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女の子助けました!!!

 ――〈ボロネーゼ〉の屋敷にある庭 抗争終結日 朝方――

 パールが〈ボロネーゼ〉の屋敷の庭先で、ファミリーに告げたのは〈トラパネーゼ〉への降伏を行おうとしていると云う事であり、今後はジェスの助力を借りて市政を自身が行うと云う物であった。

 その宣言の中で、彼女は〈ボロネーゼ〉の旧体制の廃止を市街全域に告知する様に指示し、今後はファミリーの財政も今までの様にはならない事を説明した。

 それはつまり、金に余裕は無くなると云う事であり、俸給も大幅に少なくなると云う事だ。

 そして、今日中であればファミリーから抜けても良いと告げたのだった。

 彼女の姿は堂々としていたし、自分と1つしか年の離れていない彼女がそう云った真似が出来る事を凄いと思った。


 集められたファミリーの中から、そのジェスと云う人は何者なのかと云う言葉が上がる。それに対し、説明がてら自己紹介をしようとした矢先、腕に重りを乗せられた様な重さ感じた。隣で必要以上にしがみつくパールは、柔らかい感触を腕に押し当てて来ながら云う。


「私はジェスお兄様と兄妹の契りを交わしましたの。なので、彼も今後は我々ファミリーの一員です。皆さん、良いかしら?」


 途端にファミリーの連中が騒がしくなる。

 やはり、何処の馬の骨かも判らない人間が、自分達のトップとこう云う関係になるのは気に入らないだろうなと考え、浴びせられる罵詈雑言に耐えるため身構える。


「今日はケーキでも買ってお祝いですかね!」

「お兄様って、同じ位の年じゃない?」

「バカ野郎、パールお嬢様は俺達の永遠の妹だろう」

「宜しく頼みますよ坊っちゃん!」


 所が、ファミリーの面子が口々に云う言葉は、ゴシップ好きな主婦の様に、どこか面白そうに話す内容ばかりであり、こちらを応援する様な物もあった。

 どうやら、身構えた事は杞憂だった様で少々拍子抜けする。

 そんなこちらの考えを察したのか、隣に立つ〈ボロネーゼ〉の使用人の1人、オルネライラが説明する様に云う。


「血の気の荒い連中は先代の死亡と共に離脱しましたので、ここに集まった連中は温和で陽気な者ばかりです。お嬢様は彼等からの支持が厚いのです。まさに人望の成せる業と云う物です」


 どこか自慢げに云う彼女の目元は弧を描いていた。〈ボロネーゼ〉は先代の死を持って生まれ変わったのだと判る。

 そして携帯を取り出しエムエルに電話を掛ける。そこで事情を話すと〈トラパネーゼ〉もまた、抗争の終結を宣言したらしく、彼女は電話越しに問うて来た。

 その声は、先日の様な刺々しさを感じさせない淑女然とした物で、


「ではジェス様、いつ頃お帰りになられるのです?」

「この集まりが終わり次第戻るよ」

「そうなのですね。お待ちしておりますわ!」


 そう云って来るエムエルに「それじゃあ、また後で」と伝えて通話を終えると、パールに〈トラパネーゼ〉に戻る事を伝える。それを聞いた彼女は、私も付いて行くと云い、オルネライラに車の手配を指示したのだった。


――〈トラパネーゼ〉の屋敷 とある1室 抗争終結日 昼前――

 〈トラパネーゼ〉の屋敷に戻ると、ジェスとパールは〈トラパネーゼ〉の使用人に先導されて、屋敷の1室に通された。

 そこには、10人の人間が長方形の机を囲っている。上手には初老の男がおり、その隣にはエムエルが居る。エムエルの後ろにはベルコーレが立っていて、アルテージの姿も下手に見える。

 部屋の面々は、こちらを見て鼻を鳴らす者や、気の良さそうな笑みを浮かべて会釈する者など、三者三様の反応を示した。

 エムエルはこちらを見て、目が合うと微笑んで頭を下げて来る。それに応える様にジェスも軽く会釈を返すと部屋がざわつく。まるで生まれてこの方、挨拶も録にしなかった人間が丁寧に挨拶をする事に驚いている様な反応だ。


(みんなどうしたんだろう?)


 エムエルが頭を上げると、凪に入ったかの様に室内は静まる。皆、エムエルの方は見ず、顔を背けたり、顔を伏せたりしている。


「それが〈ボロネーゼ〉の現当主か? いや、それですら元だったか」


 エムエルの正面に座る老人がパールを指差して云う。好好爺などとは形容しがたい程、険の深い顔をしており、その声音は芯に響く様なしっかりとした声だ。

 老人はパールの答えを待たずに続ける。


「敗北を受け入れたのは殊勝な事だが……これは只、恐れただけかも知れんな。何せガキだ。それで、お前は何をしにここに来た。呼び付けたのはその男だけだが……まさか陳情か?」


 友好的とは云えない物言いに、しかしパールは声を荒らげる事も無く淡々と答える。


「いいえ。私共〈ボロネーゼ〉は全面的に貴方達に従います。ファミリーにもその様に指示を出しましたわ」

「ファミリー? もうそんなものは消えて無くなっただろう。しかし、誇りを捨ててでも生にしがみ付くか。まぁ俺には、その様な真似ら恥ずかし過ぎて憤死してしまいそうでやれそうに無いな」


 老人の言葉に笑いが起きる。

 エムエルはと云うと詰まらなさそうな顔で肩肘をついており、ベルコーレは我関せずと云った様子、アルテージは目を閉じて腕を組んだまま動かない。

 自分は老人のパールへの罵倒とも取れる物言いに苛立ちを感じていた。しかし、当の彼女は老人の言葉に何も感じる事は無いと云った様に微笑んでいる。そんな中、自分が声を上げるのは良く無いだろうと黙る。


「ただし、それには1つ条件がありますわ」

「……条件だ? テメェ、そんな事を云える立場じゃねぇだろ。バカなのか?」


 パールは老人に返事をするのでは無く、こちらの腕に抱き付いてくる。それを見たエムエルの目が見開くのが見える。

 心が危険を察知し、我知らず身震いを感じた。


「この人が〈トラパネーゼ〉にいる限り従いますわっ!」


 この状況で良くもこんな真似か出来る物だ。パールの胆力と云う物は前から思っている事ではあるが、半端無いと思う。

 腕にパールの体重と、柔らかさを感じながら、視界に映るエムエルを見やる。

 彼女は開いた口が塞がらないと云った様子だ。

 老人はパールの発言に呆れたように笑って、馬鹿にする様に云う。


「……何だその条件は?」

「ソイツに惚れたのか?」

「〈ボロネーゼ〉の当主も思春期の乙女だったって事かよ」


 他の面子も口々に囃し立てる。目を閉じていたアルテージは眉間に皺を寄せ、目を開いていた。そして、その目はエムエルの様子を窺っている。


「そうではありません。私はこの方と兄妹の契りを交わしたのですわ。兄の役に立つ為に動く、理由はそれで十分じゃないかしら?」


 パールは掌を上に向けて人差し指でエムエルを指差す。

 それは勝利を宣言する勝者の様に堂々としていて、相手に対して敗北感を抱かせる様な仕草に見えた。

 勿論、何の勝負がそこにあって、何をもって勝利とするのか等は一切不明だ。

 しかし、その勝負の舞台に立っていたのだろう、エムエルはとんでもない物を見た様に目を見開いて、小刻みに震えていた。その様子から、彼女が怒っていると想像するのは簡単だった。

 パールの宣言は部屋全体にもどよめきを呼んだ。

 これ以上この場を混乱するのは避けたかった為、それを制する様に声を上げる。


「そう云う事なんで、皆さん、余り彼女の事を邪険にするのは止めてください……ね?」

「お前の兄弟だからって俺等が特別遠慮する理由にはならねぇだろうが。大体お前が〈トラパネーゼ〉ファミリーに入ったなんて話は聞いちゃいねぇんだぞ」

「まぁ確かに……」

「大体、兄妹揃って眼帯付けてペアルックだなんて恥ずかしくて憤死モンだろ。頭お花畑かってんだ」


 老人の云う事は一理ある。

 お揃いは恥ずかしい物だ。


「まぁ……負け犬と鳩野郎の組み合わせは、それはそれで、それ自体が滑稽だがな」


 自分にとっては命の恩人であるパールを、負け犬と揶揄された事に気が立つ。隣のパールもまた、先程までの微笑みはどこかに追いやり、苛立ちを隠さずに老人を睨む。

 その時、激しい打撃音が部屋に響いた。


『さっきからガタガタ五月蝿ぇんだよ糞ジジイ!』


 エムエルはジェスへの侮辱に耐えれず机に踵を落として云い放つ。目の前の糞ジジイことベラルドは古株であったが、そんな事は関係無い。

 睨み付けるとベラルドは肩を竦める。その顔に反省の色など無い事は一目瞭然だ。

 ジェスの扱いをどうしたら良いか、多くの幹部が手をこまねいているのが現実だ。そもそも彼は鳩野郎と揶揄される国の出であり素人だ。急にファミリーの一員面をされて、ベラルドの様に快く思っていない者も少なくない。

 しかし、自分が惚れていると云う事実は皆知っており、そうなれば彼が次期当主の可能性もある。その為、反感を買うのは良策では無いと思っているのが大半だろう。

 ただ、ベラルドの様に歯に衣着せぬ物言いをする輩もいる。そう云う人間は大抵年寄りで、世代交代までに隠居する連中だ。

 ジェスが当主になる頃には引退していると高を括っているだけに始末に負えない。


「いや、しかし〈ボロネーゼ〉を解体するのでは無く、手駒の1つに加えてしまうジェス殿の手腕は確かに評価に値すると思うね」


 そう云うのは老人の隣に座っている青年のトルトネージである。確か20代後半だった筈だ。茶髪の短髪を持ち、武闘派の彼は〈トラパネーゼ〉でも腕利きの1人だ。

 その言葉には悪い気はしない。胸の支えが取れる様だ。

 ジェスの横に立つパールを見て思う。


(にしても、妙なコブを付けて帰って来て……もう)


 取り敢えずその腕を離して3メートル離れろと云いたい。

 パールは機会があれば殺してやろうと思っていただけに憂鬱な気分になる。

 先程の彼女の挑戦的な物言いも非常に腹立たしい。

 ジェスと自分はまだ特別な関係でも無く、兄弟の契りを交わしたパールの方が彼との関係を深くしているとも云える。

 その点では彼女の先程の勝利宣言の様な物は的を得ていた。

 その事実は嫉妬を生み、自分の中に焦りが生じる。

 静観していた父へと振り向き云う。


「お父様、この間の件ですが約束通り認めて貰えますね?」


 聞き慣れない言葉遣いだからか、父は唖然と云った顔でこちらを見る。親ですら自分のこの口調にここまで驚くのか、と内心ショックを受ける。

 しかし、父は直ぐに普段通りの仏頂面になって云った。


「その件については……やはり認める事は出来ん。だが、ジェス少年の功績は評価しよう」


 怒鳴り散らしそうになる憤りを必死に押さえ込み、拳を机の下で強く握り締めて声を出す。


「……話が違います!」

「そこは判っている。だからせめて、ジェス少年の存在は黙認する」


 その一言は自身を含め、〈ボロネーゼ〉へ攻め入った仲間達に辛酸を舐めさせる物だ。嘘を吐く人間だとは思っていなかっただけに、足元をすくわれた感じだ。

 ジェスを見やると彼もまた、険しい顔をしていた。何が彼の表情をそうさせたのかは判らない。きっとこちらが騙された事に怒ってくれているのだろう。


「以前から進めていた縁談がいよいよの段階に入ったのだ」

「何で約束をしていたのに進めるんだよ!」

「今回の件はどうせ無理だろうと考えていたからだ」

「……何の為の約束なんだよ、畜生……」

「お嬢様……」


 ベルコーレが後ろから肩を抱いて来る。その腕は震えていて、彼女もまた今回の顛末に憤りを感じている事が判る。

 彼女が今回の件でどれだけ親身に相談に乗ってくれたかを思い出すと、それだけで彼女の気持ちが理解できる。

 約束だなんて幼稚な言葉にしがみ付いて、マフィアにあるまじき考えを口にして、その上クイーン語で汚い言葉を吐いてしまった。


(ああ、畜生。こんなんじゃ幻滅されちまうじゃねぇか……でも、もう淑女道なんざ関係無いか。ジェス様じゃなけりゃあ頑張る必要も何も無い。これじゃあアタシもジェス様に嘘を付いた様なモンだな)


