耳にするりと入って来る。

「はい。」

 思わず答える。荻が笑った。

「何だかかわいい。」

「なに。それ。それより荻さん僕の問に答えてないよ。」

 サイモンは、荻とのやり取りで自分が情けないような気がしてきた。何でなんだろうか、女の人だからか。

「恭神君、無意識って信じてる。」

 サイモンは、ますます荻が分らない。

「……うん、信じてるかな。」

「霊感もあるしね。」

「いやぁ、別に関係無いと思うけど。」

「そぉ。」

「確かに霊感がどっから来るのって言われたら答えに困るけどね。」

 サイモンはそう言って、続けた。

「無意識がどうしたの。」

 荻が頷く合いの手を入れて続けた。

「北巻しぐれさんの事なんだけどね。私の話し覚えてる?」

「うん。それがどうかしたの。」

「医学部に強制的に行かされるって事は、父親の分身になることと、女性である事同時に求められてるって意味になると思うの。」

「相反する事の共存を求められてるって事か。」

「そう。」

 荻の考えにサイモンは驚く。そう言う物の見方があったのか、と。

「でも、北巻しぐれはそれを選んだんだ。」

「表面的には。でもね、人は順応しようとするの。これが正しかったんだって。」

 サイモンは荻の言葉には騙されない。

「………何が言いたいの。」

「山本竜樹さんとの付き合いは、しぐれさんの逃げ場所でしかなかった。」

 荻の断言。ちょっとしてから続く。

「って、一面もあると思う。」

 サイモンはほっとしていた。荻が偏見の持ち主に思えたからだ。

「それが荻さんの言う無意識になるの。」

「うん。無意識の求めているものは、現れないのよね。自分自身の表層意識には。本当に求めているものを本当に知ることは難しいし。自分では解らない無意識の中で、妥協できなくなっちゃったのかなぁって。」

 サイモンは荻の言葉を咀嚼してみる。それから言った。

「山本竜樹は、何かの代わりになるのかな。それじゃぁ。」

「わかんないけど。山本竜樹さんを山本竜樹さんとしてつき合ってたのかは疑問が残ると思う。」

 間があった。

「でも、誰でも多かれ少なかれ、それはあると思うけど。」

 サイモンが言った。サイモンの声は、見方によっては沈黙を嫌ったようにも取られるタイミング。

「うん。」

 荻が、言う。

 声が、儚い。

「でも、普通しないと思う。私だったらって考える。お腹の命と一緒になんて。」

 言葉が、滴となって波紋を広げた。

 サイモンは荻がなぜこんなにも話すのかが解った。今更解ったのが、自分の不甲斐なさだと感じた。自分の心が急に優しくなる瞬間を感じる。サイモンは違うことを言った。

「ねぇ、荻さん。河原千鶴の話しはしたっけ。」

「ううん。」

「してないよね。少し話してもいいかな。」

「………死んだ人、だよね。」

 萩の選んだような言葉遣いは、サイモンの勘には触らない。

「…うん。渦間の妹の先輩だって。」

 サイモンは渦間から聞いた河原千鶴の話しを始める。

 北巻しぐれの幼馴染みの少女。十年前に確かに成田に住んでいた。その時清水真実とも友好を持っている。性格は、人の痛みに涙をする感受性の強いものだったという。その性格を表す出来事が、一つある。差別を生む不気味な出来事。だが、千鶴の性格の良さがそれを阻んでいた。

 文化祭の大道具の仕事をしていたとき、一人の男子生徒が不注意で指を鋸で切断したのが始まりだった。そのクラスでは、教室で劇をすることに決まっていた。そして、その生徒は背景の木を作っていた。鋸でベニヤを切り、それを接着する。次に、段ボールに緑の紙を貼ったものを適当に張りつけて行く。その作業が担当だった。

『痛っ。』

 それは、誰もがする痛みに対する普通の声。しかし、その出来事の程度が、感覚的に分かったのだろう。一瞬、微動だにしなくなった。その雰囲気は教室中に伝染した。誰もが、何が起こったのかと手を止め、その生徒のほうに目を向けた。

 指が、教室の床に落ちていた。

 白昼夢の様な曖昧な現実感が教室に充満した。床に無造作に落ちているそれは、絵の具では表現できない色が剥き出しになっている。溢れ出る血の赤に隠れるその間から見える白。唖然として自分の手に見入っている一人の男。右手の人差し指が第二関節から、ない。冷静な人間はそういう場にも、一人は居る。しかし、そう言われているはずの学生も、教室の雰囲気に飲まれていた。その生徒が、声を出そうとした。その瞬間だった。

