十七 どこへ
時代設定が1990年と古いです。平成2年のお話です。
えっ、と思われる設定には温かい心でお願いします。
七月一日。水曜日。
北巻しぐれは、山本竜樹のマンションへ向かっていた。
義父の事も母親の事も考えたくなかった。何年も前に別れた家族と比べられる自分。それを理由に、何の憤りなのか。信じられない事を要求してきた最悪な男。何を考えているか分からない眼、あれは、心を竦ませ何も考えることが出来なくなる。振るわれる理不尽な暴力。それは、身体を縮こませる恐怖そのものだ。それを知っているのか、知らないのか。実の娘に何もする事の出来ない母親。そして、自分が妊娠しているという事実。
私のおなかには子供がいる。
こどもが。
どしゃ降りの中を裸足で飛び出した。靴はいつものところに隠してある。所持金は少なかった。竜樹にあいたい。
それだけ。竜樹にあいたい。
私の何がいけなかったんだろう。
何で別れるなんて私に言うんだろう。
もう二度とあえないことをはっきりと言った、聞きなれた深い声色。
子供がいるの……こどもが……。
私、あなたの言う通りにしていなかったの……。だから……。
だから、いるの……。子供が。
あなたの子共が。
言う通りにしていなかったから?
怒ってたわよね、あなた。私に。何度も何度も。
でも、何で?
あなたの言ってたことは私の義父と変わりはしない……。
義父と変わりはしない!
傘を差した。用意周到なのは、小学生のころに身に付いた私の知恵。
竜樹にあいたい。
駅までの道を歩く。気持ちは沈み、自分を暗闇の中に隠す。しかし、そんな自分のどこかに有りえない期待に弾む心がある。
有りえない期待。
竜樹が私にかけてくれるであろう、やさしい言葉……。
やさしい言葉……。
帰り道、傘をさしながら駅に向かう途中。加賀美がゆっくりとサイモンに語りかけてきた。駅までの道程は、独りで歩いてきたときより格段に早く過ぎ去って行く。加賀美の印象は日に日に、そして、一瞬一瞬で変わっていっているとサイモンは感じた。
今の加賀美は穏やかだった。
「俺は、山本さん。何も知らなかったと思う。」
サイモンは加賀美のほうに振り向こうとして、やめた。加賀美を、物珍しいものを見るように接する必要はなかった。今の言葉の真意を考える。加賀美は俺を責めているのか、と。しかし、今の加賀美からはそんな雰囲気は読み取れなかった。ただ、事実を言っているだけであった。
(そうかもしれないな。)
サイモンは素直にそう思う。そして、加賀美に問うた。
「何でそう思うんだよ。」
加賀美は力ない笑いの呼吸をした。
「勘だけどね。」
加賀美の言葉は、他人をよく評価しようとするお人好しの口調だった。サイモンは言おうかと思った。おまえは気づいていなかったのか、と。自分が竜樹に侮辱されていたという事実に。しかし、その事実を告げることは今の加賀美には避けたほうが良い気がした。加賀美は自分のことで精一杯だとサイモンは判断したのだ。「迎えに来ます。」と言う言葉は、初対面の相手に並大抵の決意で言える言葉ではなかった。例え、それが何か不気味なものに強制されていた何かであったとしても。人は、納得しなければ、動きはしないのだから。
「ならば、そうだったのかもしれないな……。」
サイモンはそうとだけ言った。
サイモンには、竜樹が北巻しぐれに何かの恐れを持っている様に感じられた。加賀美が、北巻しぐれからの使者、代弁者であるかのような反応に思えた。ほかの理由で説明するには、不自然な体の震え。もうすでに終わっているはずの恋人のことに、過剰に反応した結花という女。そして、加賀美の言葉に取り込まれたとしか思えない状況で頷いていたあの態度。
分かるはずのない問い。
竜樹と北巻しぐれは何の様に付き合い。
そして、別れたのか。
傷つけあったのだろうか?