 ジェスを無理矢理連れて来て、マフィアの若頭にしてやると云って、その結果が空っぽだ。

 溢れ出る涙を、ベルコーレの腕を顔に回す事で隠す。


「可哀想な人……」


 パールから溢れた言葉が、静まった部屋でやけに大きく聞こえた様に感じた。彼女の言葉は嘲りでも何でもなく、只の哀れみだった。



 ――山林に囲まれた緑豊かな街 丘の上 抗争終結日から1日後 昼前――


 高い広葉樹の木漏れ日を浴びて街を眺める。

 この街には科学的な香りは一切無い。それはそう云う風にこの場所を造ったからであった。


 ナガグツが産業革命を迎えて幾星霜、科学による自然破壊は止まることを知らず、大気さえも汚して来た。

 そしてそれは公害と云う形で人々を蝕んだ。

 病を患った者達は国からの十分な保障も与えられず、施政を担うマフィアからも圧政を押し付けられ、その生活は困窮の極みにあった。

 新天地を求めようにも、科学を捨てて誰にも頼らずに生きると云う事自体、病の淵にある人間には難しく、人々はその短くなった人生を慎ましく全うする事しか出来なかった。

 その者達に救いを与えるべく、1つの義賊が生まれた。

 義賊は居住区の提供と、科学に頼らない仕事の斡旋を行った。

 その規模は、国内に存在する全ての公害病患者に対してだ。大勢の人々が、待ちに待った新天地へと移住を行い、増え出した人口はやがて村を形成し、数年後には街となった。

 彼等が義賊と云われる様になったのは、人口の流出を収益の損失に繋がると考えたマフィアによる妨害を武力を持って制した事に起因する。そして、義賊はリーダーの名をとって、こう呼ばれた〈ボスカイオーラ〉と……


 今ではその名にファミリーと付け、マフィアの1勢力と数えられるまでになった組織の当代、ルビーは街の家々が上げる煙突の煙を眺めながら、隣街の〈ボロネーゼ〉での事件について考えていた。

 〈トラパネーゼ〉との抗争に敗れ、当主が死亡し、多くの構成員が離散したと聞いている。


(この動乱に便乗して土地を広げるのもアリかね?)


 ルビー自身は公害被害者では無い。と云うよりも〈ボスカイオーラ〉の市民も今では公害病に苦しむ者は極僅かだ。それは、単に世代交代が進んだからであったが、それでも代々引き継いで来た施政に対する信念に変わりは無い。

 この街は他の街との交易は皆無だ。まず、車で街に入る事を許していないし、科学製品を持ち込む様な事も検査をする必要がある。街の人間が持ち込む分には、規制はかなり緩くしているのだが、外部の人間に対しては厳しくしていた。

 この為、街に依り付く者は多く無い。

 そう云う訳で、自給自足が基本となっており、街には広大な田畑を管理する区域が存在する。近年、食料の供給量が不足しかけているのが、〈ボスカイオーラ〉が抱えている問題であった。

 田畑を広げようにも、居住区域も限界に近い。

 元々、他の街に比べると山林を切り開いただけの土地に住んだだけであり、増えた人口に対して土地が足りなくなって来ているのだ。

 そこで土地の拡大を検討している所に、〈ボロネーゼ〉の弱体化の話が転がって来たのである。


『お頭! またここに居たんですか』


 知った声が背後から掛かり、振り向くとまだ幼さの残る青年がいた。

 確か年の頃はそろそろ二十歳だった筈だ。自分が拾ってからは犬の様に付いてくる人懐っこい奴だ。


『おう。なんだい?』

『〈ボロネーゼ〉の一件、聞きましたか?』


 そう云えばこの男は〈ボロネーゼ〉の出身だったか。

 大方、故郷の被害状況が気になったりしたのだろう。


『ああ、聞いてるよ。災難だったね。……故郷が心配かい?」

『いや、そんな事は……』

『別に可笑しな話では無いさ。アタシはお前の意志とは無関係に、お前を拾ったんだからね』


 この男を拾ったのは、たまたまだ。

 本人が帰りたいと云えばいつでも返すつもりであった。しかしこの数年、帰りたいとも云わずに居座っていて、いつの間にかファミリーの一員となっている。


『俺は、お頭には感謝してるんです! だから故郷がどうなっても、今はここが俺の故郷だから。大丈夫です』

『そうかい。で、どうしたよ?』

『弱った〈ボロネーゼ〉に攻め入ったりするんですか?』

『それも悪くは無いね。だけど、争わずに済むなら、それに越した事は無い。ちょっと土地を分けて貰えればそれで満足なんだけどね』

『なら、俺が昔のツテで、〈ボロネーゼ〉の現当主に話を持ち掛けて見ますよ』


 彼は5年前に〈ボロネーゼ〉でボロ雑巾の様に崩れていた。捨て犬を拾う様な感覚で男──当時は少年であった──を拾ったのだ。

 そして忠犬の様に、こちらに懐いたのだ。

 元々〈ボスカイオーラ〉はマフィアとして組織された物では無く、縦割りの組織構成も余り無い。

 自分が当主をやっている事にしても、先頭に立つ者が必要とされ、それを代々引き継いで来たに過ぎない。


『貧困区域なら高度科学の恩恵も大して受けていないんで、懐柔し易いと思いますよ。土地ついでに人も貰っちゃいましょう』

『それはやりすぎだね。まぁ、筋は通しておきたいし、判った。〈ボロネーゼ〉の現当主に話を持ち掛ける件について異論は無いね。任せる』

『では、早速行ってきます』

『〈ボロネーゼ〉までは近い、手筈が整ったら連絡を寄越しな。合流するからね』


 意気揚々と走って行く忠犬を見送って、街を見下ろす。

 〈ボロネーゼ〉の件をきっかけに、マフィア全体が抗争を始めた場合、自分はこの街を守る事が出来るだろうか。

 科学兵器と云う物は凶悪だ。自分達はそれすらも持つ事を拒絶して来た。


『まぁ、それでも。大自然ってのは時に科学より強いんだよね』


 手にした小瓶を太陽に透かして独りごちる。

 濃紺のガラスに入った液体はとても綺麗に見えた。


 ――〈トラパネーゼ〉郊外の街道 車中 抗争終結日から2日後 昼――


『坊っちゃん、聞いていましたかな?』


 揺れるセダンを運転している老齢の使用人が聞いてくる。実際、彼の話は大して聞いていない。フロントガラス越しに見る街を眺めながら夢想に耽っていたからだ。


『聞いてねぇさ』

『それでは困ります。坊っちゃんが我が〈カチャトーラ〉の養子に成られて数年、ようやく勢力争いに介入出来る機会を得たのですから』

『それは判ってるさ』


 今、自分達は〈カチャトーラ〉から遥々〈トラパネーゼ〉までやって来ており、この街のマフィアが住む屋敷に向かっている。

 〈トラパネーゼ〉の街は、〈カチャトーラ〉のそれと違って広く大きいと感じる。その事実は無意識に心を昂らせた。


(もう直だ。もう直この街が俺のモンになるんだ)


 隣に座る侍女が縁談の資料を捲って見せてくる。

 資料よりも、大きく胸元の開いた侍女の服から見える胸の谷間を凝視する。


『ロッソーレ様、ココじゃなくて、この紙を見てくださいよぅ』

『判ってるって』


 彼女の持つ紙切れに目をやりながら、誰に向かってでも無く云う。


『じゃじゃ馬で有名な〈トラパネーゼ〉の娘なんざ、こちとら嫁にいらねぇんだけどなぁ?』


 両脇に座る侍女の肩にそれぞれ腕を回して上から乳房を揉む。それに侍女達が笑いながら云う。


『ロッソーレ様、これから未来の奥方様との縁談なのにダメですよぅ』

『はぁ? 関係無いだろ?』

『〈トラパネーゼ〉のお嬢様ってどんな人なんですかぁ?』

『従兄弟っつっても、〈トラパネーゼ〉とは交流が無かったモンでね、写真で見る限りだとガキだなぁ。俺はこれ位大人が良いわ』


 そう云って両手で侍女の胸を揉む。

 写真で見る限り、このエムエルと云う少女の胸は貧相だ。ロッソーレにとって、元々無かった興味がさらに失われていくには十分な理由であった。


 自分達〈カチャトーラ〉ファミリーの歴史は従属の歴史だ。

 常に力のあるマフィアに取り入って、寄生虫の様に生きていた。

 そこそこの収益はあったし、危険な案件に関わる事も無かった。勿論、マフィア連中からは鳥野郎や腰巾着と揶揄される事がままあった。

 そんな立場であっても、先代までは寄生していく方針を変える事は無かった。

 しかし、これからは違う。自分は寄生虫の様に生きる事は大賛成だが、鳥野郎等と揶揄される事は許容しない。

 かと云って〈カチャトーラ〉ファミリーは大所帯では無く、名高いマフィアと肩を並べる様な実力も無い。

 元より、牢獄に入れられた囚人が看守に逆らえぬ様に貧相な食事さか与えない様に、膨大な上納金を納める事を強いられていた為、力を蓄える事が出来なかったのだ。

 寄生虫は時に宿主を食らう物で、飼い犬もまた、飼い主に噛み付く事もある。寄生虫には寄生虫の遣り方がある。

 〈トラパネーゼ〉ファミリーを縁談を機に掌握し、自身の勢力を大幅に拡大する。

 今回の縁談はその為の物だ。

 只それだけの目的にした縁談、エムエルと云う少女は自分にとって只の記号に過ぎない。 また、彼女に対して申し訳ない等と云う感情も無かった。


 形だけの婚礼を済ませてしまえば、いつも通り侍女たちを侍らせて生きれば良い。

 〈トラパネーゼ〉の実権さえ握る事が出来れば、エムエルとか云うガキには死んで貰っても良い。

 今日は、そんな退屈でときめく事も無い女に関する縁談を進める為に来ているのだ。



 〈トラパネーゼ〉の屋敷に着くと調度品で飾り付けられた応接室に通された。部屋の中心に置かれた背の低いテーブルを囲うソファーには何度か顔を会わせている男が腰掛けている。男はこちらを見ると軽く会釈をし、向かいのソファーに手を向ける。


『遠路遥々ご苦労。まぁ座ってくれ』


 その物言いに若干の苛立ちを覚えつつも、会釈を返しソファーに座る。

 こちらの使用人は別室で待機しており、部屋には男と自分、そして〈トラパネーゼ〉の使用人が1人いるだけだ。


(上から目線は相変わらずだなジジイ)


『お嬢様はお出になられないので?』


 こちらの質問に、男は眉をへの字に歪める。


『まぁ、あれもまだ気持ちの整理がついて無い様でな。それで、今回の縁談だが……少し保留にしたいと考えている』

『は? と云いますと?』

『娘が懇意にしている者が居てな。ソイツが中々にやりおる奴でなぁ。それを見極める為にも暫く時間が欲しい』


(このタヌキ、何を云ってやがる)


 ふざけた提案だと思った。

 こちらはこの縁談の為にどれだけの時間を費やしたか判っているのか?

