再戦に向けて
遥か彼方の大地にまで広がる平原の草が、果てしない緑の絨毯のように風にそよいでいる。空は高く澄み渡り、白い雲が静かに流れていく。
ルスタリア東部を広く占めるデュアール平原──。
その只中を、西へと向かうひとりの少女の姿があった。
長い赤紫色の髪をなびかせて、しなやかな体の背には、燃え立つ力を秘める神秘の長剣を背負っている。
その剣の魔性に気負い負けせぬほどの決意とともに、凛とした気品を漂わせた少女──ルスタリアの王女ルナ・ユースティ・レミナレスであった。
草原を抜ける風が少女の耳元でささやくように吹き抜け、何かを告げている。それに応えるように、彼女は一旦足を止めた。
伏せていた顔をゆっくりと上げ、まだ数十キロ先にある故郷エルシエラを見据える。
──母上……父上……もうすぐだよ。もうすぐ帰るからね。
心の言葉は風に溶け、誰にも届くことなく、ただ彼女自身の胸の奥へと沁み込んでいく。
リュネシスたちが〝幻夢城〟にたどり着いてから、四日目の朝が訪れようとしていた。
ルナが馬を用いず徒歩で進んでいるのは、己の存在を気配の底へと沈めるためである。
すでに不死王リッチの張り巡らされた諜報の網は、空気の隙間すら許さぬほどに緻密であった。
彼女の肩の後ろに背負っている、見事なまでの黒い長剣──それは、炎の魔女アカーシャから譲り受けた、伝説の聖剣〝炎の剣〟であった。
魔王リュネシスが手にする〝雷煌聖舞〟や、大地の戦士ヴォロスが駆使する〝大地の剣〟に並び立つ〝四大聖剣〟のひとつと言われ、この世界が創造された原初の炎から、神によって創り出されたとされる最強の剣である。
だが今、その刃は沈黙している。まるでまだ——戦いの序章すら物語るべき時ではないことを、知っているかのように。
昨日の夜──。
アカーシャから『大事な話がある』と告げられ、〝幻夢城〟の地下室に導かれた。
くらい室内の床には、青白い光を放つ魔法陣が浮かび上がっている。
その中央に厳かに置かれていたのは、一本の長剣であった。
それは、炎を宿す剣でありながら、今はその力を抑えている。
刀身は黒鉄にも似た深い色をたたえ、光を拒むかのように重く沈黙している。かつて灼熱に包まれていたであろう痕跡は、かすかな朱の脈動となって閉じ込められ、触れれば目覚める危険な獣のごとき気配をはらんでいた。
柄にはめ込まれた宝石は、燃え尽きた残り火のように静かにくすぶり、その光は外界ではなく、内なる何かを見つめているようである。装飾のとげは禍々しくも優雅な曲線をえがき、持つ者を選ぶ意思をあらわにしていた。
剣の正面に佇むアカーシャの表情は、常の妖艶さを脱ぎ捨て厳格そのものだった。
「ルナ」
「は、はい!」
ただならぬ雰囲気に、少女は背筋をピンと伸ばす。
「あなたに受け取ってほしいものがあるの」
向けられた眼差しは静かだが、少女に逃げ場を与えない。
「それって……?」
「〝炎の剣〟よ」
驚いたように問いかけてくるルナに、アカーシャは口元をふっと緩めて応えた。
「火の精霊界を掌握した者が、その証として手にすることのできる伝説の剣──この剣を、今からあなたに授けます」
まるで子供に菓子でも分け与えるかのごとく、さりげなく言ってしまう黒衣の魔女に、ルナは思わず声を張り上げた。
「そんな大事な物もらえないよ!もう〝炎の指輪〟だって頂いてるし!!そんな──」
「不死王リッチを倒したいんでしょ?」
アカーシャは優しい笑みを崩さぬまま、少女の言葉を遮った。
「これはね……私が炎の支配者として長年所有していた剣だったけど、扱うことのできなかった代物なの。なぜなら私は魔導士だから……でも、竜族の正統継承者であるあなたにならきっと使いこなせるはず。少し時間がかかったけど、聖剣との契約を私からあなたに更新しておいた。今から最後の儀式を済ませましょう。〝炎の指輪〟も、〝炎の剣〟も、すでに私ではなくあなたを選んでいるのよ」
「……」
言葉は穏やかだったが、そこには一切の拒絶の余地を与えぬ決意が込められていた。
アカーシャはルナに歩み寄ると手に白い掌を添えてくる。ひやりとした感触だが、なぜか不思議と温かく感じた。
少女は、もう何も言い返せなくなっていた。
「リッチの唯一の弱点は炎なの。だから〝炎の剣〟を使いこなせる者ならば、必ず奴を倒せるはず。今のうちに少しでも、この剣の扱いに慣れておくのよ。〝炎の指輪〟とも相性のいいあなたになら──いえ、あなたにしかできないことよ」
魔族の姫アカーシャの視線を正面から受け止めて、ルスタリア王女ルナの表情もいつしか烈しさを増していった。
「ルスタリアを取り戻すんでしょ?あなたの手で」
「……はい」
「みんなの仇を討つと、誓ったんじゃなかったの?」
「はい!」
ルナの返事が、溌溂と大きくなっていく。
見つめ合うふたりの魔少女の瞳が、同種の紅で、熱く勁く燃え上がっていく。
「だったら迷わず進みなさい!できることを全部やりきるの。これはあなたの剣なのよ」
「はい!ありがとうございます!!」
その瞬間、アカーシャに対して残っていた複雑な思いすらも燃え尽きる。
残されたのは彼女に対する深い信頼と、言葉にできぬほどの感謝だけであった。
儀式を終えると、ルナは授かった剣を大切に抱きながら、深々と頭を下げていた。
そんな少女に、アカーシャは満足そうに微笑みかける。
「よろしい」
そして──。
新たな主を認めたかのように〝炎の剣〟の刀身に、燃えるような熱が粛然と宿る。
それは剣が、今後この世で起こるであろう天地鳴動の戦いの予感に震えている熱の鼓動でもあった。
かの剣の秘めた大いなる力を、存分に解き放つことに神意が応えた印なのだ。
現在──。
背中から射し込む朝の光が、ルナの歩みを照らしていた。
かつて滅び、しかし今や奪還を待つ王国──その救国の英雄たらんとする若さあふれる王女を、太陽が祝福するように黄金の光で包んでいく。
これまでの旅の様々な出来事を想起する彼女の足取りは、自信に満ちて軽やかだった。
だが、それだけではない。
瞳には赤い原色とは異なる種類の炎が宿り、何者にも屈しない鋼の意志として浮かびあがっている。
上弦の月の最も輝く今夜──その時こそが竜族の戦士ルナが、持てる力を最大限に発揮できる勝機の瞬間であった。
少女の鼓動が、待ちわびた戦いへの期待に〝ドクン、ドクン〟と高まっていく。
そしてさらには、魔王リュネシスから与えられた風の加護が──水の精霊ディーネから享受された〝陰態〟の秘技が──炎の魔女アカーシャから授けられたばかりの〝炎の剣〟が──それら幾重もの、大いなる託された力が、驚異的な成長をとげた少女に、前回の不死王リッチとの敗戦を覆すほどの勝利をもたらさんと彼女を支えている。
だが今は、決戦への渇望を抑えて、無双の王女は〝炎の剣〟にそっと掌を添えていた……。




