語りあい
次第にアイヌと和人の恋が始まる。
その日、家に帰った信一は寝床の中でも夏休みの事を考え続けた。
どうすれば・・・いつもの様に亮子と一緒に居られるのだろう・・しかし、頭の中ではグルグルと同じ言葉が回転するだけだった。
次の日の朝、亮子は信一に告げた。
「わたし、夏休みに吾妻屋で暮らす事にします。」
「吾妻屋って何だ・・?」
信一は突然の聞きなれない吾妻屋と言う言葉に戸惑いを隠せなかった。
「義父が私の為に作ってくれた小さな離れ屋の様な物で、時々そこで暮らしているの・・」
「よく解らない・・けど・・」
「臨海学校の予行演習だって義父には話したけど・・義父は私が一人で居たい事を察してくれているようだったわ・・・」
「よく解らないけど・・・」
「ま・・・いいか・・・亮子が言うのだから・・間違いは無いだろう・・・」
信一は理解できなかったが、全て亮子に任せて置く事だけは理解できていた。
「だから・・・僕がその吾妻屋に行けば良いわけだろ・・・」
「そうよ・・私だけの御家だから・・」
「私だけの・・・・?」
「二人きり・・・?」
「信ちゃん・・・何を考えてるの・・・」
空想好きは両親だけではなく亮子にも学校の皆にも知れ渡っている事だった。
その日からは時の過ぎるのが早く早くなった。しかし、夏休みの計画は信一や亮子だけではなく皆が楽しみにしている事であろう筈であった。当然とは言え終業式の下校時には誰もが夏休みの話に花を咲かしているのであった。
「じゃ・・・明日・・・」
二人の間には夕日が祝福している様に包み込んでいた。何時までも夕日の中で二人の面影は映って居る様に時間だけが動いているのであった。
そして、夏休みは計画通りに始まった。
信一は毎日の様に臨海学校の準備だと言っては朝から日が暮れるまで涼子の隠れ屋にもぐりこんだ。信一は臨海学校の時の委員を申し付かっていた事は確かだったが、その役割に何の関係もなかった。そして、亮子の吾妻屋は隠れ屋と呼ばれるようになった。
この隠れ屋は天野中佐が亮子の為に用意した物でアイヌの伝統的な家の造りになっていた。亮子はアイヌの伝承者を受け継ぐ為の品位と品格を備えている事を中佐はよく知っていたし、それが故に亮子を自身の娘として大切にしようと心に誓っていたのであった。
信一は亮子の本当の姿を知る事は無かった。信一にはアイヌが何者であるのかなど知る由もなかったからであった。しかし、それが、かえってアイヌの姿を正しく理解する為には好都合だったのである。
「亮・・・・この家って・・なんか変じゃないか?」
「何が変なんですか?」
「だって床が無いじゃないか・・・」
「この方が冬には暖かいのですから・・・そう、大地の暖かさで寒さから守ってくれるのよ。」
「う・・・うん・・・」
毎日の様に亮子と過ごしている内に理解しがたい事でも本能的に理解してしまう信一がそこには居た。
離れ屋はアイヌのチセ(家)を忠実に再現した物で玄関から土間を通り一段低くなった土間のままの居間に通じていて、居間には囲炉裏が中央にあって、その周りだけを板で床が作ってあった。その為に外観の屋根は低いが中は広く居間の周りには3つの高床の寝床が備えてあった。この家はアイヌのチセの中でも比較的大きな造りとなっていて来客があった時の事がきちんと考えられた造りだった。
信一は朝一番に隠れ屋に来る為、亮子が来るのを何時も待つ立場だった。
「今日はちょっと遅かったんじゃないのかな・・・」
信一は長く待った不満を亮子に表わそうとしていた。
「今日はお父様が家にいらっしゃって・・私の歌を聴きたいそうだから夜にしてもらったの。」
「ふー・・・ん」
信一は待つ立場であり、聞く立場であった。
離れ屋は中佐の家の広い敷地内の一角に作られていたが亮子が使う時には中佐は干渉しなかった。アイヌの特定の儀式など中佐には解らない事に使われる物であった。一定のアイヌの伝承者が集まる場所としても使われる事もあった為に出入り口は中佐宅の門柱とは別の門柱が用意されていた。
最近では、遠い親戚の叔母が来ていると亮子は義父に伝えていた。
「亮子さん・・・」
信一が改まって亮子をさん付けで呼んだのにはアイヌの姿を知りたいと言う欲求からだった。
「はい・・信ちゃん・・どうしたの急に・・・」
「アイヌって・・・どんな人達なんだろ・・」
「この北海道に大昔から住んでいた本当の先住民です・・・私たちはアイヌ モシリと呼んでいます・・意味は私たちが住む土地と言う意味です・・・アイヌと言う呼び名は倭人が付けた名前で私たちの物では無いのです。」
信一は急激に変化した亮子の表情に少し戸惑いを持った。
亮子の目は真剣そのものだった、普段の優しい瞳とは想像もつかない程だった。
「亮子って怖い顔の時も有るんだね・・」
「怖い顔・・ですか・・何時もと同じだと思いますけど・・」
亮子はアイヌの事を話す時には本来のアイヌの心に戻っている事を知らなかった。
「いいや・・・お化けが出て来そうなくらい怖かった。」
「そんな事無いです。」
「でも・・なんか怖そうな顔も好きかも知れない・・・」
信一は亮子の事をもっと知りたかったし、もっと深く亮子の懐に抱かれたかった。