 それに、先程から話の主導権を〈トラパネーゼ〉が握っているかの様に話す態度も気に入らない。

 こちらを格下だと見下しているのは明らかだ。


『勿論、〈カチャトーラ〉には相応の詫びも寄越そう』


 幾ら積まれた所で勢力の拡大には敵うまい。

 はした金に興味は無かった。

 現状の流れを変える方法を考える。

 エムエルと云うガキが懇意の野郎がいると云っていた。その人物とやらが不幸にでも見舞われれば話は変わらざるを得ない。

 どの道、現状を変える事は今は出来まい。そうであれば、しつこく食い下がるのは心象に悪いだろう。


『判りました。保留の件、拝承いたします』


 こちらを下手に見た事を後悔させてやる。

 まずはその乙女心を抱いた糞ったれなガキの夢を叩き潰してやる。

 席を立ち、一礼をして部屋を出る。胸に燻る憤怒の炎は収まる事は無かった。



 ――〈トラパネーゼ〉の市街 抗争終結日から3日後 朝方――


 常日頃の歩幅と異なると云うのは、単純な歩行と云う動作でさえも意識する必要がある。それが自分よりも歩みの遅い者であったり、歩幅の小さい者に合わすのであれば尚更だ。

 ジェスは、右手に繋いだ小さな手の持ち主を見下ろしながら、そんな事を考えていた。

 急に右手が前方へ引かれ、慌てて歩幅を広げて距離を調整する。


「お兄ちゃん! お散歩楽しいねっ」


 肩越しに首を回して、こちらを見上げるメリーニは言葉通りの表情で云う。彼女の右手では、同じく振り回されたエムエルが少女を諌める。


「メリーニ、危ないから急に走ってはダメです」

「はーい。お姉ちゃん、ごめんなさい」


 そう云ってエムエルに頭を下げると、バツが悪そうにこちらを見て、


「えへへ、怒られちゃった」


 などと云ってくる姿が堪らなく可愛く思う。

 自分達は今、〈トラパネーゼ〉の市街にある宝飾店に向かっていた。

 と云うのも、メリーニの壊れたネックレスの代わりを買おうと、エムエルが提案した為である。

 メリーニは自分からすれば、怖い位に大人びている所がある。

 母親の死に対しても、2日は鬱ぎ込んだらしいが、3日目の今は振り切った様に明るい。


(勿論、彼女なりにこちらに気を遣って気丈に振舞っているだけかも知れないけど)


 気丈に振る舞っているとしても、そんな事が出来る自分よりも遥かに幼い少女は、自分よりも遥かに大人なのだろう。

 そう考えると情けない気持ちになる。

 自分自身、〈ボロネーゼ〉の一件以降は考え方であったり、今の状況への向き合い方に変化があったし、それが大人に何となく近付いている気もしている。

 それでも、まだまだだなと思う事は多い。

 自分の周りの人、メリーニやパール、エムエルを見ていて思うのは、この国の女性はとても強かと云う事だ。

 ちっぽけな自尊心を奮い立てて思う。


(メリーニにカッコ悪い所は見せられないよなぁ)


 暫く歩くと、前方に公園が見えてくる。

 メリーニが公園を見つけて、遊びたいと云い出すまではほんの一瞬であり、こちらが返事をする前に飛び出すまでは刹那である。

 制止する機会も失って、中途半端に上げた右手のやり場に困っていると、


「ジェス様」


 隣から声が掛かる。

 エムエルは、メリーニが遠くに行ったのを目で追って、こちらに向き直る。

 彼女の顔は、何やら話を切り出し辛そうな面持ちだった。

 先日の会議では、古株のメンバーに啖呵を切っていて、普段の彼女からは余り見る事の無い怒りを見せていた。

 今、目の前にいる彼女はその時とは対称的だ。


 彼女はあの後から妙にぎこちなく接して来る。

 年頃の女性である為、あの時の事を(はした)ないとでも感じているのだろうか。

 こう云う時の処世術に関しては非常に知識深いと自覚している。それは数少ない自分の自慢だと云える。

 確か、〈月刊ウレウボーイ〉の紳士道特集では、困っている淑女は全てを受け止めてくれる紳士を渇望しているのだ。とあったのを記憶している。

 ジャポンにいた頃はネタの1つとして記憶していた内容である。急にこのネタを披露すると、クラスメイト達は大いにウケたのを思い出す。

 そもそも、〈月刊ウレウボーイ〉に読み飛ばすページなんて存在しない。一字一句、穴が空くまで読むのである。それは単に、自分が貧乏であった為、数分で読み終えてしまうのが勿体無いからである。

 そして、その効果はジャポンの小銭稼ぎで真価を発揮していた。例え報酬が今川焼だったとしても、効果有りなのだと判断する。


(ここは全てを受け止める様に、紳士的に)


「エムエルさん、どうしたの?」

「いえ、あの。その……」

「ひょっとして、お父さんから云われた事、気にしてる?」

「……はい。嘘を付いていた事が、一番納得出来ませんでした。それに縁談の話も……」

「そうだよね」

「縁談の相手は〈カチャトーラ〉の次期当主と云われています。そして、彼は私の従兄弟でもあります」

「従兄弟なんだ。……それなら何度か会った事もあるの?」

「1度もありません。元々〈カチャトーラ〉は虎の威を借る狐、人のまわしで相撲をとっているのです。そんなマフィアの人間など、会わずとも人と成りは判るものです」

「……虎の威を借る狐?」

「はい。〈カチャトーラ〉は代々、勢力の小さいマフィアでした。大きなマフィアの笠の下で大きな顔をしているだけのマフィアです。〈トラパネーゼ〉とは親戚関係にある者が多い事もあって、同盟の様な存在でした。ベルコーレが教えてくれたのですが、〈カチャトーラ〉の次期当主、ロッソーレは支配欲の強い男だと……彼は〈トラパネーゼ〉を手中にする事で、勢力を増そうとしているのでしょう。父はと云えば、〈トラパネーゼ〉の血が続けばそれで良いのでしょう」

「ちょっと勝手だね。エムエルさんの事が考えられて無さ過ぎる」

「ですが〈ボロネーゼ〉の時とは違い、対外的には友好関係にありますので、強引な真似をする事も出来ません。下手な手を使えば、〈トラパネーゼ〉が同盟相手に牙を剥く組織ととられ、四面楚歌となるでしょう。そんな訳で、どうにもならない気がします」


 普通の恋バナでは無い。ジャポンで何度か聞いた恋バナとはスケールが違いすぎる。まるで教科書に出て来る中世の時代、政略結婚の様な話だ。いや、実際そうなのだろう。

 自虐的に聞こえる彼女の言葉は、確実に彼女を傷付けている。何故なら、彼女は目に涙を浮かべていたのだ。


「貴方をマフィアに連れて来た私が云うのも可笑しいと思いますけど、いっそマフィアを辞めて、どこか遠くへ行きたいです。例えば、ジャポンとか……」


 力無く微笑む彼女を黙って見つめ考える。自分がここで、それが良いと云えば彼女は救われるのだろうか?

 彼女を連れてジャポンへ行けば、本当に救われるのだろうか。

 彼女はこちらに連れて行ってくれと云っているのだろう。それは判る。

 そして、彼女を連れて行くと云う事は、〈トラパネーゼ〉ファミリーから逃げると云う事だ。

 そもそも、大人達――それも裏稼業の方々――を相手に、自分達がどこまで逃げられるのだろうか。

 自分達が無事に行方を眩ませる事が出来たとして、〈ボロネーゼ〉はどうなる?

 パールとは約束をした筈だ。彼女の夢を叶える為の手伝いをすると。

 そうなると、少なくとも自分は今のままで投げ出す訳にはいかない。

 それなら、エムエルの気持ちが踏みにじられる事を良しとするのか?

 様々な自問を繰り返していると、


『あっ! エムエルお嬢様だー!』

『本当だ。こんにちは』

『またあそんでー!』


 街を行き交う親子連れが、エムエルに向けてとても親しみ深く挨拶をしてきた。

 彼女はサングラスを掛けて、彼等に手を振る。サングラスは溢れた涙を隠す為だろう。

 涙を隠す理由は、市民を心配させない為なのか、それとも恥ずかしいからかは判らない。


(この街の人達もエムエルさんがいなくなると寂しいだろうな。それにこの繋がりは、彼女にとって絶対にプラスになる筈だ)


 そうなると、エムエルを〈トラパネーゼ〉から出すと云う選択肢は無くなる。

 しかし、自分が彼女の為にしてやれる事が思い浮かばない。

 メリーニにネックレスを買いに行こうと話をしている時のエムエルは、お姉さんみたいで素敵だった。


《お嬢様は、無理をしておいでです》


 ベルコーレの言葉を思い出す。今回の縁談が無理の1つであるのは間違いない。

 その縁談をどうにか出来れば良いのか?

 纏まらない考えを纏める為に、糖分補給を行おうと考える。

 辺りを見回すと公園の脇にはアイスクリームのワゴン販売があるのが見えた。今いるベンチからは500メートル離れていると云った所だろう。


「エムエルさん、ちょっとアイスでも買ってくるよ。何味が良いかな?」

「えっ……それじゃあバニラをお願いします」

「了解」


 そう返事をしてベンチを離れる。今すぐ彼女に対して出来る事は無いかも知れない。だとすれば、本当にどうしようも無くなるまでの間だけでも、楽しい気持ちにさせてあげよう。

 アイスを食べていれば良いアイデアも湧いてくるだろう。

 せめて自分だけはポジティブに考えて行こう。



 ジェスがアイスを買いに行ってくれると云いベンチを離れた。

 その後ろ姿を見ながら、エムエルは彼の気遣いに感謝していた。


 愛読雑誌〈メイドポスト〉によると、絶対逃がすなこんな男! と云う特集では、地中海よりも広い包容力を持つ男がランキング1位である。

 ジェスのこちらに対する接し方は優しさと、こちらの話をきちんと聞いてくれる包容力がある。

 恋愛経験の無い自分がバイブルとしている雑誌の情報だ。彼への思いは募るばかりである。


 とは云え、彼との関係もそろそろ終わりを迎えつつあった。

 抗う限り抗い、それなりの条件もクリアしたはずだ。

 それでも、父の考えを変える事が出来なかった事に唇を噛む。

 最初から嘘だと判っていたら、〈ボロネーゼ〉へ攻め入る事もなかっただろう。それが無ければ、ジェスの目も無事で、メリーニの母親も無事だったろう。


(こんな事を後悔しちまうなんて、本当まいってる見たいだなぁ)


 メリーニもアイスを食べたいだろう。ジェスも彼女の分を買ってくる筈だ。

 メリーニの姿を探そうと公園を見やると、穏やかな雰囲気に似つかわしくない様相の男達がいる事に気付いた。


(何だ? アイツ等、ウチのモンじゃあ無いな……何をしてやがる)


 そう思った矢先、口を後ろから押さえ付けられる。湿りを含んだ布の感触だ。

 そして、そのまま意識が強引に落とされそうになる。

 朦朧とした意識の中、聞こえて来たのは聞き慣れぬ男の声だ。


『情報通りだったな。これ自体はイレギュラーだが……』



 ――薄暗い部屋 抗争終結日から3日後 夕方――

 目が覚めて、周りを見渡すと見慣れない部屋のソファーで寝ていた事に気付く。頭痛を覚え、頭を手でさする。


(頭痛だけか……他に痛む場所は無い様だな)


 ソファーに手を付き体を起こす。


『目敏い人間って云うのは本当に鬱陶しいもんだ。そうは思わないか?』


 背後から掛けられた声に振り向くと、見知らぬ青年が立っていた。いや、自分はこの男を知っている。書類上の記憶でしか無いが……


『テメェは〈カチャトーラ〉の……』

『へぇ。覚えていてくれるとは光栄だ。まぁテメェと呼ばれる筋合いは無いと思うけど?』

『ふざけんなよ……こんな事をして、どうなるか判ってんだろうな』

『どうもならないさ』

『ふん、好都合だ。これでテメェとの糞縁談も破談だろうからな、ロッソーレ』

『じゃじゃ馬とは聞いていたが、口の聞き方から教育する事になるのか、やれやれ面倒だね……』

『聞いてんのかよテメェ!』

『……口には気を付けろよガキ。連れのガキ共がどうなっても良いのか?』


 連れと聞いて思い浮かぶのはジェスとメリーニだ。この男、彼等にまで危害を加えたと云うのか。

 そう思うと怒りが一気に湧き上がる。


『テメェ……アイツ等に何をしやがった!』

『まだ、何もしていない。もっとも、君の態度次第だけどね。単刀直入に云おう。〈トラパネーゼ〉のボス、君の親父に俺との婚約を行うと云え』

『ふざけるな! こんな真似をするゲスとそんな事が考えられるか!』

『そうか、ならお仲間には死んで貰おうか。確か、ジェス君にメリーニちゃんだったか? 名前は本人に確認したんだけれど、合っているか?』


 2人が巻き込まれた事実は、焦燥と激しい後悔を生む。それは怒りへと変わる。睨み付ける様にロッソーレを見る。


『その様子じゃあ合っているんだな。安心したよ。嘘をつかれるのは好きじゃあ無いんでね。そして、君はジェス君にとてもご執心なんだよなぁ?』

『こんな事で婚約して、相手の気持ちをモノ出来る訳ねぇがな。プロポーズの言葉にしては最低の部類だ』


 その言葉にロッソーレは、芝居じみた笑い声を上げる。


『俺が欲しいのはお前の愛でも何でも無い。もっと乙女心擽られる言葉を期待していたのか? だけどなぁ、お前見たいな糞ガキに並べる美辞麗句なんて無いんだよ。俺が欲しいのは1つだ。〈トラパネーゼ〉の実権だよ。それにしても、とんだ乙女じゃあないか! 最高に笑える。それじゃあ縁談を再会しようか』