「なあ、サイモン。」
加賀美の声にサイモンは我に帰る。
「んあ?何。」
やる気なく返事をする。加賀美をそっとしておきたかった。
「……俺、変だよなぁ。」
サイモンは何と答えるか迷った。西葛西の駅が見えていた。商店街の時計台を見る。時間は午後三時過ぎ。サイモンは違うことを言った。
「予備校。いこうぜ。」
二人は顔を合わせていなかった。
「うん。……母さん。迎えにくるんだ……。」
「そっか。」
二人は切符を買うと、駅の改札をくぐった。
加賀美は今日、再びここに来ることを竜樹と約束していた。サイモンは自分はどうするべきかを自問自答していた。
どしゃ降り。終電が近かった。
JR線で千葉へ。それから電車を乗り次ぎ、西葛西駅へ。
竜樹に逢うために。
何と言おう。
本当のことを言おう。
恥ずかしがったり照れたりせずに、自分の気持ちをしっかりと言って聞いてもらおう。最初に言わなきゃいけないこと。
竜樹を愛してるって。
「ちょっといいかな……。」
電車の中で、サイモンは聞いた。
少し、ためらった。
「……加賀美。成田に行ったよな。俺達。」
人影はまばらだった。雨の降る昼下がりの電車内。クーラーが肌寒い。二人の会話に注意を向けるような物好きは、無論いない。
「理由は、何だ?北巻しぐれの事を知りたかったのか?」
加賀美は頷いた。そして、言う。
「しぐれさん。……かわいそうだ。」
サイモンは加賀美の次の言葉を待った。
「………あんなところに、一人で。」
加賀美の言葉には力強さがあった。それは北巻しぐれに対する加賀美の同情だった。渦間と昨夜話し合った答えは、加賀美の口から容易く語られた。しかし、サイモンは心で、一人ではないと訂正する。サイモンは加賀美にこの事実を言えないことを感じた。それとも、言ったほうがいいのだろうか。
北巻しぐれが、危険すぎる存在になっていることを。
人を一人殺している、その、人を飲み込む感情の激しさを。
それとも加賀美は、それを充分承知しているのだろうか。
三度殺されそうになっている加賀美は。
すべてはそれを見越した行動なのだろうか。
加賀美は北巻しぐれに同情している。その同情が、今までの一連の動きの理由だった。では、先ほどの加賀美の体から発散された霊の影響力は何だったのか。出来事の確認を取るべく、目を細める。憑りつかれているのであれば、見えるはずだった。
何も見えない。巧妙に隠れているのか。行動や思考に影響を与えているだけなのか。それとも、何かの媒体として、利用されたのか。
初めての経験で、判断が出来ない。
もう一度、一から考えようと頭を振ってみる。
加賀美の行動は同情。その思いで行動している。
北巻しぐれが、その同情を利用している可能性は思いつく。
では、どのような結末に向かい、そして、河原千鶴は、どうなるのか。
全く分からない。
そもそも同情で、なにが出来るのか。いや、媒体としての利用が出来る事実を先ほど見た。
サイモンは加賀美の横顔を見た。
物思いに沈み、辺りが全く目に入らない表情をしていた。その横顔は強い決意を秘めているようにも、不安に打ちひしがれようとしているようにも見えた。無意識に刻み込むように反芻する。加賀美の考えていることが分かった。同情を利用されている可能性が分かった。しかし、結果が分からない。
サイモンはしばらく加賀美の横顔を見つめた。
そして、河原千鶴のことについて思いを巡らし始めた。
インターホンを鳴らした。
何度も何度も。
なかなか出てこない竜樹。耳を澄ます。聞こえてくる争う声。
居るんだ。彼女が。結花という女が。
戸惑う心。私はここに来たのは間違いだったのかもしれない。
本当は、私自身で何とかしなけれはならないのかもしれない。
でも、…………。
この子は竜樹の子。
竜樹。あなたの子供よ。
子供よ!
子供なのよ!!
何で開けてくれないのよっ!!
「あれっ?まだ居たの?二人共。」
渦間と長谷川の耳に、荻の声が聞こえた。ざわめくA館のホールに居た二人は、その声に一様に振り向く。
「今日の講義は、終わり五時じゃないの?」
長谷川が先に声をかけた。荻は頷いて肯定を示す。それから、自分の不安を口にするように言った。
「加賀美君とサイモン君はまだ来ないの?」
「じぇ~んじぇん来ませ~ん。」
渦間が尻上がりのおどけた口調で、そう嘆いた。荻が心持ち体を引いたのと、長谷川が渦間に話しかけたのは、ほぼ同時だった。
「渦間。お前、大学に行って、かるくなったな。」
渦間はそれを聞いて動揺する。自分でも気になっていたらしかった。
「そっ、そうかな。……え……ええっ!荻さんどう思う?」
渦間は意味もなく荻に振った。荻さんは何か考え事をしているらしく、俯いていた。無論、渦間の話など聞いていない。渦間の動きが一瞬止まる。しかし、めげないで再度荻に話しかけた。
「荻さん!荻さんっ!」
荻はやっと顔をあげる。
「えっ?」
長谷川が笑い出していた。渦間が奇妙な笑いを見せながら荻に聞く。
「今の、聞いてた?」
荻はキョトンとした顔で言った。
「何を?」
「わぁーん。琢磨先生。荻さん、全然聞いちゃいねぇ。」