 叫びがあった。

 誰もが正気に返る叫びだった。

 河原千鶴が叫んでいたのだ。

『保健室だっ。先生を呼んで来いっ。』

『痛いっ痛いっ痛いっ痛いっっ。』

 血が噴き出していた。その叫びは、男子生徒こそがするはずのものだった。しかし、河原千鶴は叫んだ。女子生徒が駆け寄った。河原千鶴は右手の人差し指を押さえた。

 先生が来たとき、怪我人が二人いた。

 指の千切れた男子生徒。そして、人差し指から、その毛穴から血が噴き出ているとしか考えられない状態になり、意識を失っている河原千鶴。それをとりまく………。

「聖痕て言うのを私、聞いた事がある。」

 荻が言った。

「………似てるかも。確かに。」

 サイモンは続けた。

「その件から、何となく河原千鶴は孤独だったらしいよ。」

「北巻しぐれさんとは?」

「これは荻さんも聞いてるけど。年賀状のやり取り、手紙のやり取りは確かにあった。渦間の妹が懐いてて、なんかの会話で知ってたそうだよ。しぐれさんの死後、北巻医院に行ってる可能性は、ないと思う。凄い嫌悪感を持っていたと聞いたって。」

「………そっか。」

 荻の言葉は、孤独が人をつなげる一つの絆になりうることを知っているようだった。荻は悲しんでいるのだろう。サイモンは荻に済まないことをした気持ちで一杯だった。自分が頼み事をしなければ、彼女にとっては北巻しぐれが選んだ結果は、どこにでもある新聞の記事でしかなかったはずた。少なくとも、ここまで、荻は考えなくてもすんだはずだった。

 サイモンは、言った。

「ごめんね。荻さん。」

「えっ、なんで。」

「いや、だからね。その、色々頼み事しちゃってて。」

 荻は吃驚したように答えた。

「どうしたの。急に。恭神君、変だよ。」

 そりゃないんじゃない、サイモンは思った。自分の思ったことは思い過しだったのだろうか。そんなことはない。荻さんは気を使ってくれているのだ。サイモンはそう思い直した。

「あー、その。……ありがとう。荻さん。」

「……今度は何よぉ。」

「あれれ。」

 サイモンは思わず言ってしまう。サイモンは自分がかっこ悪いことに気がついた。荻は、別に気にしていないらしかった。サイモンは自分の自意識過剰に気づいた。

「話は変わるけど。荻さん、どうするの。話はこれで御仕舞(おしまい)だけど。」

「うん。どうしようか。何時に津田沼駅に皆、行くの。」

 と言うことは、荻は来るのだとサイモンは思った。

「分からないけど、終電だと一時ぐらい。タクシーであっても三時前にはその場所に居ると思う。」

「遅いね。」

「逢う人が、………特殊だからね。」

 サイモンは言葉を選んだ。荻が、間を置いた。

「私、行ったら、迷惑かな。」

「いや、いいんじゃないかな。って、その。渦間と長谷川も、津田沼駅に来るって言ってるし。」

「山本竜樹さんに会いに。」

「えっ。」

 サイモンは何と答えるか、迷った。それは、サイモン一人で決めることの出来ない問題であった。

「加賀美が、なんて言うか。」

「加賀美君。駄目って言うかな。」

 サイモンは正直分からなかった。昨日までの加賀美ならば、即座に断ったであろう。しかし今日、加賀美は変化を見せた。取り合えず、変なものは取り払った気がしている。もしかしたら、良いというかもしれなかった。

「わからない。正直言って、分からない。」

「うん、ごめんね。長谷川君達はどこに居るんだろ。」

 サイモンは胸の痛みを感じた。それはすぐに過ぎ去る。サイモンは答えた。

「飲んで、歌って、ボーリングしてって。暇を潰すつもりだって言ってた。一応、一時に津田沼駅に待ち合わせてる。」

「どこで、飲んでるって言ってた?」

「気ままに決めるって。」

「そっか。じぁあ、うん。……一時に津田沼駅で。」

 心細いように言った言葉にサイモンは答えた。

「心強いよ。」

 荻の笑い声が聞こえた。うまいんだから恭神君。その口調は甘えるように優しかった。荻が、それじゃぁと言って電話を切った。サイモンもそれに答え、受話器を戻す。

 一瞬、甘い考えが浮かんだ。しかし、今はそれどころじゃないと頭を振った。

 その考えは正しかった。

 八時二分前。

 サイモンは、加賀美の電話を待ち電話器の前に立っていた。

 電話が鳴った。

 サイモンは受話器を取った。

「はい、恭神ですけど。」

 受話器の向こうから、雨音が聞こえてきていた。

「サイモンか。」

「加賀美。どうした。」

 サイモンは、加賀美が自宅からかけてくるものだと思っていた。しかし、予想に反しそれは外からだった。

「……急いで、出てきてくれ。」

 加賀美の声は荒い息の合間に聞こえてきている。走ってきたばかりのようだった。サイモンは鋭く聞いた。

「何があった。」

「家を、抜け出した。ばれると、まずい。」

 加賀美の母親の顔が浮かぶ。当然考えられることだった。

「金はあるのか。」

「金はある。傘が、ない。」

「分かった。」

 サイモンは家を飛び出した。

1990年から1998年で書き上げた作品を投稿します。

少し手直ししました。なんか、ちょっと作品が若々しくて苦しい…全二十六話+4話(前日譚、プロローグ、エピローグ、後日譚)です。

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