 ――〈トラパネーゼ〉の市街 抗争終結日から3日後 昼過ぎ――

 エムエル達が何者かに拉致されたと云う事実は、市民からの報告で〈トラパネーゼ〉ファミリーに伝った。

 ベルコーレと共に、その市民からの報告を聞いていたパールはジェスの事を思う。

 ここで彼の身に何かあれば、計画が水の泡となるだろう。誰が何の為にジェスやメリーニを拐ったのか。どちらもエムエルに取って重要な意味を持つ人間だ。


(あくまでも目的はバカ女かしら? お兄様とメリーニはバカ女に対する脅しに使うつもりね)


『パールさん、私はこれからボスへこの事を報告に向かいます』

『私も行きますわ。バカ女だけなら兎も角、兄も関わっている様ですし』

『お嬢様への侮辱は許しません。例え若の妹君であろうと』

『……悪かったわよ。冗談が過ぎたわ』



 ボスの部屋に入るとベルコーレは、事のあらましを説明した。


『との事で、お嬢様が拐われたとの事です』

『どこのどいつかは判っているのか?』

『それが、声明文等は現時点で無く、目的も不明です』

『兎に角、目ぼしい所には間者を向かわせろ。最優先はエムエルの救出だ。他は最悪の場合、捨て置け』


 ボスの云ったその台詞は、ジェスとメリーニを優先しないと言い切る物だ。ベルコーレとボスの会話に割って入る。


『お待ちください! 兄とメリーニは見殺しにすると!?』

『最悪の場合だ。最悪でなければ助ける事もある』


 ベルコーレは異を唱える事もせず静観している。ただ、その表情は感情を押し殺している様に見えた。彼女もきっと、云いたい事はあるに違いなかった。

 勿論、〈トラパネーゼ〉の方針は間違っていないと思う。跡取りが最優先でなければ何が最優先となるのか検討も付かない、と云う意味でだ。

 しかしそれでも、身内が蔑ろにされる事は看過できない。

 暫くの静寂の後、溜め息吐きボスは云った。


『だが、〈ボロネーゼ〉の連中がジェス少年の為にどう動こうが知った事では無い。まだ完全に〈ボロネーゼ〉の扱いを決めた訳でも無いしな』


 そう云った彼の顔は、生前の父が良くしていた表情をしていた。それは親が子に対して妥協する際の物だと理解していた。

 つまり、〈トラパネーゼ〉のボスは〈ボロネーゼ〉で好きにする分には黙認すると云ってくれている。

 それが優しさから来る物なのか、厄介事を押し付け様としているからかは判らないし、手放しで前者であると断言出来る程、〈トラパネーゼ〉を信用していない。

 それでも、この提案を受けない理由にはならないだろう。


『判りました。感謝します。それでは私は早速〈ボロネーゼ〉へ戻ります』


 踵を返し部屋を出ようと歩を進める。

 静観していたベルコーレの横を通った時、彼女は頭を下げて小声で云う。


『どうか、若を頼みます。あの方に何かあれば、お嬢様は酷く悲しまれますので』


 バカ女が悲しもうが何1つ問題無かったが、そんな下らない問答は時間の無駄だ。そして、これはバカ女に対しての貸しでも何でもない。だから、頭を下げるベルコーレに云ってやる。


『家族を助けるのに他人から礼を云われる必要はありませんわ』



 ――〈ボロネーゼ〉の市街 抗争終結日から3日後 夕方――

 ベルコーレが〈トラパネーゼ〉の使用人に車を出す様に指示してくれて、その車に乗って〈ボロネーゼ〉の街へと戻って来た。

 オルネライラには既に〈ボロネーゼ〉に戻ると連絡を入れていた。

 屋敷の前で車から降りて、使用人に礼を云って別れる。

 屋敷の門をくぐろうとすると、声が掛けられる。


『いやいや、〈トラパネーゼ〉に負けて災難だったな?』


 門の横にある側溝に立つ男は、飄々とした口振りで云う。男の声に覚えは無く、その姿も記憶には無い物だ。


(何者かしら……それに気安いわ)


 気安い男は好きでは無い。飄々とした男の口調もマイナス査定である。暫く記憶を辿って見るが、やはり初見の様だと結論付ける。

 彼はこちらの無言を警戒と取ったのか、両手を上げて続ける。


『話をしに来ただけさ。そう構えるなよ。お前アレだな、勝てない星の下に生まれたんだよ。結局、幼稚な夢は夢でしか無かったって事だろ。で、5年前から負け続けだろう?』


(5年前……反抗運動の時の腹いせかしら?)


 どの様な意図であれ、今は昔話に花を咲かせるつもりは無い。


『貴方がどちら様か判りませんが、今は急いでいるので失礼します』


 男にそう云い残して門をくぐる。

 彼はそれでも後ろから声を掛ける。


『俺は今、最高に幸せだぜパール! 俺達と手を組まないか? 〈トラパネーゼ〉をぶっ潰す為によぉ、俺達〈ボスカイオーラ〉と!』


(〈ボスカイオーラ〉ですって? 〈トラパネーゼ〉への攻撃を準備していると云う事かしら。だとすれば、バカ女を盾にする為に拐った可能性もゼロでは無さそうだけど)


 男の方はこちらを知っているらしい。加えて〈ボスカイオーラ〉の間者と云う事か。

 〈ボスカイオーラ〉の街は、〈ボロネーゼ〉と隣接している山林にある。街道すらも整備されていない上に、車で街へ行こうものなら、襲撃に遭う様な場所であると聞く。パール自身、1度も云った事は無い。

 暫く鳴りを潜めていた彼等が、こちらにアクションを起こして来たと云う事は、マフィア間抗争の再開による物だろう。

 男の誘いを受ける事も無い。振り向かずに歩を進める。


『そうそう、俺達は今、貧困区域の廃ビルにいるぜ。今頃はお前の兄貴もいるんじゃないか?』


 その言葉は反射的に自身を振り返らせる魔法だ。

 ベルトに仕込んだナイフを投擲する。

 高い金属音が響く。

 男は手にした銃でナイフを叩き落としたのだろう。足元にはナイフが転がっている。

 男はこちらに銃口を向けたまま、飄々な態度もそのままで云う。


『取って食ったりはしない。まずは話し合いだ。……何、ナブーの寝室から銃を奪ってくるよりも簡単さ。じゃあ、昔の溜まり場で待ってるぜ』

『……まさか、パイソン?』


 それには答えず、彼は踵を返し立ち去る。

 彼は兄貴と云った。それはジェスの事を云っているのだろう。つまり、今回の事件の首謀者は〈ボスカイオーラ〉と云う事か。

 ポケットに入れた携帯を取り出して電話を掛ける。


『オルネライラ』

『はい、お嬢様。今、どちらでしょう?』

『直ぐに武装を整えて正門に来てください。元凶が判明しましたの』

『……かしこまりました』


 携帯を切り、幼少の頃の溜まり場であった廃ビルのある方を見る。

 〈ボスカイオーラ〉は排ガスを垂れ流す車等を破壊するテロリストに数えられるが、基本的には非好戦的な組織であり、他のマフィアとは性質が異なる。

 それでもこの後に血が流れないとも限らない。数日振りの故郷は、荒れ模様になりそうだった。



 ――〈ボロネーゼ〉の貧困区域 廃ビル 抗争終結日から3日後 夕方――


 フロアには自分を含め、5人の人間がいた。その内の1人、腕を縄で縛られた少年はベッドの上で周りを見回している。

 彼はどうも素人の様だ。それは見た目の話では無く、云ってしまえば凄味や気迫と云う物で計った場合の話だ。

 しかもナガグツ人では無く外国人であり、幼さが残るアジア系の顔立ちには、逆立ちしても似合わない眼帯で左目を覆っていた。


(確かジャポンにはコスプレとか云う文化があるんだっけか?)


 ここまで特徴的な人間も珍しいので、遙々〈ボスカイオーラ〉の街から来た甲斐もあったかな、と思う。


 仲間の話ではこの少年はパールと兄弟の契りを交わした仲だと云う。どう云う経緯で兄弟になったのかは聞いていない。

 と云う訳でこの少年は〈ボロネーゼ〉との対話の材料になる予定である。


(まぁ既に材料として調理され始めているけどね)


 少年を取り返す為に1度〈ボロネーゼ〉に戻るだろうパールに接触する段取りだった。そして、それはパイソンの報告によって予定通りに進んでいるとの事だ。

 連絡を受けた後、馬を駆ってやって来た。


 〈ボスカイオーラ〉の人間にとっては排ガス禁忌であり、どんな権力者であろうと犯す事は許されない。

 馬車での移動が主な交通手段であり、急ぐ時は自分で馬を駆る。


 〈ボロネーゼ〉の街でルビー達が根城とした場所は貧困区域にある廃ビルだ。もう直ぐ夕時を迎えるが夕日の色を垣間見る事は出来ない。採光箇所がベニヤ板等で塞がれている為であり、ランタンの灯りがなければ酷く視界が悪い。

 ランタンに照らされたビルのフロアには、ボロボロのベッドや、どこから持って来たのか判らない廃車などが無造作に置かれていた。


 廃車の窓に掛けたダーツボードに向かい、腕を振るう。

 トンと云う音がフロアに反響する。


「あの、俺に何の用が……?」


 ダーツの音に反応する様に声を出す少年を見る。怯えてはいない様子だ。


「物のついで、悪く思わないでね」

「はぁ……貴女は誰?」

「〈ボスカイオーラ〉の頭しているルビーだよ」


 そう答えると、少年の顔に緊張の色が浮かぶのが見える。


「〈ボスカイオーラ〉ってマフィアの、ですよね?」

「正確にはマフィアじゃあ無いんだけどね」


 取って食おうと云う訳では無いし、パールを懐柔するにも、彼の信頼を得ておく事は重要だろう。


「義賊って云えば判るかい?」

「義賊ですか」


 何から話そうかと考えるのは面倒だ。話題はいつも相手が振ってくれていたんだろう。自分は話題作りが苦手かも知れないと、20数年生きてきて始めて思った。

 余り認めたく無い事実を否定しようと、少年の顔を指差す。


「あー、何だ。……洒落た眼帯だね。面も中々良いじゃないか。嫌いじゃないね。アンタの名前は?」

「……ジェスだよ」


(もっと話を広げようとして欲しいのだけれど……)


 慣れない事は早々に切り上げ、シンプルに用件を話していく事に切り替えよう。


「そうかい。ならジェス、話がある。いや、寧ろ話しか無い。だから、話をしようじゃあないか」


 少年はそう云うこちらを黙って見つめている。中々警戒を解いてはくれないらしい。まぁ、この程度で警戒を解く様な人間もどうかと思うので、多少はまともな感性の持ち主なのだろう。


「まず、ウチ等〈ボスカイオーラ〉は〈ボロネーゼ〉との同盟を求めているんだよ。〈トラパネーゼ〉から主権を取り戻す手伝いをする代わりに、少しだけ土地を分けて貰おうと云った所だね」

「何でそれを俺に話す必要が?」

「アンタがパールの兄貴だって聞いてね。妹を丸め込んで欲しいのさ。アタシ達は〈トラパネーゼ〉と違って流血沙汰にはしたくないんだよ」


 それは本心からの言葉である。決して自分達が弱いから戦いを避けている訳では無い。自分達は強い部類に入るとも思っている。

 ただ、無益な争いは好まない。これは〈ボスカイオーラ〉が発足して以来守ってきた物でもあった。


「〈トラパネーゼ〉の屋敷にいるパールに直接コンタクトは取れないからね。とある情報でアンタが外出する時を知って、狙わせて貰ったんだよ」

「確認するけど、拒否権は?」

「当然無いね」


 こう云う強引な所はマフィアらしいのかも知れないなと思う。ジェスは何かを考える様に瞳を閉じる。


「……それ」


 ジェスはそう云うと廃車を指差した。

 廃車の窓に掛かったダーツボードを指差しているのだろうか?