「だから・・・お母さんはどんな人だったの・・・」
「母は1年前に亡くなるまで私と二人暮らしでした。」
「父は昔、アイヌの集落の村長の家に生まれ、和人に追われて登別の母と知り合い一緒に暮らすように成ったのですが、3年前に戦争に借り出され戦死しました。」
「幼い頃から母は私にアイヌの神謡を教え山の食べ物などアイヌの暮らしに必要な事を全て伝授してくれました。」
「もし私が一人になっても生きて行ける様に準備していたのかもしれません。」
信一は自分の怠惰な生活に嫌悪感を見つけてしまった。
亮子が自身の存在について、これ程までに真剣に考えているとは知る由もなかった。
「私はアイヌの娘として運命を背負って生きて行かねばならないのです。」
「信一様の御傍に居られるのは今だけかも知れません、だから少しでも長く信一様と一緒に・・」
亮子の表情は次第に曇っていった。
「わかった・・だから・・・お腹すいた・・」
信一はこれ以上は亮子の姿を見る事が辛かった、自分が苦しめている様に感じるからなのである。しかし、亮子は少しも止め様とはしなかった、むしろ全てを曝け出し信一の胸の中で泣きたかったのであった。
「信ちゃんだから聞いて欲しいの・・そして、私を知って欲しいの・・」
「これからの私の姿も、たとえ離れて暮らす事になったとしても・・」
「私の中の信一様は変わらず心の中に住んでいて欲しいから・・」
ここまで話した時点で亮子の瞳は今にも溢れようとする涙で潤んでいた。
「僕は亮子と離れえる事は無いよ・・ずっと傍に居るから・・安心して・・」
亮子の姿は霞んで見えた、信一の瞳にも涙の粒が滲んで来ているのだった。
「でも・・中学校は別かもしれないし・・・その後なんて誰にも分からないから・・」
「それでも傍に居る絶対に亮子の傍から離れる事は無いのだから・・・」
亮子と信一は互いの瞳を見つめ合って微動だにしなかった。
それが告白であり、愛の証であったのかもしれない。しかし、二人はその事に気づく事も無く次の瞬間から以前の二人の会話に戻っていたのであった。
「お昼ごはんの材料を取りに行きましょう・・」
「おう・・」
毎日、信一は亮子のアイヌの手料理でお昼ご飯を食べていた。
「今日は何処に取りに行くの・・」
「今日は豊平川の少し上流・・」
「学校がある、あの川か?」
「あの川はアイヌ語ではサッポロペツと言って、その周りがユククリと言っていた所なの・・・今の山鼻がそれで豊平川の少し上流に山鼻川が流れているから、そこで魚を取りましょう。・・・」
信一には半分以上、理解できない話だった。しかし、亮子の向かっている方向は五月下旬に春蝉を見に行った場所に近かった。
「ここは子育ての鳥たちが囀り合っていた山だよね・・」
「そうよ・・この山を水源にしているのが山鼻川・・豊平川には殆ど魚が居なくなっているから、山鼻川で魚を取りましょう。」
「え・・・魚を取る・・ですか・・」
亮子は辺りの木の枝を手持ちの小刀でさっと削いで先を尖らせた。
その先を川に向けて真剣なまなざしを浴びせたと思うと瞬時に川に突き刺した。木の枝先には20cmほどの魚が付いていた。
「亮子って何者・・どうして・・こんな芸当が出来る訳・・」
亮子はあっと言う間に次の獲物も捕まえた。
その獲物は枝に刺して持ち、次々に山菜を摘んで手に溜め込んだ。
「その芸当は何時見ても凄いよ・・目を瞑っていても出来そうだものね・・」
「魚も山菜も在るべき所に在るのよ・・だから、在るべき所を知っていれば誰でも出来るの・・」
「在るべき所ね・・僕の在るべき所は亮子の隣だけどね・・」
「そう言う意味の話では無いのだけれど・・・」
亮子は信一の心根が手に取る様に判っていた。だから、返答も的確であり信一を納得させるには十分すぎた。
「お腹の虫がそう言っていると思うけど・・」
「ばれたか・・・」
亮子と信一は離れ屋に戻り獲物達を料理した。囲炉裏の周りには魚の焼ける香ばしい匂いが立ち込め信一の食欲は頂点に達していた。
「亮子の手料理は何時も感心するよ・・」
「有り合わせの物だけど御口に合うかしら・・」
アイヌの食事に使われる調味料は塩と昆布、山菜、そして、動物や魚の油を煮詰めた物だった。これらの調味料は汁物に使われアイヌの食卓に出された。
「信ちゃん・・どうぞ・・」
「頂きます・・・」
このシンプルなアイヌの食事は素材の味を生かして実に洗練されていた。
「このお汁の具は何て言うの・・」
「エゾシカの干し肉を戻した物とアイヌネギ、それからキノコね・・」
「亮子が捕まえた魚の名前は・・」
「山女ね大人はサクラマスなんだけど・・山女の方が小さいから・・」
二人の食卓は何時も賑やかだった。
亮子は殆どアイヌの料理を作った、自宅からお手伝いさんに頼んで日本料理の食材を調達する事は簡単だったが、亮子は信一にアイヌの事を正しく理解して欲しかったのだった。
度々、繰り返される信一の質問が笑いとなって二人を包んでいった。
「山女・・山の女ってどう言う意味・・・」
「山女はサクラマスが川に居ついた物なの・・だから山に嫁いだから山女・・」
「じゃあさ・・鯨が山に嫁いだら・・」
「鯨さんが山に嫁げないでしょう・・・」
つづく・・・・