長谷川の笑い声が大きくなった。荻が戸惑う。
「何か渦間君、言ってたの?ごめんね。聞いてなかった。」
そして、耳を側立てる仕種を見せる。渦間が答えた。
「いや、別に大したことじゃないから。」
長谷川はまだ笑っている。顔を真っ赤にして渦間の肩を叩く。
「スゲー今の可笑しい。」
「何だよぉ。いい加減にしろよ琢磨よぉ。」
その時一瞬にして、荻の顔が明るくなった。驚いて、渦間と長谷川が荻の視線を追う。
そこにサイモンと加賀美の姿があった。
二人は西船橋でJRに乗り換えて津田沼へ。
たわいのない会話を交わすだけで、そのまま電車は津田沼に着いた。時間は、四時を過ぎていた。長かったなとサイモンは思う。そして、加賀美もそうだろうとサイモンは想像する。
河原千鶴は、いったい北巻しぐれとどこで同調したのだろうか。
サイモンは考えるには情報が何もないと分かっていた。
予備校が見えてくる。それと共に疲れが出てくる。例えようもない心の苛立ちがある。ゆっくりと深呼吸をする。心を静める。今は、やるべきと自分で決めたことをしなければならないのだ。ふと、サイモンは荻に逢いたいと感じた。行くときにひどいことをした気になっていた。謝らなければ。そう思う。
「サイモン。あれ見ろよ。」
二人はA館に向かっていた。加賀美の声は呆れたような響きがある。サイモンは顔をあげた。A館のがラス張りのロビーに知り合いの姿がある。サイモンも呆気にとられる。
「渦間が何でいるんだ?あいつ、今、世田谷じゃなかったっけ。」
加賀美が言う。その隣に荻と長谷川の姿がある。荻が微笑みを浮かべてこちらに可愛く手を振っているのに気がついた。サイモンはそれに答える。
「サイモン。何、手をふってんの?」
加賀美が問を発した。気づいていないらしい。少し得意な気になるが、サイモンはそれは尾首にも出さなかった。
「別に。」
「ふーん。」
二人はA館に入った。
女の姿があった。
私の代わりに竜樹が選んだ女。
私より背が高い。私より目鼻立ちがはっきりしている。そして、私より竜樹に愛されている女。
悔しさ、嫉妬。こんなこと言うつもりじゃない。でも言わずにいられない。あの女、出ていかせてよ。あなたに話があるのよ、竜樹。
竜樹が言う。
「もう、来るなよ。」
私の目を見ようともしないで紡がれる言葉。私は狡いと感じる。あなた分かってない。私の中にはあなたの子供が居るのよ!あの女、出ていかせてよ。竜樹に話があるの、あんた、出ていきなさいよ!!
「堕ろせばいいだろ、子供なんて。俺はもうお前とは関係ねぇよ。」
「ふざけないでよ。竜樹!」
私は叫んでいた。こんなこと言いに来たんじゃない。こんなこと言いに来たんじゃないのに。気づいて竜樹。気づいて竜樹。私はこんなこと言いに来たんじゃないの。あなたを愛してるって言いに来たの。こんなはずじゃない。私の本当の気持ちを引き出して。もっとやさしい言葉をかけて。
私を嫌な女にしないで!!お願い!
「ふざけてなんかねぇよ。ふざけてんのはお前だよ。」
女が向こうで勝ち誇った顔を見せる。負けたくない。あんな女に負けたくない。
「あなたの子供よ!」
「出ていきなさいよ、あんた。」
傲慢な声が私にかかる。私は噛みつくように答えた。
「殺すわよ、部外者は引っ込んでて。」
女の顔がゆがんだ。言い返す言葉が見つからない様子で口をつぐむ。私があんたみたいな女に負けるわけがない。
「お前!今、結花に何を言った!!」
竜樹の表情が変わった。怖い顔。私は怯んだ。私はそんな顔を見に来たわけじゃない。違う。違う。涙が出そう。泣いてはだめだ。それは私が一番嫌いな行動。私は泣きに来たわけじゃない。もう、泣きつかれるほど泣いた。私がここに来たのは……。
「私がここに来たのは……竜樹……。」
怯んでいる私の言葉。追い打ちをかける彼の声。
「お前の事などどうでもいい、二度と現れるな!」
目眩がした。口が勝手に言葉を発している感触があった。
「子供は……子供よ。」
「いいから、出て行け!」
その時、私の中で何かが崩れた。
私の中にあった。私を守ってくれていた何かが。
私の信じていた何かが。
竜樹との思い出が知覚できない走馬灯になって、私の脳裏を駆け抜けた。それを本当の父親とのやさしい思い出が追いかけていき、絡まり、そして消えた。今の言葉を忘れたい。
忘れては駄目。
忘れたい。
忘れては駄目。
目の前で閉まる扉。思い出したように響いている雨音。茫然と立ちつくしている私。
四階の手すりから、葛西の町を見た。雨に霞み、深夜の町の光は儚く寂しかった。
帰らなければ。
電車ももうない。タクシーに乗るほどのお金も残っていなかった。
帰らなければ………。北巻しぐれは思った。そして、もう一度その言葉をくり返し、自分自身に問いかけた。
どこへ………。
答えてくれるものは、誰も居なかった。
1990年から1998年で書き上げた作品を投稿します。
少し手直ししました。なんか、ちょっと作品が若々しくて苦しい…全二十六話+4話(前日譚、プロローグ、エピローグ、後日譚)です。