「それで勝負しよう。俺が負けたら、貴方の手伝いをする。でも俺が勝てば、その話は無しにしてくれないかな?」


 この状況で取り引きを持ち出すとは豪胆な男だ。

 それが大層可笑しく感じ笑いが込み上げて来る。周りの仲間達も同様で、彼の提案に笑い声を上げる。

 ジェスはその笑い声を気に入らない様子で顔をしかめて云う。


「勝ち目が無いからやらない?」


 益々面白い。気に入った。

 この少年を負かしてウチに引き込もう。勝負をすると云う事はそう云う事だ。


「いやいや、やろう。只、アタシが勝てばアンタはウチに来て貰う。その態度、大いに気に入ったよ」

「……判った。じゃあ始めよう」


 ジェスが持ち出したルールは簡単な物だ。5回投げた合計で得点が多い方が勝ち。

 先行はジェスだ。彼は廃材の上に並べられたダーツを手に取り、構える。

 高い金属音が響いて、彼の投擲したダーツが廃車のドアに当たった事を告げる。ドアの下部に当たった事から飛距離が足りていない事が窺える。


(おいおい。威勢は良いけど腕は悪いのかい?)


「兄ちゃんドンマイドンマイ!」

「次があるぜー!」


 仲間達もジェスの威勢の割に当たらない腕前に笑い声を上げる。

 ルビーはダーツを手に取ると中心目掛け投擲する。

 ストンと云う音共に刺さった場所は中心を少しばかり外れた。それでもリードしているのはこちらだ。


(そんなに得意じゃあ無いけど、この分だと勝ちは貰ったかね)


 ジェスはダーツを手に取ると、腕を何度かストロークさせる。距離を測っているのだろうか?

 次の投擲はダーツボードに収まる。中心を大きく外れ、ボードの上段に刺さるダーツを見て、ジェスは腕を組み何かを思案している様子だ。


「おっ、兄ちゃん上手い上手い!」


 またもや仲間達から煽る様な声援が飛ぶ。

 ルビーの次の投擲は中心からまたもや少し外れた所に刺さる。それでもこちらのリードは変わらない。

 残り3回、ジェスは先程と同様に腕を数回ストロークした後、投擲する。

 トンと軽い音と共に中心を射貫いたダーツは真っ直ぐにダーツボードに刺さる。

 仲間達からの声援は無い。

 少年の投擲がまぐれかどうか判断に迷っているのだろう。それはルビーも同じだった。

 ルビーの投擲は遂に中心を射貫く。これで、再びこちらのリードだ。仲間達も囃し立てる様に声を上げる。

 残り2回、先程の投擲がまぐれかどうか、これで判るだろう。

 ジェスの投げ方は右足を前に出して、右手で投げる。ダーツ等をまともにやったことが無いルビーですら、様になっていると思う。

 トンと静かな音が響く。再び中心を射貫たジェスは軽く息を吐く。どうやら彼の腕前はまぐれでは無いらしい。


(こりゃあダメかね?)


 その後もジェスは連続して中心を当て続け、結果はこちらの大敗だ。

 意外な特技を持つ少年に賛美を送る。


「いやいや、面白かった。アンタ強いね」

「本当だぜ兄ちゃん! 今度俺にも教えてくれよ!」

「あんなに連続で狙えるもんなんだな」


 仲間達も大盛り上がりだ。

 ウチの面子は基本的に明るくて気の良い奴ばかりだ。そして馬鹿だ。恐らく勝負の報酬等もう覚えていないだろう。


「でもジェス、何でアンタ最初から本気出さなかったんだい? 油断させようとしたのか?」

「ん。いや、片目だと距離感が把握し辛くて」

「最近やったのかい?」


 その目、と自分の左目を指差して問う。


「ほんの少し前にね」

「それであの腕前とは気に入った! 勝負には負けたけどウチに来なよ。ウチの連中は悪い奴じゃあないよ?」

「えっ、いや、ゴメン。〈トラパネーゼ〉でやらないとダメな事があるから……」

「まぁ、無理にとは云わないさ」

「所で、俺が勝った訳だけど……今回の件について手を引いてくれるかな?」

「ああ。アンタからは手を引くよ。パールを引き込むのは辞めないけどね」

「それじゃあ意味がないよ」


 ジェスは半眼を向けて云う。

 こう云う顔も出来るのかと、評価を改める。〈ボロネーゼ〉側に土地を開く事は必須では無い。

 ジェスの事は長い目で引き込むとするのであれば、ここで心象を悪くするのは悪手だろう。


『お兄様を解放しなさい!』


 そう云って鴨が葱を背負って来たのだった。



 ――〈ボロネーゼ〉の貧困区域 廃ビル前 抗争終結日から3日後 夕方――


 何年振りかの廃ビルは、カビ臭い香りと共に、懐かしい記憶を思い出させる。


『お嬢様、本当に他の者を連れて来なくて良かったのでしょうか? 〈トラパネーゼ〉の連中にも連絡を入れた方が良かったのでは……』


 隣を歩くオルネライラは恐縮ですと云わんばかりの低頭さで口添えする。彼女の言葉は保険としても、悪いものでは無かった。

 しかし、〈ボスカイオーラ〉の連中はジェスを人質に取っているのだ。変に刺激して彼が殺されるのは避けるべきだ。

 〈トラパネーゼ〉に連絡をしてしまえば、ジェスの優先度は下がり、彼を危険な目に遇わしてしまう。そう考えた結果、オルネライラと2人だけで交渉に挑む事にしたのだ。


『構わないわ。お兄様の安全を第一に考えれば妥当な選択でしょう。オルネライラ、いつでも準備はしておいて』

『かしこまりました』


 いつでも戦闘に入る準備を促す。自身も腰に下げたナイフを手で確かめる。〈ボスカイオーラ〉の現当主は女だった筈だ。

 連中を見つけて、ジェスに危害を及ぼしていたら、まずは女を狙う。

 階段を上り、昔、溜まり場にしていたフロアがある通路に差し掛かる。


『お嬢様、まずは私が様子を見てきます』


 オルネライラはこちらに掌を見せて制止を掛ける。彼女に云われるがままに足を止め、足音も立てず駆ける彼女を目で追う。

 フロアの中を窺い、こちらを振り向いた彼女は右手を振り上げる。進んで良いと云う合図だ。

 足音を立てぬ様に慎重に歩いて行き、オルネライラに云う。


『中の様子はどうかしら?』

『はい。何と云いますか……遊んでいる?』

『はい?』

『む。何やら揉め出した様子です』

『何ですって! 行きましょう!』


 フロアへと飛び出し声を上げる。


『お兄様を解放しなさい!』


 ジェスを探すと、廃車の横に女と向かい合っている。周囲に他の女は居ない。と云う事は、あの女が〈ボスカイオーラ〉の当主、ルビーだろう。


(……ルビー以外に女が居ない?)


 あのバカ女はどうしたのだろうか。別の場所にいるのだろうか。それはそうと、あの女やけにジェスに近くないか。


『頭! パールが来ました!』


 聞き知った声が聞こえる。間違いなくパイソンの声だ。彼の姿はこちらから見えなかったが、恐らく廃車の裏にでも居るに違いない。


「おやおや、丁度アンタの話をしていたんだよ〈ボロネーゼ〉現当主」

「元です。もう〈ボロネーゼ〉はマフィアの体を成しておりませんから。それよりもお兄様を解放してくださるかしら?」

「良いんだよ。アタシが用があるのは〈トラパネーゼ〉の大看板じゃあ無くて、市民に影響力のある看板なんだから」

「何の話かしら」

「パール、アタシ等と来いよ。そうしたら〈ボロネーゼ〉の施政なんてくれてやるよ。その代わりに土地を少しばかり分けて欲しいんだ」

「貴方達〈ボスカイオーラ〉に〈トラパネーゼ〉がどうにか出来るとは思えませんわ。寝言も程々になさいな」

「アタシ等の力、試して見るかい?」


 そう云うとルビーは腰のナイフに手を伸ばす。それに合わせる様に腰のナイフを掴む。背後ではオルネライラだろうコッキングの音が聞こえた。


「ルビーさん、話し合いなんでしょ」


 その声はジェスだ。彼は手にしたダーツをルビーの喉に当てて云う。


「勝負は俺の勝ちだったでしょ。それなのに、往生際の悪い人は嫌いですよ」


(……勝負?)


 喉にダーツを向けられたまま、ルビーはわざとらしく肩を竦める。その顔に焦りや恐怖は無い。ジェスがそう云う事をやらないとでも思っている様な余裕だ。


「ジェス、冗談じゃあないか。本気にしちゃって、可愛い奴だねぇ?」

「俺はそう云う冗談、好きじゃない」

「……判ったよ。パールの事も今回は手を引こう。後、アタシに勝ったスペシャルサービスとして情報をあげよう」

「情報だって?」

「そうさ。アンタを拐う時に別の奴等と鉢合わせてね。そいつ等、アンタを拐おうとしてたんだけど、ウチの奴等に気付いて逃げやがってさ。連れの女だけ連れていったのさ」

「連れって……エムエルさんか!」

「その名前は聞いた事があるね。……そうか、あの女がね。女を連れていった奴等には見覚えがあるよ。ありゃあ〈カチャトーラ〉の奴等だ」


 バカ女が居ない理由はそれだったのか。〈カチャトーラ〉と云えば〈トラパネーゼ〉との縁談を進めているらしい。それがどうして誘拐等するのだろうか。部下の自暴自棄によるミスか?


「そこで勝負と行こうか、ジェス」


 ルビーはジェスの手を退けて、彼に向き直って云う。


(だから、近いんですってば!)


「勝負?」

「そう。〈カチャトーラ〉を潰して来なよ。アンタがそれ位出来る男なら〈トラパネーゼ〉でやろうとしてる事も、何かは判らないが、出来るかも知れない。その器なら私達はパールを諦める。そんな奴に喧嘩を売っても旨味は無いからね。でも、それが出来なかったらアンタもパールもウチに来るって事でどうだい?」

「ちょっと待ちなさいな。端から聞いていれば、私の話を私抜きで進めている様だけど」

「その勝負受けよう」

「ちょっと! お兄様!?」

「兄的権限を使わせて貰うよ。あるかは判らないけど……それにエムエルさんを救えば〈トラパネーゼ〉での発言権を獲られるでしょう?」


 やはり自分が姉になるべきだったかと後悔した。ルビーはこちらを見て、ドンマイと云って続ける。


「1ヶ月あげる。その期間以内に〈カチャトーラ〉を潰せばアンタ達の勝ちって事でいいね?」


 ジェスは首肯して、ルビーから離れる。ルビーはそんな彼の手を取り、ポケットから取り出した小瓶を渡す。


「アタシが使ってる矢毒を上げる。ダーツの針に塗れば銃が無くても、十分な武器になる筈」

「ありがとう」


 そして今度こそ廃ビルから出て行く。ジェスは一旦〈トラパネーゼ〉に戻る事を提案し、所でと聞いてくる。


「メリーニは大丈夫?」

「ここに居ないと云う事は、バカ女と同じで〈カチャトーラ〉に拐われたと見て良いのではないかしら」

「そうか……なら早く助けに行かないとね」


 その後、1度〈ボロネーゼ〉の屋敷に戻り、車を手配して〈トラパネーゼ〉へと出発した。



 ――〈トラパネーゼ〉の屋敷 抗争終結日から3日後 夜――

 〈トラパネーゼ〉の屋敷に戻って早々、ジェスはボスの部屋に来ていた。事のあらましを説明し終わると、ボスは方針について告げる。


「〈ボスカイオーラ〉からの情報か……無条件に信用する訳にもいかんな」

「ですけど、今の所情報はそれ位しか無いんじゃないですか?」

「だが、それが偽の情報であった場合、〈カチャトーラ〉との同盟は解消され、今後〈トラパネーゼ〉と同盟を組む勢力も無くなるだろう。〈ボスカイオーラ〉がそう云った事実を作ろうとしている可能性は否定出来まい」

「だからと云って手をこまねいている場合じゃあ……」

「手を拱くつもりは無い。まずは少数での偵察に向かえ。2日以内に何らかの報告が無ければ、〈カチャトーラ〉がこちらに敵意があった物とみなし増援を出す。無論、怠惰に2日を過ごして連絡を怠った場合は、反逆者として扱う」


(反逆者って……無茶苦茶じゃないか)


 2日以内に報告が出来ない状況に陥ると云う事は、こちらに何らかの問題が起きたと判断するらしい。

 助けるか、全滅するかの2択の様に思えた。そしてそれはたったの2日間だ。

 その期間の短さは、ルビーの提示した期間に比べ、遥かに短い。それでもやるしか無いと思う。エムエルとメリーニを助ける事に仰々しい理由なんて必要無いのだから。


 ――〈トラパネーゼ〉の屋敷 車庫 抗争終結日から3日後 夜――

 エムエル救出に向かう面々は、自分を含めて3人である。

 今は〈トラパネーゼ〉の屋敷に隣接した車庫にいて、運転手役であるアルテージを待っていた。彼は、同行すると申し出てくれたのだが、ボスの許可が下りなかったのだ。せめて送るだけでもと、車の運転を買って出てくれた。


 救出メンバーの1人はエムエルの筆頭侍女であるベルコーレであり、彼女は終始浮かない顔つきをしていた。メイド服をカスタマイズした黒ずくめの服に身を包んでおり、宵闇には良く溶けそうな出で立ちだ。


(エムエルさんが心配なんだろうな……いつもの彼女らしく無い)


 もう1人はエムエルと犬猿の仲であるパールであり、彼女は退屈を絵に描いた様な顔つきだ。相変わらず〈にゃんとっと〉ブランドであるが、真っ黒のパーカーを着ている。〈にゃんとっと〉オフィシャルキャラクターの〈にゃん〉の顔が描かれたフードに足元に垂れる尻尾は、どう見ても忍ぶ意志を感じない。ひょっとすると、わざと見つかろうとしているのかも知れない。

 そんなパールを見つめていたベルコーレが云う。


「パールさん。何ですかその舐め腐った格好は」

「あら? 黒猫の様に忍ぶ為の服装ですけど、何か気に障ったかしら?」

「色は問題ありません。その不細工な猫に、微塵も緊張感を感じないと云っているのです」

「なっ! 不細工ですって!? 貴女に〈にゃんとっと〉の何が判ると云うのかしら! 大体、本当なら新キャラクターの〈ハトーさん〉をあしらったスウェットを着てこようとしていたのに、やっぱりそれは流石に隠密向けじゃ無いと考えたんですよ。ショッキングピンクは不味いと考えたんです。だからこその黒。黒はメインキャラクターである〈にゃん〉のイメージカラーですし、必然的に〈にゃん〉デザインの服装になるでしょうが。その気遣いに目を向ける事もせず、あまつさえ不細工などと云う物言い、万死に値するのでは無いかしら? いえ、します! まず〈にゃん〉が不細工だと形容せざるを得ない貴女の美的感覚には、もう脱帽するしかありませんわ。脱帽と云えば、新作の〈にゃん〉キャップもあったんでした。それに代えて来ましょうか? それなら文句無いかしら! 所で貴女のその黒服は何かしら? メイド服を黒くしただけの人に緊張感とか云われたく無いものです。そもそもそれ、オーダーメイドじゃないの。私のは既製品で世の中に受け入れられている物ですし、オリジナリティー溢れる痛いメイドに服装がどうとか云われたくありませんわ!」


 捲し立てる様に告げるパールは、これまでの彼女の印象と大きく異なり熱を感じる。彼女の前では〈にゃんとっと〉を批判する事は止めておこう。

 未だ息を荒くしているパールと理解不能と云った様子のベルコーレを見て仲裁に入る。


「お互い黒いんだから、バレなかったらそれでいいから。もう黒かったら同じ様なもんでしょ」

「「同じじゃありません!!」」


 こちらとしたらどうでも良い内容なだけに、ぞんざいに割って入った事を後悔した。そして、こう云う時に限ってアルテージの到着は遅れるのだった。



 ――〈トラパネーゼ〉の郊外 車中 抗争終結日から3日後 深夜――

 車内は重苦しい空気に満たされている。

 アルテージがジェス達に合流した時にはもう、この空気は仕上がっていた。

 ジェスに何があったのか聞くと、彼はこちらにだけ聞こえる様に小声で「服装には触れないこと」と告げて来た。

 その言葉で彼女達の服装を改めて見てみたが、成る程酷い物だと感心した。


(黒ければ良いってモンでも無いでしょうにねぇ)


 物理的にどうにもならないと判りつつも、空気を替えようと車の窓を下ろす。乾いた風が車内を吹き抜けた。

 風を追う様に車内を眺める。

 助手席にはベルコーレが座り、後部座席にパールとジェスが座っている。


(しかし、若とパール嬢は本当、兄妹の様に見えますねぇ)


 お揃いの眼帯のせいだろうか? 彼等は仲の良い兄妹と紹介されたら信じてしまいそうだ。ジェスはジャポン人だが、外国人とのハーフらしく、東洋系の顔立ちとは言い難い。


 日が陰り、窓から吹き込む風も冷たくなっていた。女性2人がこの風で頭を冷やしてくれると助かる。

 これから敵地に赴くと云うのに、仲違いをしていては上手く行く物も上手く行かないだろう。

 ルームミラー越しにジェスを見て、話し掛けるのは今回の拉致騒動についてだ。


「若が襲われた時に、〈ボスカイオーラ〉の連中以外の姿は見て無いんですかい?」

「うん。いきなり後ろから嗅がされたからね。エムエルさんの方を見る事も出来て無い」

「そうですか。何でまた若を拐ったんでしょう?」

「お兄様を餌に、私を懐柔しようとしてたらしいですわ」


 パールが代わりに答える。

 2人が戻って来たと云う事は何か取引があったのだろうか。その辺りの詳細は聞いていない。


「拐った割には解放が早いですねぇ」

「さばさばした感じだったからね、向こうのボス」


(確か、〈ボスカイオーラ〉の当主は女性でしたね。若は女難の相が出ているんじゃ無いですかね……)


「ルビーでしたっけ。先代までは環境デモと称してテロを起こす事もありましたが、彼女の代からは〈ボスカイオーラ〉も大人しいですねぇ。それだけに今回の強引なやり方は腑に落ちない所なんですわ」


 〈トラパネーゼ〉と〈カチャトーラ〉の分断が目的かも知れませんねとは云わない。この程度の事はジェスにも想像出来るだろう。もっとも、パールの件もある。ジェスはルビーまでも落としたのかも知れない。


(そのモテの秘訣を今度教わって見ますか)


「しかし、若とお嬢を別々のマフィアが拉致ってのは作為的ですね」

「ルビーさんが云うには情報を仕入れたって。それで俺が何処にいるか把握したんだろうね」

「情報、ですか」


 そうであれば、2つのマフィアに情報を売った情報屋が居ると云う事だ。そいつの目的は何だ? 只の金銭目的か、抗争を求めるバカか、はたまた第3勢力のマフィアか。

 いずれにせよ、ソイツには落とし前を付けさせる必要がありそうだ。


「それにしても、〈カチャトーラ〉ってあのバ……エムエルの縁談相手よね? 何でわざわざ拉致何て真似をしたのかしら?」


 パールは、恐らくバカ女と云おうとしたのだろう。そして、その発言はルームミラー越しに見えた鬼の形相に言い直しを余儀無くされたと云った所だ。


「縁談の雲行きが怪しくなったからとかですかねぇ?」

「でもボスはこの前、縁談が纏まりそうな事を云ってたけどね。もっと別の理由があるのかも」


 ジェスの云う通り、前回の報告の際にボスはそう云っていたし、そのせいでお嬢が大いに怒っていたのは記憶に新しい。それでも他に理由も思い付かない。

 顔に当たる夜風がいい加減寒くなり、窓を閉めて車を転がす。

 辺りはすっかり暗くなっていた。



 ――〈カチャトーラ〉の屋敷 一室 抗争終結日から3日後 深夜――

 〈カチャトーラ〉に捕らえられ、その屋敷で夜を迎える。

 宛がわれた部屋は狭くは無く、まるで客人を迎え入れる様な造りの部屋だった。

 ロッソーレとは、あの時以来会って居ない。あの後、使用人にこの部屋に連れられた。

 食事はコース料理が出て、どの料理も粗末な物では無かった様に見えた。

 それが、こちらの警戒を緩める為かどうかは判らなかった。

 父に謀れて以降、食事は喉を通って居ない。

 加えて、敵の出してきた料理など食えた物で無い。

 手付かずの料理が部屋に残されている。どうせこれも明日の朝には片付けられるだろう。


 このまま干上がっても良かったが、ジェスとメリーニが解放されるのを見届けた後、自害しようと考えた。

 そして、父の目の前で引き金をひいてやるのだ。

 騙した方に何の傷も無いなんて理不尽だろう。父もまた、絶望を知るべきなのだ。

 大体、押し付けられた相手との結婚が嫌でジェスを拐ったのだ。

 ジェスには振り回すだけ振り回してしまった事を謝ろう。

 目の傷にしても、ナガグツへ連れて来なければ、負う必要が無かった物だ。


(許してくれるかは判らないけど)


 部屋の窓を開けると、冷たい夜風が吹き込んで来る。

 部屋は4階にあり、窓から見下ろした様子では、落ちれば死ぬ事も可能だろう。


『アタシがここで死ねば、ジェス様達に利用価値も無くなって解放されるのかな』


 窓の下は夜の闇に溶け、何があるのか見る事は出来ない。このまま、落ちたら闇に溶けて消えるだろうか。

 そんな、現実逃避をしていると、視線の先の黒い空間から声が発せられる。


「お嬢様、こんな醜悪な場所で死ぬだなんてお止めください」


 聞き知った声に、鼓動が脈打つ。


「そうだよ。エムエルさん。助けに来た意味が無いじゃないか」


 捕らえられている筈の想い人の声は、どうしようも無く胸をかき立てた。ここが、敵地でなければ叫び出していたに違いない。

 闇から浮かび上がる様にして、ロープを便りに壁を登って来るのは、ベルコーレとジェスである。

 その姿を目にした時、いつも粗暴な自分は乙女の様に泣いた。

 人前で涙は流したくない質であったが、最近は良く泣いていると思う。


(何だか最近、泣き虫になってしまった見たい)


 窓枠に足を掛けて部屋へと入って来たジェスに抱き着く。

 そして、大きく息を吸い、鼻腔に彼の香りを流し味わう。

 ジャポンで出会ってからも、これ程近くで彼を感じた事は無い。

 不意に自分がシャワーも浴びてなかった事実を思い出し、ジェスを押し退けて飛び退く。それを見て、ジェスは「どうしたの?」と聞いて来る。


「い、いえ。私、その……昨日今日とシャワーも浴びてないので、臭いかなと」

「大丈夫だよ? バニラっぽい匂いが相変わらずしてるだけで」


 彼の云うバニラの香りとは、トスカーノ・ヴァニラによる物に違い無い。トスカーノは、ロッソーレに取り上げられる事も無かったので、時間をもて余した際に吹かしていた。

 

「それに、俺はその香り、好きだよ」


 その言葉は引力を持っているかの如く、飛び退いた自分を再び彼に抱き着かせる。

 彼の腰に回した手を放し、ポケットからトスカーノを取り出してジェスに見せる。


「これが、その香りの正体です」

「えらく長いね」


 トスカーノは長い葉巻だ。なので吸う時にはハーフカットした物を吸う。手にしたトスカーノを半分に千切ってジェスを見上げて云う。


「こ、この葉巻は、一本を分けたりするんですよ」

「へぇ。だから長いんだね」

「ご、ご一緒にどうですか!?」

「俺、煙草も吸った事無いよ?」

「私が手取り足取り教えますっ。それに煙草と違って、肺に入れないので、煙草慣れしていない方が良いです」

「そうなの? じゃあ1つ貰おうかな」


 彼の口へ手にしたトスカーノを運んで行く。ジェスは「えっ、自分でやれるよ」と慌てるが無視して咥えさせる。その折に彼の唇にわざとらしく指を這わす。

 そして、自分の口にもう一方を咥えてライターで火を着けると、ジェスの咥えたトスカーノに自分の物を重ねる。

 それは、ちょっとした口付けの様な物だ。

 なんて幸せな時間だろう。先程までの鬱屈した気分も、もう晴れた。

 窓の外を横目で見ると、ベルコーレが柔和な笑みを浮かべてこちらを見ていた。

 その時、ベルコーレが携帯を取り出して誰かと会話を始めた。


「そうですか、ならここにはもう用はありませんね。ええ、お嬢様は無事に確保しましたとも。ありがとうございますアルテージ」


 彼女は携帯をしまうと、こちらに向かって云う。


「お嬢様、若、メリーニが〈トラパネーゼ〉市街で保護された様です。もうこの屋敷には用はありません。退却しましょう」


 そう促され、ロープを頼りに下へ降りると、気に入らない顔が見える。しかし、今の自分は幸せな気持ちで満たされており、彼女に対しても棘の無い話が出来る。


「パールも来てたのね。ありがとう。それに素敵な服装ね」


 憎まれ口を叩くかと思っていたが、こちらの言葉にパールは目を輝かせて、長年生き別れた兄弟が再会を喜ぶ如くこちらに抱き着いて云う。


「私、貴女の事を勘違いしていたみたい。おかえりなさい。今後は仲良くしましょう?」

「えっ、ああ、うん」

「ああ。その前にロープを処理してくるわ」


 パールはそう云うと、猿の様な速さでロープを登り、屋上からそれを巻き上げる。そして、雨どいから滑り落ちる様に降りてくる。


(サーカスか何かに居れば大人気になるんじゃないの……?)


 思わぬ特技に感嘆する。

 パールによると、ロープを設置した後は、下で〈カチャトーラ〉の人間が来ないかを見張っていたらしい。

 その後、〈カチャトーラ〉の屋敷の外れでアルテージを待っている間も、朝日も顔を覗かせた頃に到着したアルテージの運転する車中にいる間も、パールは服装について熱弁していた。ジェスが「そろそろ止めたら?」と彼女に提案したものの、パールはお構い無しに話し続けたのだった。


 ――月明かりで照らされた暗い部屋 抗争終結日から3日後 深夜――

 ブランデーに浸かっていた氷が溶けて、転がる音が鳴る。この部屋にはそれ以外の音は存在しない。

 どうやら〈カチャトーラ〉の阿呆と〈ボスカイオーラ〉の阿呆は失敗したらしい。

 しかし、自分としてはそんな事は些末な物に過ぎない。

 仮に成功していた所で興味も無い。


(金さえ貰えればそれで良い)


 報酬は半値だ。向こうの成功時に残りを受け取る約束だったからだ。元々、半値のみを目的にしてはいた。だからその結果に消沈する事も無い。

 金が目的なのかと問われれば、そうだと答える。但し、付け加えるならスタジアムでスポーツを観戦した上で金を手にしたい。

 試合は可能な限り泥試合であるべきだ。流血沙汰なら更に良い。

 自分はどこの身内にも成った覚えは無いので、世間的に身内を売ると呼ばれる行為にも、何ら抵抗が無い。

 5年前も傑作だった。

 あの時の光景を思い出して笑い声を上げる。

 ブランデーの氷が転がった様に見えたが、自分の笑い声で聞こえない。まだまだ、金が必要だ。次の金策を探りながらブランデーを継ぎ足してあおる。


(継ぎはどんなマッチメイクをしてやろうかね)



 ――〈カチャトーラ〉の屋敷 ロッソーレの部屋 抗争終結日から4日後 早朝――

 寝室のドアを乱暴に叩く音で目を覚ます。窓から見える外の明るさから、朝方である事が判る。


『何だ? 入って良いぞ』


 ロッソーレはそう云うと体を起こす。隣で眠る侍女は鈍感な物で、寝息を立てている。裸にシーツをくるんだだけの姿は目の保養に十分だ。


『坊っちゃん大変です!』


 開口一番大きな声で云ってくる使用人の声は起きたばかりの頭に響く。使用人を睨み付けて云う。


『やかましい。何が大変なんだ』

『それが……エムエル嬢の部屋に配膳に行った使用人によると、彼女が居ない様でして』

『……どう云う事だ! 部屋には鍵を掛けていたんだろう!?』

『はい。部屋の鍵は掛かって居たとの事で、窓が開いていたそうです』

『アイツに宛がった部屋は4階だぞ! クソっ、何がどうなってる』


 (〈トラパネーゼ〉に感付かれたか?)


 元々、拉致対象はジェスと云う少年とエムエルの2人の予定だった。ジェスを〈カチャトーラ〉の小飼にする事でエムエルに対する手札にする予定だったのだ。

 それが、当日に〈ボスカイオーラ〉の連中と鉢合わせた事により失敗した。その時にこちらの仲間に気付いたエムエルが、ジェスの誘拐を〈カチャトーラ〉の仕業だと云う事を恐れた部下がエムエルを拉致した。


(それが悪手だとは思っていたが、裏目に出ちまったか!)


 その状況を上手く利用する筈が、当のエムエルが逃げてしまっては意味が無い。エムエルを拉致した部下は後で殺すとしよう。


(直ぐに〈トラパネーゼ〉に返しておくべきだったか? クソ!)


 こちらが意図的にエムエルを拐ったと〈トラパネーゼ〉に伝われば破談は必至だろう。

 エムエルは死んでしまった事にしても良かった。

 必要なのは〈トラパネーゼ〉の実権だけなのだ。しかし、今それを憂いても仕方がない。

 先手を打つ必要があった。


『今すぐ車を用意しろ。〈トラパネーゼ〉に向かう』



 ――〈トラパネーゼ〉の屋敷 抗争終結日から4日後 昼前――

 正午に差し掛かるかどうかと云った時刻、ロッソーレは〈トラパネーゼ〉の屋敷に辿り着いた。

 使用人に話を通して〈トラパネーゼ〉のボスの部屋へ行く。

 部屋に向かう道中、〈トラパネーゼ〉ファミリーの面々にはすれ違う事は無かった。


(やけに人が少ないな……ガキを探しに出ているからか?)


 部屋に入ると、相変わらず不遜な態度の男が座っていた。彼はこちらに目線を寄越すと、


『ロッソーレ、事前連絡も無しにやってくるとは、どういう了見だ』

『それがですね。ウチが仕入れた情報によると、〈ボスカイオーラ〉に寝返ったジェスってガキがエムエル嬢を拐ったそうなんですよ』

『……ほう? ジェスがエムエルを?』

『ええ。そして、それを我々〈カチャトーラ〉の仕業にしようとしているとか……』

『……確かにジェスは〈ボスカイオーラ〉といたと聞いている』

『その時に何かを吹き込まれたのでは?』

『……』


 〈トラパネーゼ〉のボスは黙ってこちらの話を聞いた。彼の反応から想像するに、エムエルはまだ屋敷に帰って居ないのだろう。


(……先手は打てたか)


 その時、ドアが開く音が聞こえ、目の前の交渉相手が視線を扉の方へやるのを見た。そしてこちらを見据えて云う。


「丁度良い。ジェスが〈ボスカイオーラ〉と結託し、我が娘の拉致を実行したと云う君の情報は真実なんだな?」


 クイーン語で話し始めた事に何事かと一瞬考えたが、時間は無い。彼の質問に返事をしようと息を吸った。

 発言は女の高笑いによって停止した。


「ウチが〈トラパネーゼ〉の娘の拉致を計画だって? オイオイ、〈カチャトーラ〉の若頭さん。嘘を付くにしても、もう少しマシな嘘があるんじゃあないの?」


 わざとらしい大きな足音を立てて近付いてきた彼女は、こちらを見下ろす様に云う。彼女から視線を外し、〈トラパネーゼ〉のボスへ云う。


(こいつは……! どうなってやがる。何でこんな所にいる!)


「これはどう云う事ですか……」

「彼女は、〈ボスカイオーラ〉の当主でルビー殿だ。〈トラパネーゼ〉としても、今回の件で〈ボスカイオーラ〉が関わっているるとの情報を入手してな。そこで、参考人として来て貰っている。彼女の希望で、ここからの会話はクイーン語で進める」


 ふざけるな! と叫び出しそうになるのを必死に我慢する。〈ボスカイオーラ〉がこの場に出てくるなんて想定外である。

 どうにかしなければならない。


「〈ボスカイオーラ〉がジェスを拐った事は、〈トラパネーゼ〉も確認済だ。だが同時期にエムエルも連れ去られている。これは、ジェスが寝返る間も無くと云ったタイミングだ。ルビー殿に聞く。〈ボスカイオーラ〉はエムエルを拐ったのか?」


(……まずい)


「いいや? ジェスを拐ったのはパールに用があったからさ。云っちゃ悪いけど、〈トラパネーゼ〉には興味が無かったモンでね。ただ、〈カチャトーラ〉の連中がアンタの娘を拐ったのは見ていたよ」


(まずいまずい)


「あれは拐ったのでは無い。お前等〈ボスカイオーラ〉が少年を連れ去り、エムエル嬢も連れ去ろうとしたから保護したんだ!」

「つまり、暫くはエムエルは〈カチャトーラ〉に居たと?」


(まずいまずいまずい)


「そうです。お伝えするのを失念しておりましたが、連絡はする予定でした。ただ、彼女自身酷く動揺していて、落ち着いてからお返ししようと……」

「そこに〈ボスカイオーラ〉の差し金でやって来たジェスが、エムエルを拐ったと?」

「我々〈カチャトーラ〉はそう考えています」

「良くもまぁ、いけしゃあしゃあと嘘が並べられるモンだね。そう思わないかい?」


 ルビーは扉の方へ向かってそう云うと、「なぁジェス」と笑みを浮かべた。

 そしてルビーの横に立ったのは少年だ。左目を覆う眼帯を着けており、ナガグツ人では無い顔立ちをしていた。


(こいつか! こいつが全てをグチャグチャにしやがった糞野郎か!)


 ジェスと呼ばれた少年は、睨むこちらに怯む事も無く、半眼で睨んでくる。そして、低く唸る様な声で云う。


「俺を陥れようとしているのは、正直どうでもいい。だけど、エムエルさんに手を出したのは許さない」

「何をとぼけてやがる! お前が彼女を拐って〈ボスカイオーラ〉に売ろうとしたんだろうが!」

「〈トラパネーゼ〉の実権が欲しいだけ。だったっけ?」


 割って入る声は忌々しいエムエルの声だ。

 これは愈々まずい。

 ソファーから立ち上がり、屋敷を出る為に扉へ向かう。

 背後から〈トラパネーゼ〉のボスの声が掛かる。


「認めたか……これで〈カチャトーラ〉との縁談は破談だ。今後、同盟の件についても当主へ連絡する」


 その声を無視して逃げる様に扉から出ると右足に痛みが走る。見やるとダーツが刺さっていた。


「エムエルさんに手を出したのは許さないと云った筈だ」


 それは少年の声であり、隠しようの無い怒りを孕んでいた。


『ふざけるなっ! 許さないのはこっちの方だ糞ガキ!』


 怒りに任せて叫ぶ。もっと喉から怒りを吐き出そうとすると、足に違和感を覚えた。

 足に猛烈な痺れが来たと感じた時には、通路に倒れていた。このダーツには毒が仕込まれていたようだ。激しい怒りを感じながら意識が遠ざかって行くのを感じた。


(ジェス……その名前、忘れねぇぞ)


 ルビーに渡された矢毒は神経系に作用する猛毒だった。ルビーによれば、ロッソーレは今後、まともに歩く事すらままならないだろうとの事だ。

 彼女たち〈ボスカイオーラ〉が、どうして銃も持たずにマフィアの1勢力に数えられているのか、その片鱗を垣間見た様な気がした。

 人をこんな風に傷付けた事など、ジャポンで生きてきた中で1度も無い。しかし、それに対する罪悪感の様な物は感じなかった。

 片目を奪われた時から生じ出した気持ちの変化に内心不安になる。

 自分はこれからどうなって行くのだろうか。少なくとも、今までの様な平和な生活を営む事は難しそうだ。

 部屋の外で一部始終を見ていたアルテージに向かって云う。


「アルテージさん。コイツを〈カチャトーラ〉に引き取って貰ってください」


 アルテージは一礼すると、倒れて泡を噴いていた男の足を持ち、通路を引き摺って行く。


 部屋の中ではエムエルが父親に事の顛末を説明していた。

 彼はそれを聞き終えると、周囲に告げる。


「今回の件で〈トラパネーゼ〉は、〈カチャトーラ〉との同盟を解消する。〈カチャトーラ〉も次期当主があの有り様では長くははもたんだろう。〈カチャトーラ〉の衰退は時間の問題だ」


 〈カチャトーラ〉を潰すと云うルビーとの勝負は、こちらの負けかも知れない。勿論、直に潰れる事になるのだろうけれど。

 ルビーに負ければ、パールと自分は〈ボスカイオーラ〉の一員として彼等と行動を共にする事だろう。また、パールは〈トラパネーゼ〉への影響力を失ってしまう事に怒るだろう。

 それを考えるとパールに申し訳なく思う。

 ルビーと目が合う。

 彼女はこちらの考えを察したのか、頷いた後に云う。


「さてと、これで終いだね。〈トラパネーゼ〉の旦那、アタシはもう帰って良いんだろう?」

「ああ。わざわざ済まなかった」

「いやいや良いって。亭主の為だしね」

「ん……?」


 彼女は何を云ったのか。理解するまでに若干の時間が必要だった。まず反応したのはパールだ。


「ちょっと貴女! な、何を仰っているのかしら!?」


 そこにパールとすっかり仲良くなったエムエルが加勢する様に云う。


「ぽっと出の年増が調子乗り過ぎよ!」

「本当ですわ。お兄様は妹ゾッコンのシスコンですし、年増には興味ありませんし!」


 根も葉もない性癖情報が晒されて行く。勘弁して欲しい。

 勿論、それはただの風評被害であったし、シスコンでも何でも無い上に、仮にパールにゾッコンだとしても、それはシスコンの定義には入らないのでは無いか。

 しかし、自分より「ちょっと待て」と声を掛けたがっているのはルビーであった。


「まぁまぁ、子ども達? お姉さんはまだ20代前半な訳よ。肌だって〈ボスカイオーラ〉特製の無添加化粧品で湯上がり卵肌な訳だ。そんなアタシに年増とは云ってくれるじゃあ無いの」

「……無添加化粧品、パール、欲しくない?」

「欲しい……じゃなくて! 気をしっかりもって、エムエル! 私達、そんな物に頼らなくても湯上がり卵肌ですし! 若さは無敵なんですよ!」


 女子の煩悩を刺激するルビーの甘言に抵抗する二人、それを騒がしい近所の子どもを眺める様な目でルビーは見ていた。


「そもそも、アンタ等がシャシャリ出てくるのは筋違いじゃあ無いのかい? 〈トラパネーゼ〉の人間をウチに貰うんだ。同盟だって大義名分が立て易い。なぁ〈トラパネーゼ〉の旦那?」

「ふむ……」

「いや、私妹ですし! 筋は通ってますわ! この中の誰よりも深い間柄でしょう」


 パールが異議有りと宣言する。波状攻撃の如くエムエルが前に出る。


「ジェス様とはこちとら、口づけした仲だから!」

「えっ!? エムエルさん、あれ唇触れて無かったよ?」

「二人の距離が10センチ以内ならキスなんです!」

「ちょっと、エムエル!? 聞いてないし、それは何事かしら!?」


 ルビーはそれを聞くと、意地悪そうな笑みを浮かべて、「へぇ、じゃあさ」と云って近付いてくる。

 直ぐに彼女が目の前まで来た。

 彼女は目にも止まらぬ速さで、こちらの後頭部に右手を回すと、抱き込む様に腕を引く。

 重なった唇はとても柔らかく。彼女の肌は柑橘系の爽やかな香りがした。


(この肌触りは、確かに湯上がり卵肌と云うだけはあるな。うん……)


 特に抵抗しなかったので、暫くそうしていたのだろう。

 ルビーは唇を離すと、エムエルに向き直り挑発的に云う。


「これは、キスに当たるのかい?」


 息を飲んだ様な沈黙の後で、抗議の声が上がった。


「テメェ! ババア、本当にいい加減にしろよっ!」

「全くもって、早く離れなさい! 妖怪接吻ババア!」

「3人とも、そこまでだ」


 姦しい会話に割って入る豪傑はボスだ。最年長者の一言は一時停止を促す程度には効果があった。とは云え、喧嘩の最中に「待て」を命じられた犬の様に、瞳には戦意をたたえている。

 一難去ってまた一難とはこの事だ。


「エムエルとジェス君の婚約の話だが、これは娘の一方的な物でしか無い。だから1度白紙に戻す」

「また、約束を違えるの……?」

「いや、もう縁談を勝手に進める事はしない。また、ジェス君の様子から、ルビー殿との話もジェス君の知る所では無さそうだ。よってこれも、保留にするべきだろう」


 それを聞いたルビーは、最初から判っていたと云う事だろう。抗議の声も上げなかった。代わりに肩を竦めて見せ、悪戯がバレた子どもの様に笑う。


「だから、君達は焦らずにゆっくりやりなさい。そしてジェス君に選んで貰える様に精進しなさい」


 もう抗議の声が上がる事は無かった。それに満足したボスはこちらに向かって話し始める。


「〈ボロネーゼ〉の件に続いて〈カチャトーラ〉か、最初は平和しか知らない鳩野郎だとばかり思っていたが、どうやら異国の鳩も長靴の履き方を覚えたらしい。正直、ジャポンに返す事も考えていたが、そうするには惜しい。そこで提案だ。お前を養子として〈トラパネーゼ〉に迎え入れたい」


 養子として〈トラパネーゼ〉に入る。それもエムエルの婿としてでは無くだ。

 左目を手で撫でる。眼帯の感触が以前の生活との違いを知らせる。

 仮にジャポンに帰ったとしても、今までの様な生活に順応出来るとは思えない。それだけ、平和じゃない世界を知ってしまったのだ。

 そして、〈カチャトーラ〉の若頭を思い出す。彼の命は奪っていない。彼がこの先、更正してくれれば何の問題も無い。しかし、更正せず恨みを晴らしに来る事も考えられる。

 ジャポンに持ち込んではならないだろう。そう思うと帰国と云う選択肢は無かった。


「判りました。俺はこの先〈トラパネーゼ〉として生きます」



 ――この先の事は想像も出来ない。しかし、この平和じゃない国を少しでも故郷の様に平和な国に変えられるのであれば、それに尽力したいなと、平和な国からやって来た鳩はそう思う。ジャポンで小銭を稼いで、貧困に頭を抱えていた少年は、広い部屋を手に入れて、高級ブランドで着飾る様になった。それでも少年は故郷を忘れる事は無い。故郷の雰囲気こそが、この国の目指す所にあると信じているから――



 ――〈トラパネーゼ〉の屋敷 エムエルの部屋 抗争終結日から7日後 朝――

 ジェスが〈トラパネーゼ〉の養子となった日、ファミリーの幹部達に改めて挨拶をする事になった。

 彼の挨拶は2度目の顔触れと云う事もあって簡単な物だった。彼の義妹であるパールもまた、挨拶をしていたのを思い出す。

 〈カチャトーラ〉での1件以来、パールとは仲良くやっている。メリーニに対して感じる気持ちとは違って、対等な関係と思え、口喧嘩なんかもたまにする。

 メリーニは、ジェスと自分が〈ボスカイオーラ〉と〈カチャトーラ〉に拐われた日、公園で迷子になっていた所を〈トラパネーゼ〉の市民に保護されていたらしい。

 彼女と再会した時には涙が溢れる、と思ったくらい心配していた自分に驚いた物だ。

 ジェスに噛み付いて来た古参のベラルドも、今回の挨拶では悪態を吐く事は無く、「やるじゃあねぇか」と認める様な言葉を云っていた。

 その日のベルコーレの言葉を思い出す。

 彼女は、兄弟が増えるのは良い事ですね、と云っていた。それに対し、ジェスと兄弟になるのが目的では無かったと拗ねると、ベルコーレは耳打ちで云って来た。

 義理なのですから、既成事実でオッケー!

 成る程と励まされた物である。

 ジェスが養子に入った事で、パールが義理の義理の妹となった。パールはこの関係を「ギリギリの関係ですわ」と云っていた。ジェスと自分がどちらが、兄、姉なのかはまだ決めていない。自分としては同じ歳だし、どちらでも良いのだけれど。

 忌々しいルビーはあの日、ジェスと個人的に不可侵条約を結ぶと云って屋敷を出ていった。あの女狐は油断ならないとパールと話した物だ。


 パールは〈ボロネーゼ〉の街へ戻っていった。彼女の云うギリギリの関係で、〈ボロネーゼ〉の街の施政を一任された為だ。

 彼女は今、貧困区域の解体を進めている。街にあった富豪と庶民のいがみ合いも無くなり、新たに設立された警務組織が上手く機能していると、電話で話していた。

 パールはかなりジャポンが好きらしく、今度の春には旅行に誘われた。只の観光で行くのは悪くないだろう。

 彼女は友情の証にと云って、ジャポンの人気ブランドと云う〈にゃんとっと〉のアイテムを幾つかくれた。それは、今まで高級ブランドしか持っていなかった自分にとって、とても新鮮な物であり、カジュアルな格好をすると、普通の女の子の様に振る舞える魔法だった。

 パールもまた、そう云う思いから〈にゃんとっと〉を好きになったのかも知れない。

 次にジャポンに行く時は、こちらが彼女にプレゼントすると決めていた。


 ジェスは父に付き添ってファミリーの仕事を手伝っている。

 元々街での〈トラパネーゼ〉ファミリーの活動は勧善懲悪である。その仕事の多くは裁判所に顔を出し、それを見届ける事にある。

 法で裁く事の難しい案件に関わって行き、非合法な制裁を加える裏稼業だ。平和な国で育った彼には刺激の強い物である事は間違い無いだろう。そんな状況でも、彼は嫌な顔を見せずに仕事をこなしているとアルテージが云っていた。

 彼は今ではジャポンから持参した学生服は来ていない。高級ブランドのスーツに身を包み、まさに出来る紳士に変身していた。

 〈メイドポスト〉によれば、出来る紳士は形から入ってくる物だから、服装をチェックする事も重要な淑女の嗜みだそうだ。


 部屋にノックの音が響き、ドアが控え目に開かれる。ドアの前にたったベルコーレは頭を下げると、


「お嬢様、そろそろ準備は出来ましたか?」


 そう云う彼女に返事を返す代わりに立ち上がり、ドアへと向かう。今日はこれから、メリーニと市街までネックレスを買いに行く約束をしていたのだ。

 ちょっと普通の女の子を目指して見ようと、シルクのワンピースに着替えると、サングラスでは無く、パールから貰った伊達眼鏡を掛ける。眼鏡のフレームには〈にゃん〉と云うキャラクターが描かれている。

 メリーニがいて、パールやジェスがいる。そんな世界が良いものだと思って外に出る。

 すると、朝を喜ぶように鳩が鳴いていて、それを聞くとジェスが思い浮かんだ。

 そして、鳩を見つけて云う。


『おはよう。鳩さんっ』


 そうだ、メリーニとお揃いのネックレスは、鳩の飾りがある物を選ぼう。こんな、平和とは程遠い国だけれど、いつか皆が普通の生活を送れる様に願いを込めて。


――それを見ていたベルコーレが感極まっていた事を知るのはまた別の話である。粗暴な少女は、淑女を目指してこの先も奮闘して行く事だろう――

これにて、完結でございます。

お読み頂きありがとうございました。

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